まだ自分が幼かったころ、アントーニョの誕生日だと聞いて花を贈った。赤い赤い花は彼の国の花で、アントーニョは破顔してそれを受け取ってくれた。愛想の悪いロヴィーノの態度など気にもとめず、たった一本の花をうれしそうにテーブルに飾っていた。そのたった一本がぐにゃりと折れ曲がってしまうまで、アントーニョは毎日それをうれしそうに見つめていた。ロヴィーノの中に無数に存在する遠い記憶のひとつだ。
「誕生日だろ、やる」
小さな部屋で押し付けるようにアントーニョに小さめの箱を渡すと、彼は驚きながらもそれを見てまたほほえんだ。
「ありがとうなぁ、ロヴィ。ごっつうれしいで!」
くりかえされる行動は、儀式にも似ている。アントーニョはただ笑って素直にプレゼントを受け取るのだ。たったそれだけ。最初はたしか「ロヴィーノが素直に祝ってくれるなんて思っとらんかったわ!」とか言っていた気もするが、毎年渡すだけのその行為についてとやかく言うこともなく甘受していた。たぶん渡した物はすべて、アントーニョの部屋に飾られているのだろう。直接見たことはないが、なんとなくそう確信していた。
枯れたカーネーションの花をアントーニョは名残惜しげに見つめていたけれど、終いにはテーブルからなくなってしまっていた。その理由を聞けば「花は生きているんが一番幸せな時間なんやで」と彼は答え、ひどく淋しげな様子でロヴィーノにエバーグリーンのまなざしを向けた。ああ、花は枯れたら失われるのだ。そのときロヴィーノは、そのようなことを幼い胸に染み込ませた。儚い物を思い、同時に彼の手になにも残らないことへの寂寞感を募らせる。けれど、それをアントーニョが望んでいたように思われた。そういう瞬間や刹那を。
「今年は、万年筆なんやね。へぇ、さっすがイタリアのんはお洒落な感じやなぁ……」
パールホワイトの万年筆を白色蛍光灯のもとに掲げて、アントーニョは瞳を細める。ロヴィーノはなにも答えなかった。今年は、という彼の言葉の裏に無数の存在を思い起こす。そう、あげたものすべてが彼の中に刻まれているのだ。そのような言葉からの確信はひどくロヴィーノを歓喜させた。いくつもが、アントーニョを包囲している光景を思う。きっといつか逃げ場などなくなってしまうほどに。あげるならば食べ物がいい。アントーニョは昔そんなことをつぶやいていた。食べてなくなればそれで終わりだから、その方が記憶を汚す必要もない。それが本当だとすると心を占拠したいのならば、カタチに残る物をなにか。ひとつでも。もっと、多く。そのうち記憶の奥深くにまで浸透してしまうように。
「おおきにな。大事に使わせてもらうわ」
伏せた瞳がプレゼントを見つめる。近づくと長めの睫毛。アントーニョはきっと、気づいていない。
注文したそれが届くよりも前にロヴィーノは家の前に佇んでいた。いまさら緊張するというようなことでもないのだが、さすがに今日のような日には深呼吸の一つもしたくなる。しかし、呼吸を整えようと思えば急に扉が開いた。
「あれ、ロヴィーノなにしとるん?」
まるでいつも通りの格好でアントーニョは玄関から出てくると、きょとんとロヴィーノを見ていた。綿シャツの胸元でリボン結びにされた黒い紐が風に揺れている。
「はよ入り?」
「……用事、入れてねぇみたいだな」
「ロヴィが来るって言うてたやん」
アントーニョは両手を広げ、なぁんも入れてへんよ、と笑った。その能天気なほほえみに、今日がなんの日だか忘れているようにすらこちらには思われる。しかし国にとっては一つの重要なイベントだから、誰かが伝えているはずではないだろうかとも思われるのだ。
いずれにしてもロヴィーノは拍子抜けした。顔を合わせたらどのように言えばよいのか思案していたというのに、これでは緊張もなにもありやしない。
「寒いやろ? ほな、中入りぃな」
ありふれたいつもの光景のようにアントーニョが一度閉じた扉を開く。外の方が夕陽に照らされて明るいはずなのに、彼の部屋は温かくてそれよりも光が溢れているように思われた。懐かしい匂いと空気が満ちている。手を引かれた幼い記憶が鮮やかに今でも蘇るのだ。
「」
部屋に入る前に声をかけると、アントーニョはまばたきを数回した。そしてふわりとほほえむ。
「Grazie!」
