in vitro virus


 先に手を出したのは向こうなのだから、自分は悪くないと思う。
「ロヴィ、また怪我して――! 平気なん? 痛くあらへん?」
 わざわざ玄関まで迎えてくれたアントーニョは殴られて痣のできた頬にそっと触れると、やわらかく目を伏せた。
「元気の出るおまじないする? ふそそそそ〜」
「どうせするんなら聞くなよ」
「元気んなった? 手当てしたるから、リビングおいでぇな」
 ふわふわとアントーニョはほほえんで、先にリビングへと向かった。ロヴィーノは靴紐を解いてから、その背を追う。アントーニョはいつもほほえんで迎えるばかりで、なにも聞いたりしない。あとでロヴィーノが愚痴をこぼせばうんうんと頷いて聞いてくれるけれど、それだけだ。
 バイト先で、また喧嘩になった。理由がどんなことであったのかはもう忘れたが、相手が因縁をつけてきたことはたしかである。腹が立ったから殴ったところを殴り返された。正当防衛だのなんだのと言っていたが、面倒なので無視して、店長に「辞めます」とだけ言って帰ってきたのである。あちらもポカンとしていた。
「今日はロヴィの大好きなパスタやで。カルボナーラにして、トマトサラダも用意してあるんよ」
 救急箱を漁るアントーニョは穏やかにそう告げた。アントーニョは今さっき職を辞してきたロヴィーノとは異なり、堅実に公務員として働いている。バイトの長続きしない二人暮らしを支えているのは実質アントーニョだ。それなのに、家事も器用にこなせないロヴィーノと異なって、家でもよく動いている。食事を作るのもアントーニョのことが多い。たまに遅くなるからと言われればロヴィーノだって作るけれど、そう多いことではない。
 食卓を埋める料理はいつも、ロヴィーノの好きな物ばかり。
「せっかくの男前が台なしやんなぁ……顔は止めたって欲しいわ」
 アントーニョはガーゼに消毒薬を染みこませて頬に押し当てた。傷に染みて「痛ッ」とロヴィーノが声をあげれば、こちらを見る瞳がおろおろとして震える。
「……バイト、辞めてきた」
 衝動的にそう言うと、アントーニョはまばたきを数回して「そっか」とだけつぶやいた。
「理由、聞かねぇのか?」
「殴られたんやろ。それで十分やん」
 頷くと頭を撫でられた。自分よりも細っこい腕なのに、掌は大きくて温かい。なにも考えずに抱きつくと、まだ治療中だと言われた。けれどアントーニョの指先は取り落とされたピンセットには伸びず、そのまま背中を抱いてくれる。
 馬鹿だとは思っていた。いつかアントーニョを支えてやれるようになりたいと思いながら、ずっと職を転々として、彼に全部の負担を背負わせている自分自身が。そして、すべての負担を負ってなお無邪気にほほえんでいるばかりの彼が。文句の一つも言わないで甘やかすのは親馬鹿よりも恐ろしい。
「次はどんなバイトするん? しばらく休んでてもえぇよ」
 言葉になにも返せずに、ロヴィーノはただしがみついていた。

