飾れられる、小さな夜。


 アントーニョが目を開けると視界は雑誌で覆われていた。テレビを騒がす女優の姿が目に映ったところで雑誌をどかす。辺りを耳馴染みのよい音楽が満たしていた。
「……どんくらい寝とった?」
 問われた相手は指先を止めずにすました顔で答える。
「10分程度でしょうね」
 静かに流れているのは何度か彼の奏でるのを聞いたことがある曲だった。
「分かるん?」
「ピアノを弾いていれば、楽曲の演奏時間で分かります」
「んー、まぁ、それもそうやけど、いつ寝たのかとか」
 自分自身もいつ眠りに落ちたのか分からない。ましてローデリヒはピアノを弾いている。指と楽譜と、つまり前にばかり集中しているはずだ。
「分かりますよ、それくらい」
 ローデリヒはあいかわらずすましたようすで答えて笑った。そういうものかとアントーニョは思った。
 室内には甘い香りが漂っている。どこか重厚な感じのあるその香りはチョコレートだ。アントーニョがローデリヒの家に来るといつも甘い物が振舞われる。それも、彼がアントーニョの来たところで作るのではなく大概はすでに自分のために誂えられたかのようにテーブルに乗せられているのだ。もしかして毎日こうしてテーブルにケーキが乗っているのかと尋ねたところ「そんなわけないでしょう、お馬鹿」と言われた。ではなぜと問えば、アントーニョが来ると思って、などと漠然とした答えが返ってくる。それではまるでローデリヒはエスパーのようだ。
(ホンマにそうやったりして)
 ローデリヒは非常におっとりとしているし、育ちが貴族的で優雅でぼんやりしているように見える。けれどもその実、機微には聡くて頭の回転が非常に速い。ぼぉっとしているのはアントーニョの方であるとも指摘されたことがある。事実だったのでまったく言い返さなかったのだが。
 唐突にピアノが止まった。ローデリヒが振り返る。
「今弾いてたん、聞き覚えあるんやけど」
「有名ですからね。アイネ・クライネ・ナハトムジークですよ」
「……小夜曲?」
 ローデリヒは頷くと楽譜を閉じた。ドイツ語にはあまり明るくないのだが、名前にも聞き覚えがある。アントーニョがぐるぐると考えを巡らし、彼の国の作曲家であるモーツァルトの曲であることにたどり着くより前に答えはローデリヒによって提示されてしまった。彼は単刀直入なところがあり、変に焦らすような真似をしない。
「それより、起きなさい、アントーニョ」
 言われてようやくアントーニョは上体を起こす。モスグリーンのソファは心地よくて、寝転んでいるだけのつもりがすっかりシエスタしてしまっていたらしい。ローデリヒは臙脂の布を鍵盤の上にさらりとかけて蓋を閉じた。ふたたび振り返ると彼はふふっと笑う。
「本当に、あなたはよく寝ますね」
 寝ていたことに気を悪くしたようではなかったのでアントーニョは少し安堵した。付き合いは長いし共に暮らしたこともあるのでローデリヒにとってもよく知ったことだろうと知っているけれど、彼は意外と怒りっぽいのだ。細かいし礼儀にはうるさい。フェリシアーノなんかもその昔、厳しいローデリヒのことをたいそう恐れていた。今ではすっかり慕っているというのだから、決して一方的に怒ってばかりいるようではないらしい。それは分かっているけれども。それにしてもその二人の関係は自分とロヴィーノにも幾分か似ているように思われた。
 ローデリヒは立ち上がるとまっすぐな背筋で台所へと足を運んだ。ピンと伸びる背筋はとても綺麗でアントーニョもこの立ち姿を好んでいる。けれど真っ白なシャツと首もとのスカーフなんかを見るにつれても、台所に向かうという行為が不似合いだ。思わず笑みが零れる。ローデリヒの家は広くて綺麗で、手伝いでも雇ってはどうかと進言したこともあった。最近は不景気だからという言葉で切り捨てられてしまったのだが。黙っていてもエリザベータが無償の手伝いとして現れそうな気もする。
「ザッハトルテ、食べるでしょう、アントーニョ?」
 台所の方から彼の声が聞こえた。
「食べるわぁ! さっきからずっとえぇ香りやなぁって思っとったん」
 アントーニョは今度こそソファから立ち上がってダイニングテーブルに足を運ぶ。テーブルの上にあるのはなめらかにコーティングされた黒茶色のケーキだ。程なくしてローデリヒは銀のナイフに銀のフォーク、そして縁取りが金色の白い取皿を持って戻ってきた。
 銀色のナイフが蛍光灯の白い光を浴びて輝いている。それが黒茶色に浸透して静かに深奥に入り込んでいく。軽い音が少しだけしてナイフはすぐに皿にたどり着いた。ゆっくりとローデリヒの手前に引かれてクリームのついたナイフがまた外に現れる。