ほとんど聞きなれない自国語が飛び出してきたので数秒して反射的にロヴィーノは笑った。それを見たエバーグリーンの瞳が慌てたようにもう一度またたく。
「ま、間違っとった?」
「ちげぇよ、バカ」
自分のためにわざわざ覚えたのだと、思った。美しい緑の瞳の輝きは自分のためだけに注がれている。ずっと、その確信が欲しかったのだ。昔からアントーニョはロヴィーノを一番にと可愛がってくれていたけれど、それがどこまでなのか分からなかった。子分だから子供のように、親愛を注ぐ。けれど、他に大切な人ができたらそちらの方へと優しいまなざしを向けてしまうのではないだろうかと思っていた。ただそれを恐れて怯えていたのだ。だって自分には彼しかいないのに。恋人になりたいと望んだのは、独占欲からくる我儘なだけだったのかもしれないと思ったこともある。
ロヴィーノは褐色の腕を引いてさっと唇にキスをした。うれしかったのだと言葉にするのは気恥ずかしい。そもそもあまり素直な物言いは向いていない節があるのだ。
「ロ、ロヴィーノ、そういうんは、家入ってからにしてや……」
「今しねぇと忘れる」
邪魔するぞ、と言いながらつかつか玄関に入り込んだ。後ろから「忘れるなや!」とツッコミが返ってきていたが気にしない。
キスをして、アントーニョが動揺する様子を見るのが好きだった。彼から向けられる感情に恋愛が混ざっているのだと認識できる。女性のようにやわらかいばかりでない唇の感触も、触れた瞬間の温度も鼓動も愛しい。触れるたびに感じる想いはただの独占欲では説明がつかないものばかりだ。キスをすれば、そのことを強く思い知らされる。それにしたって自分の感情に確信が持てないかのような行動は、ロヴィーノが自分なりに考えても複雑だった。
「……メシ、作ってやるから座って待ってろ」
リビングに先にたどりつけば、パタパタと後ろからアントーニョが追ってきた。買ってきた食材をテーブルに下ろし、振り向かずにそう言うと、アントーニョは驚いたように「え」とつぶやく。
「ディナーだよ! なんだよ、悪ぃのか?」
「え、や、そういうわけやなくって……珍しいな、思て」
「俺がメシ作るのがか?」
そういえば何度チュロスを作り置いてもロヴィーノが作ったのだと気づかない男なのだ。いつ言ってやろうかと思っていたが、機を逃してそのままになっている。しかしその他にもたまには料理くらい作っているつもりだ。どういう了見だと振り返って眉間に皺を寄せれば、アントーニョは両手を顔の前でひらひらと振った。
「ちゃう! えっと、楽しみに待っとるさかいな!」
そうして慌てたようにモスグリーンのソファにダイブした。相変わらず子供っぽいその行動に呆れながら、ロヴィーノは台所へと向かう。珍しいという言葉はたしかに正しいと、心の中では思った。
「ロヴィ、ピッツァ焼くん?」
「あぁ……お前、マルゲリータが好きだっただろ」
ロヴィーノは、パスタを茹でる鍋を探しながらやや遠い声に返事をする。几帳面というほどでもないが、案外台所は整頓されているのだ。目的の鍋を見つけてシンクの下の収納場所から顔を上げると、ふたたび声が届く。
「マルゲリータもえぇけどな、たまには別のもえぇんとちゃう?」
「……別の?」
「いつものは、ナポリ風やろ。ロヴィのお得意の」
食材を取りにテーブルにもどれば、片目をつぶったアントーニョと目があった。
「ナポリタンは日本料理」
「それは知っとる」
くすくすとアントーニョは笑う。
「ロマーナは? ローマ風、薄焼きでそれもえぇなぁ。クワトロ・フォルマッジ――チーズもえぇな」
いつもオーソドックスなマルゲリータばかり作っていたため、アントーニョが意外にピッツァに詳しいことにロヴィーノの方は驚いた。
「たまには、リクエストしてもえぇ?」
にこにことうれしそうに言葉が響いた。エバーグリーンの瞳がやわらかく揺れている。かつて微睡みを与えてくれた穏やかで綺麗な輝き。
「"Cumpleanos"だからか」
「せや! 今日は、特別なんやで」
誕生日は特別だとかつてロヴィーノにも言い聞かせるように言っていた。その日一日の王様で、女の子ならばお姫様。エマにも言っていたことをふと思い出す。ロヴィーノはソファからこちらを見ているアントーニョの方に近づいて、手をとった。
「残念ながら、今日はマルゲリータの準備しかありません、お姫様」
「親分、姫なん?」
「オ・ソレ・ミオ」
