アントーニョの様子がおかしい。どうやら表の世界に行った辺りからなのだが、23人目のフランシスは状況が把握できていなかった。あの日23人目は表のピエール少年と和やかな時間を過ごしており、特に妙なことはなかったし少年は可愛くて話しているだけでも楽しかった。もちろんフランシスにはアントーニョがいるのでちょっと口説いただけで変なことをしたりはしていないのだが、何人かのフランシスはそれなりに楽しんだらしい。
「どうかしたのかい、23人目のフランシス」
通りで溜息をついていると、後ろから声をかけられた。
「ああ、アルフレッドか……いやね、アントーニョが」
こちらに帰ってきてからというもの、マフラーを握りしめては溜息ばかりをついている。こちらの話を聞いているのかどうかもはっきりしない。「俺もあったかくした方がえぇかな」とか言っている。猫科だというのに服でも着るつもりなのだろうか。
アントーニョとフランシス23人目は、恋人同士ではない。フランシスはアントーニョのことを好きだと言っているが、いつもかわされてしまうのだ。それでも、アントーニョは自分にいくらか気があるだろうと思っていた。好きだとかそういう言葉を受け入れてくれる程度には。
『お、俺こっちで恋してしまったかもしれん……』
それが、この発言である。驚いた。そもそも表の世界にいるのは自分たちとは似ているが人間であり、こちらは猫科の生物である。つまり異種族だ。本気であるわけはないだろうと思って過ごしていたが、だんだんと不安になってきた。
(まさか、アントーニョのヤツ、本気で?)
アントーニョの要領を得ない説明によれば、表の世界にいる可愛い女の子に寒いだろうからとマフラーをかけてもらったというのだ。それで、その一瞬だけでだ。会話したわけでもない。それではまるで一目惚れではないか。
もともとアントーニョは時間がないからといって表の世界の人を襲うような真似には反対していた。何人かいる本物の変態のフランシスについても、表に寄越すことにいい顔をしなかったくらいだ。実際何人も剥かれているのを知れば顔をしかめるくらいはしただろう。アントーニョは優しいのだ。ただし今のアントーニョは頭の中がお花畑のような状態なので、そのような状況にあまり気がついていないようだが。
「はぁぁ、どうしたらいいんだろうね、お兄さんは」
「なんだか知らないけど、頑張ってくれよ、23人目のフランシス。これ食べたら元気になるぞーう?」
アルフレッドはそう言ってハンバーガーを差し出した。図体はでかいが性質は子供っぽい。それでもフランシスにとっては可愛い甥っ子みたいなものなので、黙って受け取った。にこにこと笑顔のアルフレッドにはなかなか癒されるものもある。ジャンクフードとばかり思っていたハンバーガーも一口食べたら、なかなか美味しかった。
「あ、ついでにバニラシェイクもあるぞ?」
「お前っていい子だよね……」
思わずつぶやいてしまったくらいだ。
「あれー、フランシスやん。なにしとるん? あ、アルもおった」
ちらっと聞いたところによれば、表の世界のアルフレッドとアントーニョは仲が悪いらしい。どのような事情でそうなのか分からないが、こちらの方とはずいぶん異なっている。アルフレッドはアントーニョにとってもフランシスにとっても甥っ子のような存在だし、アルフレッドはアントーニョに特に懐いていた。持っていたバニラシェイクをアルフレッドはこちらにバトンタッチすると、名前を呼びながらアントーニョに向かってダイブする。抱きついた。
「おおふ、アルは相変わらずやな」
受け止めるアントーニョの方が小柄で、まるで大型犬がじゃれついているみたいに見える。無邪気なアルフレッドとアントーニョのスキンシップは見ていてとても癒された。特に、ここ最近のアントーニョの様子がおかしかったことを考えれば尚更だ。普通にアルフレッドとじゃれている姿はまったくもってほほえましい。
「フランシスどうしたん?」
23人目のフランシスに番号をつけて呼ばない。それはつまり、彼にとって特別だということだ。そうであって欲しい。
「なんでもないよ、アルフレッドは元気だね……」
「あはは、せやなぁ」
少し前まではもう少し悩んでいたような気がしたのだが、今日のアントーニョは落ち着いて見えた。ずっと首もとにかけていたマフラーも消えている。
「ねぇ、アントーニョ。マフラーはどうしたの?」
「あぁ……あれなぁ。うちにあるで?」
アルフレッドがようやく離れて、フランシスに預けたバニラシェイクをふたたびすすり始めた。ズルズルと音がするので少し声が聞き取りにくい。
