「――せやから、なんでそないなこと言うん?」
言い争いは日常茶飯事だ。こちらをキッと睨みつけるまなざしにも随分と慣れてしまった。アーサーは睨めつけるサマーグリーンの瞳に溜息をこぼす。そうすると、さらにまなざしは冷えたように突き刺さった。
「自分かてブラコンな癖に」
「お前ほどじゃねぇよ!」
ガタンと立ち上がって反射的に言葉を返すと、アントーニョは眉間に皺を寄せた。
「しかも片想いやん。アルフレッドに疎まれとるんと違う?」
「うるせぇ、ばかぁ!」
お前だってと言い返そうかと思ったが、アントーニョとロヴィーノの関係は比較的良好である。残念なことに。愛情を傾けて育てるということをどのように違えたらそうなるのか。アントーニョとて別の方の(彼が言うところの)子分とは険悪だったような気がするのだ。険悪と言っても、アントーニョがそうなのではないことは無論である。突っ返してくるのは主に自分にばかりだ。
そう思うと無性に腹が立ってきた。第一、どうしてアントーニョの家まで来て言い争いをしなければならないと言うのか。もともと悪いのは、アントーニョである。自分が来ていてもお構いなしに電話に熱中したりしているのだから。しかも相手はあのフランシス。犬猿の仲と知っての態度かどうか、今日こそ聞いてやろうと思って言い争いになった。
『別にフランシスだからってわけやないやろ! ロヴィーノやっておんなじや! なんやの、お前ホンマに!』
なんなのだって、いちおうは恋人のつもりである。問いただした結果として得られた情報なんて、ロヴィーノもアーサーより優先するということだけだった。なんて不毛なのだろう。しかも向こうはアーサーに嫌がらせしているわけではないということを反論として出しているだけなのだから、悪意がない。つまり、嘘偽りがないのだ。
「だいたいなぁ! 紅茶だって、もっと美味く淹れろって言ってるだろ!? ティーバッグにお湯つっこみゃいいと思ってんじゃねぇのか!?」
しかも出されたのはティーカップではなく、マグカップである。イギリス国旗のプリントされた趣味がいいとは言い難いマグカップには、波波と赤茶色の液体が注がれていた。雰囲気もなにもありやしない。ティーカップは、わざわざ英国人が発明したものだ。まさに、アフタヌーンティーのために。今では世界中どこだって手に入るのに、どうしてマグカップが選ばれるというのか。
「なっ……、しっっつれいなやっちゃなぁ! お前がうるさく言うから紅茶用意しとるやん! 不満なん!?」
「しかもマドレーヌかよ! 紅茶にはスコーンだろ!」
考えて見れば、マドレーヌはフランス菓子だ。個包装されたまま白い皿に乗せられているそのパッケージには、ご丁寧にもフランス語が描かれている。しかもお洒落な字体で。癇に障ることこの上ない。
「知らんわ! そっちの事情押し付けんなや!」
もちろん、マドレーヌが悪いということはない。お茶請け――と日本などでは言うそれが、スコーンに限られた物でないのは自明のことである。けれどいつもそうなのだ。スコーンなんて出された試しはないし、フランス菓子かそうでなくとも近隣諸国のお菓子ばかりいつも出てくる。交友関係が広いことは知っているし狭めろとも言わないけれど、非道いと思うのだ。
「もういい。そんなに俺が気に入らないなら、フランシスでもロヴィーノでも呼べばいいだろ」
アーサーは苛立っていた。ここのところ仕事が立て込んでいて、睡眠も不規則になっている。合間を縫って来てやったのだなどと言うつもりはないけれど、たぶん自分よりは暇をしているだろうアントーニョが少しくらい気遣ってくれてもいいのではないだろうか。冷えた廊下を煮えくり立った頭で考えながら歩く。次第に感情は冴えてきていた。
(アイツが俺を気遣ったことなんてねぇよな)
そうして自嘲気味にアーサーはドアの前で立ち止まって一瞬思った。いつだって“誰か”を気遣ってばかりいる癖に。その感情が向けられたことなど露ぞない。太陽は雨の空を照らし出すことがない、ずっとそうだ。
「気に入らんなら、そん時に言えばえぇやろ!」
大声はこちらまでよく届いて聞こえた。いつもとは違う少し震えた声で、声量は大きいのに細く淋しげに鼓膜を打ち付ける。アーサーは反射的にドアにかけていた手をストップさせた。そういえば外套をリビングに置いてきてしまったことにも気づく。ベージュのベストと紺色のスーツだけでは、この冬の寒い中を駅まで徒歩では無理だろう。あいにく手持ちにユーロがないからタクシーも利用しづらい。だからだなぁ、と自分に言い訳をしながらアーサーは振り仰いだ。胸がどくどくと鳴っている。