「冗談や」
アントーニョは瞳を穏やかに細める。暮れかけた陽が鮮やかに紅く彼を染め上げていく。これが自分だけの太陽。ひさびさに眩しいと感じてロヴィーノは一瞬目を閉じた。
「マルゲリータ、好きやで――ナポレターナの」
「最初からそう言えばいいんだよ」
ロヴィーノが手を離して文句を言えば、ふふっとアントーニョは満足そうに笑った。おそらく今のは、構って欲しかっただけなのだと思う。けれどたまには別のピッツァでもいいかもしれない。マルゲリータ以外にも美味しいピッツァは山のようにあるのだ。また次に、とテーブルに戻りながら思う。
袋から食材を取り出している様子をも、アントーニョはほほえみを絶やさずに注視していた。いつ見ても無駄に幸せそうにしているのだ。どれだけロヴィーノが冷たい言葉を吐いたとしても、現在のアントーニョはその笑みを崩さないだろう。だからなおさら、自分だけがいればと思ってしまうのだ。それが事実なのか、いまだに分からない。ロヴィーノには、彼しかいないのだ。いまさらそんなこと、知りすぎている。
モッツァレラチーズにバジルを袋から出した。トマトはどうせアントーニョの家にもあるだろうからと買っていない。パスタはやはり、イタリア製に限る。いつもはティラミスなので、たまにはドルチェも変えてみた。ビスコッティにズコット、トルタ――甘い物を好んでいる彼に似合いのチョイスだろう。もちろんチュロスとショコラータも作るが、これらの材料はむしろアントーニョの家に揃っているので用意してこなかった。
「なぁなぁ、ケーキは? あらへんの?」
「デコレーション作ってやるから待ってろ」
「おおー、ロヴィーノもそんなん作れるんやね。楽しみやわ」
馬鹿にするなと睨めつけてもやっぱりアントーニョは笑っている。誕生日プレートでも作ってやろうかとロヴィーノは思った。デカデカと、誕生日おめでとうの文字を乗せて。
料理を作り始めて一時間ほどして、玄関のチャイムが鳴った。音に反応して起き上がったアントーニョを制したロヴィーノが玄関まで出れば、頼んでいた物が手に届けられた。満足して受け取ると、ロヴィーノはそれを抱えてリビングに戻る。
「ロヴィ、それ――」
「誕生日プレゼント、だ」
アントーニョはふらりと立ち上がるとロヴィーノの元へと寄ってきた。芒洋と瞳が揺れている。真っ赤な、カーネーションの花束。そろりと褐色の指先がそれに触れ、アントーニョはロヴィーノの方をじっと見つめた。
「懐かしい」
「覚えてんのか?」
「忘れるわけないやろ……初めて、祝ってもらったんやから」
愛おしそうに花を見つめるその瞳は、ロヴィーノが昔見たものと同じだった。カタチになど残らなくても、記憶にはいつまでも留められている。遠すぎる記憶だというのに。分かっていた。アントーニョが自分のあげた想いを忘れるはずなどないと知っていたのだ。それでもカタチに残さなければ不安だった。消えてしまうということが名残り惜しくて刹那くて、ただそれだけを想い、ずっとカタチを贈っていたのだ。
「栞にしてでも、残しておけば良かったんやな。ロヴィ、ずっと気にしとったんやろ?」
生活空間を埋めてしまうような贈り物の群れ。心を占拠していくカタチあるものたち。
「そんなことせんでも、親分、忘れたりせぇへんで」
「分かってるよ、んなこと」
黙って受け取れと花束を胸に押し付けた。まるで幼い自分と変わらない。
「料理も花も、なくなっちまうものなんだ」
その人の中に痕跡は残らない。カタチあるものを見て「そうだあの時にこれをくれた人だ」と思い出すこともないだろう。その人の中に残っていたいのなら、贈るものは消えてしまわない方がいい。
いつまでもアントーニョの記憶を奪っていられるようにと無数に飾られた、古ぼけた贈り物がある。今年は、という言葉の裏に残る甘美な確信と、彼も気づいていたのだという事実。だから、やはり、“珍しい”とアントーニョは言ったのだ。食べたら失せてしまうドルチェもチュロスも。
「栞になんて、しなくていい」
蕩けて消えるその一瞬の記憶を残そうと足掻くことも、それにしがみついている必要も、もうないのだ。
「なにも残らなくても、忘れさせない。――覚悟しとけよ」
真っ赤なカーネーションの花束ごと抱きしめた。
>親分誕生日おめでとーう!! 子分と幸せになってください!