「ほうなのかい? ズズズズッ、てたズズズズッけどズズーッ」
「アル、飲んでからしゃべりぃや。いつも言うとるやろ?」
アルフレッドはアントーニョの言葉に素直に頷くと、ストローから口を離した。
「似合ってたのに」
「おお、分かっとるなぁ、アル! せやねん、よう似合っとったやろ?」
「アントーニョ、話が脱線してるんだけど」
「あ、せやった。あんなぁ、俺、決めたんや」
強い口調にフランシスは一瞬背に冷たいものが走るのを予感した。アルフレッドはアントーニョの話に興味はないらしく、遠くに見つけた友人に手を振っている。そのまま駈け出してしまった。
「表ん世界に行くわ!」
「え、な……」
「そんでな、あの子探し出して、お嫁さんにしたる! 向こうの世界に留まるんや!」
アントーニョはいつもふわふわとしていて、現実感がない。本気で言っているのだけれど、大概はそのまま通り抜けてしまう。表の世界に行く? どうやって、と言うのは現実に行った自分には口に出しにくい。あの時は偶然に行けただけだけど、繋がることが不可能なのではないだろう。
「って言うても、断られてまうかもしれへんけどなぁ……でも、ここでうじうじしとんのは性に合わへんから」
きらきらとしたエメラルドの色をしたまなざしは、フランシスには知らぬ女の子に向けられている。表の世界にいる見知らぬ女性。
「マフラーも返そ思て、家に置いてきたんやで」
もう、本気なのかと聞き返す必要はなかった。アントーニョは本気で、表の世界に行ってしまおうとしている。自分とは二度と会えなくてもいいと思っているのだ。もちろん彼に悪意はない。後先を考えない無鉄砲さ、純粋で素直。アルフレッドと同じくらいに幼くて甘くて芯の強い考え方だ。フランシスには真似ができない。
どこへ行ったって、アントーニョならば上手くやれるのだろう。持ち前の明るさで優しさで、きっと取り込んでいけるのだ。本当は自分が心配する余地などない。
「フランシスも、応援してくれるやろ?」
けれどそんなセリフを聞いてしまえば、言葉より先に手が伸びた。
「できないよ」
ぬっと伸びた手は自分よりも少し小さいアントーニョの身体を捕まえた。
「行かせたくない」
「フランシス、どうしたん――」
「行かせたくない。アントーニョ、お前が好きなんだよ」
腕の中の肩が小さく震えた。何度も言ってきたはずの言葉なのに、アントーニョにはひとつも伝わっていない。こんな状況ならばせめて伝わっているだろうか、と思う。基本的に裏の世界では服を着なくても過ごせる程度には身体の作りができている。表の世界にいたって寒くないのだ。だから、マフラーなんて本当は必要がない。向こうに着いたときに彼との別れ際「気をつけて」と言ったのは寒さにではなく『表の人』にで。それだって伝わっていなかったのだろうかとも思う。アントーニョは本当に鈍い。心配しているのに。表の女性よりもずっとずっと。
「え? なん? フラン、シス?」
「でも、行きたいって言うなら俺には止められない」
上手くいかない、と思う。他の22人よりもアントーニョには近かった。馴染みがあると言えば、彼にとっては自分で。どうして上手くやれないのだろうか。
「ちょぉ待ってぇな。どないしたん? なぁ、フランシス?」
身体を離すとぱちぱちとまばたきをくりかえすエメラルドの瞳が輝いている。
「本気で、言うてるん……?」
「いつも本気のつもりだったんだけどね」
苦笑するとアントーニョの動きが固まった。思考が停止しているようにまばたきばかりをくりかえしたと思えば、ゆうに一分くらいしてぼんっと顔が赤くなる。
(もしかして、今、初めて伝わった?)
わたわたと手が動いて、ぴょこぴょこと猫の耳が揺れる。
「それなのにお前は、表の女の子に惚れ込んじゃうし」
諦めたように肩をすくめると、アントーニョはあたふたと両の手を振りながら言葉を紡ぐ。
「あ、そ、それはな――」
「いいよ。行っておいで。向こうに行ってもお兄さんのこと、忘れないでね。あと、服はちゃんと着ないとマズイらしいから気をつけて」
行かないで欲しいというのは単なる自分の願望だ。それで引き止めるつもりなどない。ただ、最後まで伝わらないのはさすがにツライと思ったくらいで。ぽんと頭の上に手を置いてやると、アントーニョはぶんぶんと首を振った。
「ま、待ってや、フランシス」
「ん、なに? お別れの言葉? アデュー?」
「ちゃうねん。今の」
乗せた手が振り解かれて、エメラルドのまなざしが真剣にフランシスの目を囚える。
「今の、マフラーよりきゅんとした。……どないしよ」
その言葉にこちらの心臓も掴まれた。