彼は鈍感であるが、そのことが直接的に問題となっているわけではない。ロヴィーノは横ですやすやとシエスタの最中である彼の顔を見て息を吐く。問題があるとすれば、あっけらかんとして素直な好意の示し方、大いなる誤解を招きやすいお人好しな優しさ、誰にでも見せる屈託のない太陽のような無邪気な笑顔。そしてロヴィーノに向けられる必要以上の好意だ。
ロヴィーノは屈折している。自分でもそれなりに理解しているが、改善できるようなものではないのだ。アドリアの女王と讃えられた都ヴェネツィアを擁し、絵画や芸術にも才覚がある弟に比べて劣ることを知っていたから。今でこそぼんやりとしている風にばかり見られるフェリシアーノは祖父にも愛されていたし、いつだって奪い合いの対象となっていた。それだけフェリシアーノは豊かだったのだ。ロヴィーノはローデリヒの厄介払いで彼の元に寄せられたにすぎない。どうせ彼も同じように疎んじて捨てるばかりだと思ったとしても無理がないだろう。
『捨てなかった』彼の頬に手の甲を少し当てた。そういえば昔、やわらかいと言って彼が大喜びでロヴィーノの頬を触っていたこともある。取り出してみれば懐かしく感傷的な記憶ばかりがつめこまれているのだ。きっと自分の身体などすべて彼に占拠されている。知っていた。触れた頬は温かくて、けれどちっともやわらかくなどなかった。それこそが愛しいのだ。
彼は空気が読めない。あからさまにシリアスな空気というものすら分からないのだ。その上、好意にも鈍い。触れても感じ取ることがない。空間が0.5くらいズレた次元にいるのではないだろうか。届かない。いつだって触れてもそちらを見てくれないで視線をこちらへと向ける。彼は見たいものを見て見たくないものを見ない。言えば素直に信じる。言葉の裏側を織り込まない。好きならば好きだと言える。皆が皆、自分と同じだと感じているのだ。何世紀経ってもきっとアンビバレンスな感情などには見向きもしないのだろう。どうして怒るのか知らないのだろう。それを知ったからたぶんロヴィーノは彼を愛したのだ。昔のロヴィーノはまったく屈折していたし、彼のことだって疎んでいた。親分だなどといきなり言われてもそれがどのような存在であるのか分からなかったし、広すぎる家には眩暈がしていた。その頃の彼は強かったし、いつかフェリシアーノを連れてきて自分は厄介払いされて終わりだと思っていたから何事も投げやりだったのだ。やる気がなかったわけではない。やればできたかどうかと問われると疑問だが。
政治なんて分からないと言って彼はスペイン語だけはなんとかと教えてくれた。長居しないのにどうしてと思ってベルに尋ねれば、「使えないとこの先、困るよ」と返された。そう言ってくれたベルもいなくなってしまったけれど、今でも彼とは仲がよいようだ。
「Besame mucho」
なんだってキスをねだる言葉を覚えるのかと思ったが、その後聞いた話によれば女の子をナンパする際に困らないようにという妙な考えらしい。なんというか、ロヴィーノやフェリシアーノを分かっている発言だ。
今、彼とスペイン語でもほとんど会話ができるようになるなどとは思っていなかった。自分の学習能力の低さを差し引いても余りあるくらいに過ごした時間が長かったのだ。そう、想定外なほどに。手を引く指の温かさに気づくまで随分と時間を使って、助けに来てくれたらしいあの碧色の瞳に息を呑んで、彼が自分のために多くを擲ってくれていることを知って、感情は突き動かされた。彼はお人好しだから頼ってくれる人には掛け値なく接してくれる。けれどロヴィーノは保護していてほしいと頼んだこともなければそれらしいことすら言っていない。連れ去られたときはたしかに助けてと言ったかもしれないが、通常、あるべき場所から連れ去られたら助けを求めて不思議はないだろう。以後の態度も変えていない。あの日からロヴィーノが彼を見る目に変化が生じたけれど、それには気づかないのだ。彼は鈍感だし空気も読めない。だからロヴィーノのためにとなにかしてくれるのは大抵、無償の愛情なのだ。現在に至ってもほとんど返されたことのない(と彼はおそらく思うだろう)一方通行の優しさ。いつのまにかこちらだけ一方的に好きになっていて、それでも自分の態度が悪いからそんなことには気づかない。気づかないけれど彼は優しい。ロヴィーノを一番に好いてくれる。だから、この人がいてくれればいいと思ったのだ。彼が傍にいてくれるかぎりずっと幸せでいられる。主に幼少の記憶だ。