顔を見たらたぶん「忘れ物しただけだ」と言うつもりだった。馬鹿にされたとしても、後ろ髪をひかれるようなまま家を去るよりは幾分かマシというものだろう。リビングに足を踏み入れて、口を開きかけたところでアーサーの挙動は止まった。アントーニョはテーブルの上のマドレーヌを黙って頬張っている。サマーグリーンの瞳を縁取る長い睫毛が濡れている。頬を水滴が伝っている。こちらに視線を向けることなく、咀嚼し飲み込んだアントーニョはぽつぽつと言葉を紡いでいく。
「アーサー忙しゅうて電話でけへんし、フランシスはいつも俺の話聞いてくれとるから、たまには俺が付き合ってやらな悪いやん。どうせ紅茶なんていつまで経っても美味く淹れられへんわ。スコーンは自分で作りたいやろうと思て、フランシスからえぇ菓子もろたから……チュロスと紅茶なんて合わんこと分かっとるわ」
間違ったのだということにアーサーはいまさら気がついた。
アーサーはアントーニョに酷いことをした自覚を持っている。昔のことだからと言えばそれでも済むのだろうけれど、禍根は残る。それでも好きだったから、今こうしているのだ。彼がどう思っているのか、本当は聞くことが怖い。お前なんかと拒絶されたら嫌だった。ツンケンした態度でも、傍にいてくれるならそれで良かったのだ。なにかを自分のためにしてくれるなんて、高望みだと思っていた。
「泣くなよ」
「泣いてへ……ん……? あれ、なんか濡れとる」
「不感症」
アーサーは青いハンカチーフを取り出して目元を拭ってやった。紳士ならば当然の嗜みだろう。
馬鹿と言いかけて、それは自分だと気づいた。台所には白いティーポットが座っていて、その隣には紅茶缶が置いてある。それだけでも十分な証左だった。
「紅茶には淹れ方があるんだよ。ポットは先にお湯を入れて温めておけ。茶葉はティースプーン山盛り一杯で一人分。入れたら沸かしたてのお湯を一気に注ぐ」
アントーニョは目を閉じて黙って聞いていた。
「ティーコゼーはあるか? ポットが冷めないようにそれで覆って、砂時計で三分。まぁ、茶葉によってもう少しってこともあるが、だいたいはそれで十分だ」
ハンカチを離すとアントーニョは目を開いた。そしてじっと自分の前にある真っ赤なマグカップを見詰めて、彼は黙って頷く。
「デジタルタイマーは邪道だ。砂が落ちるまで見てろよ。その時間も『ティータイム』だ」
「ぶっ、なんやそれ……」
「あーあと、それからだな。紅茶にはティーカップが王道だが……」
自分用に、と出されたユニオンジャックを手に取った。彼はわざわざこれを選んだのだ。きっと、アーサーらしいからと。
「マグカップも悪くない。でも淹れすぎんなよ」
あくまでも紅茶の一杯分とはティーカップを目安にしている。マグカップの縁まで届くのでは何人分となるのだろうか。
「それから、マドレーヌよりはチュロスの方がいい」
揚げ菓子などは紅茶に向いていないかも知れないが、市販されているよりもアントーニョの手作りの方が数倍いいのだ。似合う似合わないなんて余計なことを考える必要はない。窮屈に考えるのが苦手な癖に、と思う。相手のためにということは伝わらなければ意味がない。いつも自分でそう思っていたのに、慮ってやれていなかった。
人を気遣ってばかりいる。アントーニョはお人好しで優しくて好かれて、だから寄って立つことをよしとはしない。友達でも子分たちでも、いつもいい格好ばかりしているのだ。「大丈夫」と何度言ったのだろうか。
「ホンマ? チュロスでえぇの? やったら、張り切って作るで!」
泣いていたと思ったら笑った。素直な感情表現はいつも光の面ばかりで、きっと他の誰にも薄暗い影を見出させない。それならせめて自分の前でくらい素直になればいいと、初めはアーサーだって思っていたのだ。喧嘩ばかりでも諍いばかりでもいいと。いつしか、自分にばかり笑ってくれればと思ったのはこちら側のミスだった。
「シナモンと紅茶ってのは、相性いいんだよ」
「やったら、今から作るわ。ほんならアーサー、そのマドレーヌ食べんでな。美味しいから俺が食うわ」
「おま……食い意地はりすぎだろ……」
アーサーは苦笑しながらふたたび席についた。泣いたり笑ったり怒ったりくるくると変わる表情が好きなのだ。しかし泣かせるのはさすがに問題があっただろう。それも、こちらの勘違いで。
「……さっきは、その、悪かったな」
「え? なんやって? 聞こえへんかったんやけど〜」
「なんでもねぇよ! ばかぁ!」
そして鈍いところもこうして聞き逃してしまうようなところも、やっぱり好きなのだ。