「半分、食べます?」
「いらへんて! そんなに食い意地はっとらんし」
 ローデリヒは歪みのないまなざしでこちらをちらりと眺めて「昔、1ホール食べるのが夢だと言いませんでしたか」と言った。それが彼なりの冗談であることを知るまで、伝達してから十数秒はかかった。アントーニョはその間緑色の瞳を何度もまばたきさせて、目の前の銀色を見つめていた。「冗談ですよ」とローデリヒは笑う。生真面目で厳格な彼はすっかり丸くなったのだ。今でもルートヴィヒに会うととやかく言っているようだけれども。
 またナイフが差し込まれる。ただそれだけの光景なのに、ローデリヒが行うと所作のゆえかとても綺麗に映った。
「見ていないでお皿を出しなさい」
「ん! りょーかい――っと」
 差し出した白い皿に断面の美しい小さくなったザッハトルテが一人分乗せられた。それをローデリヒの傍に置いて、ふたたび皿を出す。同じサイズのザッハトルテを自分の手元へ置いた。
「ローデリヒ、もしかしてお菓子作るん趣味?」
 渡された銀色のフォークで一口大に切って口に運ぶ。甘いけれどくどくない。しっとりと濃厚なチョコレートが口の中で溶けて飽和している。
「それはルートヴィヒでしょう。今はあまり作りませんよ」
 けれどいつも用意されていることにアントーニョがフォークを口に差したまま首を傾げるとローデリヒはまた笑った。
「あなたのためです、お馬鹿さん」
 不意に昔、毎日のように甘い物を作って自分に手渡してくれた、共に暮らしていた甘やかな日々のことをアントーニョは思い出した。フォークを口から抜き取る。そうして言葉が口をついた。
「俺は、ロディのお菓子が一番好きやで」
「フランシスは?」
「断然、ロディや!」
 チョコレートが端についているフォークで彼を指した。ローデリヒは貴族らしくほほえむと自分もトルテを口に運んだ。そしてほんの少し眉をひそめて「少し甘すぎましたね」とつぶやいた。

 食事を作るのはいつもアントーニョの役目だった。別段ローデリヒがそれを不得手としているわけではなかったのだが、なんとなくそういうものだと思っていたのだ。つまりは分業制。あの頃は食事なんて召使に作らせればいいと思っていた節もあったけれど、ローデリヒがお菓子を作ってくれてアントーニョが食事を作る。それが正しいように思っていたのだろう。もう忘れてしまった。食の好みは違うしトマトは通用しないし、最初は苦労したものだ。けれど出された物をローデリヒは文句ひとつ言わずに食べてくれた。それは普段から小言の多い彼なりの労いなのだと思われる。
 日が沈んだ頃にアントーニョは昔のように食事を作ると言った。ローデリヒは小さくほほえんでそれを受け入れ、昔に比べてうんと狭くなった台所に立つアントーニョに懐かしそうなまなざしを向けていた。
「あなたは、パスタばかり作りますね」
「外さへんから」
 フェリシアーノと過ごしていたローデリヒにとってもパスタは馴染みが深い。そもそもイタリアの食事というのは美味しいしどこからも好まれている。さすがは自分の子分だとアントーニョは我事のようにうれしく感じていた。
「そしてまたトマトソースなんですね」
「またってほど、ローデリヒに作ってへんと思たけど」
「前回も同じでしたよ。あぁ、嫌なわけではありませんよ。私も好きです」
「え、ホンマに?」
 それは初耳だった。ローデリヒは一度たりともそのような発言をしたことはない。それともどこかで聞いただろうかと思う。アントーニョが長い長い記憶を振り返ってみていると(途中でやっぱりあの頃のロヴィは小さくて可愛えぇなぁとかそういう方向に思考が飛んだのはご愛嬌である)、窓の外ですっかり日の暮れた紺碧の空に目を向けてローデリヒはつぶやいた。「あなたのせいですよ」と。彼の見つめる濃紺の空をアントーニョも見て、それにひどく胸がつまった。
「……へぇ、そうなん」
「そうです」
 なにかを吐き出すようにつぶやいても返る声は平坦だ。
「今日泊まってもえぇ?」
「どうぞ、好きになさい」
 そうか、とアントーニョは気づいた。
(甘い物が好きなんは)
 ずっと彼の影響だったのだ。

 風呂を借りて用意されたティーシャツの袖に手を通す。サイズは丁度よかった。身体はあまり変わらないのだということをローデリヒは感慨深そうにつぶやいていた。あの頃から、たしかに身体についてはあまり変わっていない。青年くらいになると自分たちは身体的には成長しなくなる。人間はたまにそれを羨ましそうにしていた。不老不死のようだと。実際には辛苦も多く、長く生きることは幸せばかりではない。それでもこうしてまたローデリヒと過ごせるのならばそれもまた悪くないと思う。ロヴィーノが帰ってきてくれることもそうだし、フランシスやギルベルトと何事も無く笑っていられるのもすべてそうだ。