齟齬を感じ取ったのは再会したときだった。成長したロヴィーノを疎むでも残念がるでもなく(子供である自分だけが好きだったらどうすべきかとロヴィーノは一時期真剣に悩んでいた)、その成長を心から喜んでくれた。そして再会を喜んだ。それでも子供扱いすることにはある程度抵抗したが、彼はロヴィーノにとってあまりにも庇護者でありすぎたためにそうだったのである。時間が経てばその内、大人になったと分かってくれるだろうと思って心配していなかった。たまに成長を懐かしむような素振りを見せることこそあれ、現在では彼はロヴィーノを子供だとは思っていない。おそらく子分だとは思っているのだろうが。そこまでは認識通りである。
彼から注がれる愛情を恋愛的なものだと思っていたことはない。ロヴィーノも幼少時は自分の親愛がどういう性質か分からずに好意を抱いていたくらいだし、気にしたことなどなかった。再会して彼とまた過ごすようになってようやくと、傍にいて欲しいとか誰かに奪われるのが嫌だという子供じみた欲求はもっと判然とした輪郭を描くようになる。それまでも彼が旧友たるフランシスと楽しそうにしているのを見て苛立ちを覚えることはあったし、元結婚相手のローデリヒが来るとまたそちらに行くのではないかなどと不安に思うこともあった。単純に我儘な子供だったのだ。屈折していたしその上彼は甘やかすものだから、ロヴィーノはいつだって好きなようにふるまって当然で、感情にもそういう意味で偽りなどなかった。そしてそういう自然な感情の性質などどのように捉えても誰かに説くことは難しくはない。すなわちどのように解しても構わない。
晴れた日に彼の家に遊びに行ったら、彼が眠っていたことがある。ソファに身体を預けて沈みこみ、ただ惰眠を貪っていた。昔ほど広くはない家で、陽光だけが溢れていて、家中に彼の香りが染み付いている。近づいてまた横柄に「腹が減ったからメシを作れ」とでも言ってやろうと思っていたのだ。眠っているかどうかなどということはロヴィーノにとって瑣末事であった。いつのまにか自分より下になっていた目線、細くなってきた体躯、まどやかな碧色の瞳に気づいて、瞬間、頭の中が白くなったと思うと唐突にキスしたいと思った。
「Besame mucho」
そうしてその昔に習った言葉をつぶやいた。聞こえているはずなどないけれど、そう願ってしまったのだ。反応しないから頬にキスをした。不感の嫌いがある彼が気づくことはなかった。愛を囁く文句がつらつらと頭に浮かび、それらすべてを彼に差し込んでいったらいったいどうなるのだろうかと思った。けれど彼の感情は自分と重ならないということにも同時に気づいていた。それはまるで顕著な事実であるように。ロヴィーノは彼にとって「大切な存在」の域を超えない。そうであるかぎり、彼が他を優先することはありえないけれど、それでしかないのだ。きっと彼はキスしたいとか求めてくれることはない。ロヴィーノが可愛い恋人を作ることを望むのだ。そう思われることがロヴィーノにとっては腸が煮えくり返るくらいに腹立たしいことだった。好きだからどこにも行かないでほしいと望まれることなどないのだと思い知らされる。それが幸せを願う台詞で安穏とした優しげな科白だということが分かるから泣き叫びたくなるのだ。全然違う。まったく重ならない。
恋愛なんて所詮はエゴだ。祖父の言葉を用いて言えばそう。自分だけを見て欲しいと言わない恋愛なんて恋愛ではない。その人のために身を引くなんてありえない。死んだら新しい人を見つけて幸せになってなんて本気で言う気がしれない。死のうが生きようがこちらだけを見てくれなければ、この生に意味などない。だから愛してる。母親が子を憂うような優しさなんていらなかった。そんな寂しい優しさなど跳ね除けても彼のまなざしは変わらない。いつだってロヴィーノのためにと頭を撫でてくれる。そんなに冷たい人だとは思ってもみなかった。天然で鈍感で空気が読めなくてそこが好きで、けれどそれだからこその冷たさに心臓がときおり止まりそうになる。苦しくて苦しくて死にそうになるのだ。
息を吐いて彼の両目を右手で覆った。ユースティティアが公正な判断をくだすなら、彼の想いはどう判断されるのだろうか。愛でも恋でもないとその剣が振り下ろされることを想像した。