「たまには」
急に椅子から立ち上がったアントーニョはフランシスに振り返って笑った。
「たまには掃除とかしたったろうか?」
フランシスはきょとんとしたような目でこちらを見ている。やっぱり突拍子もない行動だっただろうかとアントーニョはほんのり思った。
「いいよ、別に」
しかしあっさりと手をふられた。フランシスはまた読んでいた新聞に視線を落とす。そんな様子がおもしろくないのでアントーニョは口を尖らせた。
「そんなこと言わんとぉ。フランシスん部屋やってちょっとは掃除するような場所くらい――」
言いながら辺りを見回してみたものの、そこら中が整理整頓されている。アントーニョは笑顔のまま怯んだ。とととっとクリーム色のソファに近寄って、そこで膝立ちして窓のサッシを指で伝ってみる。それから指を蛍光灯の光にかざしてみた。ほこりがついていない。完璧だ。
「こら。なに姑みたいなことしてるんだ、お前は」
振り返るとフランシスは新聞から視線を離してこちらを笑いながら眺めている。
「綺麗すぎるわぁ、フランシス」
「当然でしょ。お前こそ掃除しなよ」
えぇーとか言いながらアントーニョはソファにそのまま倒れこんだ。
フランシスは綺麗好きだった。美しいものが好きだと自分でも言う通り、部屋だって隅から隅まで綺麗にしてある。カップの並ぶ感覚だとか部屋の家具の配置だとか色合いだとか、アントーニョには分からないセンスが散りばめてあった。自分には分からないけれど、そういうセンスというものをアントーニョは好んでいる。だからか知らないが、フランシスの部屋にいると落ち着くのだ。
ソファに沈んだまま目を閉じると「そんなとこで寝たら風邪ひくよ」と声をかけられた。
「旅行行きたいなぁ」
「どこに?」
「どこがえぇかなぁ。んー、スペインは論外やし、フランスも結構行っとるからなぁ……いっそ、アジア辺りどうやろ」
「アジアねぇ」
キッと椅子が動く音が聞こえた。足音は近づいて傍で止まる。髪を撫でる手に「くすぐったい」と言ってアントーニョは目を閉じたまま笑った。
「菊のところは? あそこなら安全でしょ」
髪をすく感触に少しずつ眠気が誘発されていく。それを振り切るように明るい声を出した。
「せやね! えぇなぁ。行きたいなぁ」
「お前、お金あるの?」
髪をすいていたと思っていた手はいつのまにかその甲で頬に触れている。そのままふにふにと押された。されるがままアントーニョは自分のお財布事情を頭に浮かべてみた。貧窮極まりないわけではないけれど、資金が潤滑にあるとは言えない。日本まではいくらくらいかかるのだろうか。
「ないわぁ」
「お前の分まで出したくないよ、俺は」
「えぇー、ダメやの? っていうか一緒に来るん?」
「発言が矛盾してるよ」
人差し指が額をこつんと叩いた。
「細かいこと言わんといて」
フランシスの指先は丁寧にケアされているようで、すべすべとしている。この指先が頬を引っ張るのが意外と好きなのだとアントーニョが以前に言ったら「お前、Mだったっけ?」と心配された。
「俺が行かないで誰と行くんだよ、お前は」
「男の一人旅やね」
適当に言ってみた。実際はフランシスの言う通り、最初から彼と行くことだけを想定している。けれど一人旅も楽しそうだなんて口に出して少し思った。それなら日本ではなく近間になるだろうが。
「却下。危なっかしすぎる」
しかしすげなく言われてしまった。
「ひどっ!」
頬を膨らませて頭の中で算段する。別にフランシスの許可など端から不要だ。行きたいと思ったなら行けばいい。危なっかしいだなどとよく言われるけれど、失礼な話だ。一人で旅行くらい行ける。さてそれならばどこがいいだろうか。散々行き飽きるくらいに行ったくせにイタリアとか、なんて思う。アントーニョはイタリアが大好きだ。あの兄弟二人も大好きである。
「なに考えてるの」
「いひゃいいひゃい……なんやのぉ」
急に頬を引っ張られたので抗議するとフランシスは引っ張ったままほんの少しだけ怒ったような声を出す。
「なにか変なこと考えてるだろ。顔が笑ってるんだよ。お前って本当に分かりやすいな」
「考えてへんてぇ」
「嘘つき」
指が離れたと思ったら唇が軽く触れた。
「嘘つきにはお仕置きだ」
「今のが?」
「なに、もっとして欲しかった?」
くすっと笑う声がする。
「そういうことやなくて」
「知ってる」
そう言ってまたフランシスは笑った。静かなリビングに声が響く。今夜は月の綺麗な夜だった。先ほど窓越しに見たときにほぼ丸い形の月の光をアントーニョは見たのだ。少しフランシスは沈黙していた。
「行くなら、俺のとこでいいじゃない。最高級のスイートルームでも泊まらせてあげるよ」
「二人で?」
「当然」
「そんならスウィートルーム?」
「そういうこと、かな」
フランシスの提案にはいいなと素直にアントーニョも思った。彼の国は美しい。どこもきらきらとしている。もちろん自国が一番素晴らしいのだという自負は持っているけれど、それとは異なった意味で彼の国は素晴らしいのだ。美しい景観、優雅な街並み、恵み豊かな自然、織り成すものが輝いている。そんな国の最上の部屋に泊まれるのならば夢のようだ。嘘か本気か分からないけれど夢見心地に瞼に描いた。
それほどに美しい国の彼はけれども「お前が一番綺麗だよ」なんてささやくのだ。アントーニョは着飾っていたような経験もそれほどなかったし、その意図が分からなくて首を傾げてみたらフランシスはとても幸せそうにほほえんでみせた。どの辺がと聞いてみたけれど返事はいつも曖昧だ。
「なにかあった?」
「ん? なにがや?」
「珍しい。お前が掃除なんて言うのも旅行なんて言うのも」
「たまには恋人らしいことでもなんかなぁ、思て」
ちらっと誰かに聞いた話では(残念ながらアントーニョは誰に聞いたのかどこで聞いたのかを記憶していなかったのだが)、今日は『いい夫婦の日』であるらしいのだ。アントーニョとフランシスは結婚しているわけでもないし夫婦でもなんでもないのだが、なんとなくそういうことを聞いていいなぁと思ったのである。イベントが好きだから乗っかるというのではなく、情報によって意識を少し変えてみた。料理なら作ることもあるけれど、たまには掃除もいいかなとか。いつも家で過ごしてばかりだし出掛けるのもいいかなとか。
フランシスの唇が不意に額に触れた。
「いいよ、別に。掃除なら、お前の部屋を俺がしてあげるから」
「え、でもなぁ……」
「いいから。しなれていないお前がする必要ないよ」
「甘やかしぃやね、フランシス」
「そう。お前はだまって愛されてなさい」
アントーニョは瞳を開く。その目にはとても幸せそうな恋人の姿が映ったので、彼の言う通りでよいのかもしれないと思った。