「お風呂、ありがとさんなぁ」
 濡れた髪をタオルで拭きながらリビングに戻ると、ソファに座っていたローデリヒは新聞に落としていた視線をあげて小さく頷いた。アントーニョは風呂に入る前に外してダイニングテーブルに置いておいた赤い鎖のロザリオと金の鎖のペンダントを拾い上げる。その手を横目で見ていたローデリヒがふと口を開いた。
「それは、もしかして指輪ではありませんか?」
「せやけど」
 金色の鎖にかけられているのは小さいルビーがはめこまれた指輪だ。裏には「R to A」と刻まれている。
「そんなもの、もう捨ててしまいなさい、アントーニョ」
「なんでや? もったいないやん。せっかくくれたのに」
 首に落とす前に蛍光灯にかざしてみる。『赤い色はあなたの色でしょう』とローデリヒは言い、指輪を渡した。その遠い記憶が今も残っている。今日も変わらないすました表情で渡された婚約指輪だ。
 ローデリヒは立ち上がると指輪を奪うように取り上げた。こんなもの、と声がやわらかく響く。珍しく表情が変わっていた。ほうっとため息をついたローデリヒは取り上げた物を持ったまま背を向けた。
「少しそこで待っていなさい、アントーニョ」
「構わへんけど、それ、捨てんでな?」
「人の物を捨てるわけがないでしょう、お馬鹿さん」
 捨てろと言っていたわりには、とアントーニョは思う。遠ざかるローデリヒの背を見つめながら、考えてロザリオだけをとりあえず首もとにすべらせた。彼の意図は分からないが、待てと言われたら待つ。モスグリーンのソファにまた腰かけて、その前のテーブルに先ほどから置きっぱなしにしていた自国から持ってきた雑誌に目を向けた。周辺諸国の旅行についていくらか述べられている。今となっては国同士の行き来もかなり容易いものだ。そういえばヨーロッパ連合からの『指令』がまた届いたらしく、今朝方上司からそれに関する文書を渡された。そちらを持ってくればよかったのかもしれないが、あいかわらず政治は向いていないし、上司に任せてばかりいる。お前に関することだからと言われるのだが、分からないものは仕方がない。近づく足音にも目を開かないでぼんやりとしていると、アントーニョと声をかけられた。するりと首に落ちる軽い音。
「え、なに? なんやの?」
「もうあの指輪はお止めなさい。欲しいのなら、それをあげますから」
 首から下がっていたのは銀色の鎖にプラチナリングだった。とっさにアントーニョはリングの内側を見る。なにも刻まれていなかった。
「ほら」
 ローデリヒはつぶやいて自分の首から同じ色の鎖を取り出すとアントーニョに見せた。綺麗なプラチナ。同じものだった。
「どない、したん?」
「あれは、過去です。もう捨てなさい、アントーニョ」
「ロディ」
「あなたはいつも、似た響きを好むのですね」
 ローデリヒは近づくと額に口づけをした。
「えぇー、ロヴィは関係ないやん」
「それを言ったら泣きますよ、あの子」
 どうやらローデリヒの中ではフェリシアーノとロヴィーノはまだ同等の子供であるらしい。なんだかんだで自分をロヴィーノが慕ってくれていることなんて知っているし、関係ないと言ったらたしかに怒られそうだとアントーニョは思った。お返しに頬に口づけを贈る。
「捨てるんは嫌やから、持っとく」
 掌を差し出すとローデリヒは苦い顔をした。
「あまりよい記憶ではないでしょう」
 小さくこぼれた声にアントーニョは首を振った。
「ロディから貰った大事なモノやで?」
 ローデリヒは握っていた指を開くと、掌に小さな指輪を落とした。鎖を外して蛍光灯にかざす。大事にしていたのにこうして見るととても小さな物であるように思われた。たったこれだけの絆が何世紀も部屋に飾られていたのだ。ただこれだけ。小さすぎる。
 手を握って眠っていた。深い夜が怖かったわけではないけれど、そうしていると安らいだから。ただそれだけだ。思い出してアントーニョはローデリヒの手を握った。
「アントーニョ?」
「寝よか。明日も早いしなぁ」
 このまま手をつないで寝るのかということを尋ねる言葉はない。小さな夜がまた更けていくばかりだ。今度は指輪が飾り物にならなければよいとアントーニョは思った。

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