 ロヴィーノは別に、仕事をしたくないというわけではない。けれど金銭的な理由から大学への進学もままならなくて、高校を卒業しても働けるような場所など見つからなかった。どうすればいいのかとかあまり考えずにフラフラしていたところをアントーニョが拾ってくれたのだ。うちにおいで、と。自分だって楽な暮らしをしていたわけでもないのに。一人で暮らしていたアパートに二人で入るのは狭かった。
 ずっとそこで生きていけたら楽だったのだろうが、あまりにも日々の生活に困ったのでバイトをするようになったのである。しかしすっかり世間に対して弄れているロヴィーノが長続きするはずもない。まず、学歴をひけらかすような奴は殴る。そうでなくとも人と協調しようなどと思ったことがない。言われたことはある程度従うが、気に食わなければ反抗もする。こちらが辞めずとも、辞めさせられることは少なくない。アントーニョは事情を知っている。文句をいう電話だって少なくないし、無断欠勤を咎める電話も来るのだ。
「ロヴィ、あんな、今からちょっと出かけてくるなぁ」
 モスグリーンのソファで寝転がっていたロヴィーノは、持っていた雑誌から目を離してこちらを見下ろす影に目を向けた。
「……どこ行くんだよ」
「フランシスんとこ。ご飯奢ってくれるんやって!」
 生活は楽ではない。だから日々の食事だって、給料日が近づけば近づくほどに苦しくなる。アントーニョは昔馴染みの友人が多くいて、彼らはアントーニョの生活を気にしてくれていた。ロヴィーノにも、と惣菜を渡されることだって少なくはない。
「ロヴィも、来てえぇって、言うてたけど……」
「行かねぇ」
「そう言うと思ったから、フランシスにも言うておいたわ」
 アントーニョはくすくすと笑った。
「おみやげ楽しみにしとってなぁ〜!」
 くるんと背を向けると、アントーニョは楽しげな様子で玄関へと向かう。不意に心が寂しくなった。すうっと隙間風が通り抜けるように冷たい。起き上がって遠くを見れば、アントーニョはグレーのコートを着込んで靴を履いていた。「いってくるなぁ」と言う言葉を残してドアが開いて、そのまま閉まる。その瞬間にロヴィーノは飛び起きた。
 仕事をしなければというのは、正直なところ暮らしのためではない。生きていければそれでいいやという気持ちもある。どうせこのままの生き方には進退窮まっているのだ。いつか、など考えたくもない。
 アントーニョが自分しか見えなければいいと思っているのだ。たぶんそうすれば幸せになれる。誰にでも優しいとか、人に好かれるとか、そういうことがなければ。どこへも行かないでここにいてくれるだけならたぶん、飢え死にしてしまうとしても。働かなくても、というアントーニョの言葉だって同じようなものだ。
 コートも着ないでさして厚くもないシャツ一枚で飛び出した空気は冷たい。階段を今まさに降りようとする腕を掴んで、引っ張った。
「いた……ロヴィ、どうしたん、そないな格好で」
 重力に従うように身体はしたたかに床に打ち付けられる。痛いという感触よりもアントーニョの体温が温かいことばかりを思った。いつだって安心する体温が上から覆いかぶさっている。
「もう冷えとるやない。ダメやで、あったかくしとかな……」
 実際のところ、アントーニョが自分しか見ていないことは知っている。なにを放っても駆けつけてくれるし、掛け値ない心配をしてくれるのはロヴィーノにだけだ。こうして甘やかすのも全部。本当は他になにも見えていないのは彼の方なのだ。自分さえ満足できればそれでいいから、と差し出される穏やかな指先。綺麗過ぎる、澄んだ萌黄色の瞳はこちらにだけいつも向けられていた。それでも、この瞳が自分だけ映せばよいと夢想するのだ。彼を愛している。他にはなにもいらないくらいに。
「行くなよ」
 指先に籠めた力が強くなる。冷えた指先は外気に震えていた。それでも、離さないような力を、祈るように握りしめるとアントーニョはふうっと温かく息を吐いた。
「今日は、トマトしかちゃんとした食材が冷蔵庫にあらへんから、トマトスープやね」
「美味しいのか、それ」
「親分の腕を見縊ったらアカンで? 昨日の残りのパスタも入れて、ミネストローネ風にしたる」
 それなら美味しそうだなと思った。どうでもよくなってしまいそうに、彼は温かくて心地がよい。
 ぼんやりしていると、革靴のコツコツとなる音が頭蓋骨に振動して伝わってきた。
「なにやってんだよ、お前ら」
 声には微妙に聞き覚えがあって、相手が誰か分かると余計にロヴィーノは顔をあげるのが面倒に思えたのでそのまま眼を閉じていた。隣の部屋に住んでいる青年は、たしか大学生で過保護な兄を持っている。同じ色の金の髪と、青と緑の異なる瞳の色。アントーニョと同じ色の瞳(もっと青みがかっているが)の、色白の小柄な青年が頭のすぐそこに立っているのだ。
「通るのに邪魔だろ」
「む、アーサーやん」
「……懲りねぇよな、お前ら。ほんっと――」
 その後につづくだろう言葉はなかった。透明なつぶやきだけで風の様に過ぎ去っていく、ように錯覚をしただけだ。アーサー・カークランドは上手く避けて、目的の弟の部屋に入っていった。音だけでそれを確認する。前に「勝手に合鍵を作るのはやめてくれよ」というような会話を聞いた気がした。しかもその後に、居住者の青年は部屋の鍵を変えていたはずである。ロヴィーノはその業者の姿を見たから間違いない。
「自分かて、そうやん」
 アントーニョはつまらなそうにつぶやいた。
 同じであるか否か、ロヴィーノには判別がつかなかった。どちらでも、アントーニョがそこにいてくれればそれで良いのだ。
 どうでもえぇけど、とアントーニョはつづける。
 彼と自分は同じだと、思った。

Special Thanks!! ゆまさん(勝手に心のなかで捧げました)

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