部屋に閉じこめられてしまった。アントーニョは足首につけられた意外と軽い金属の輪とそこに連なる鎖をぼんやりと眺めている。窓からは燦々たる陽光が降り注いでおり、まるで非現実的であった。この窓まで指先が届いてもその先に出ることができない。暖房がかかっているから寒いということはないけれど、ほとんど換気がなされず、攪拌されないこの部屋の空気は蒸して閉鎖的で窒息してしまいそうに苦しかった。これが囚えられているということだ。
その昔、薄暗い部屋に投げ入れられて囚えられたことがあった。今よりも不衛生で乱雑で汚い部屋に足で蹴りつけられて転がるように倒れこんだ。鎖は首もとにつけられて、それだけで十分に息苦しかったのに部屋には窓一つなく硬いベッドだけが備えつけられていた。椅子にかけていたアントーニョは思い出したようにベッドの方へと視線を向ける。白くて柔らかくて暖かい布団がかけられている。シーツも清潔なオフホワイト。指を滑らせてもほつれに引っかかることがない新品のセットだった。この部屋のすべて、自分へと誂えられたものなのだ。
食事はアントーニョの習慣に合わせて5回運ばれる。ずっと部屋の傍にいる気配がある彼も、食事が近づくと遠ざかっていくことから鑑みるに、手製のものであるらしい。閉じこめて毒を盛られることもあるまいしと無警戒に、美味しいからいつも平らげているが、やはり味を見ても調理者がうかがわれるというものである。部屋が暖かいためか、昨日はデザートにミルクジェラートまでが出された。
食事以外でも不便は少ない。この部屋にはなぜかトイレも風呂も洗面台もあるし、長すぎる鎖は部屋中を動きまわることを可能にしてくれていた。掃除機もあったので今朝もアントーニョは部屋を掃除したくらいだ。窓は開かないけれどたまに白い扉が開くとそこから外気が取り入れられるし、それにトイレには換気口が存在している。空間は清潔で潔癖的なまでに綺麗。誰かがここを使っていたということのない部屋にも思われた。
唯一の障害は娯楽が極端に少ないことである。まずテレビがない。向こうの部屋でもついているような音は聞こえないし、彼もなにも見ていないのだろう。新聞は見られないし(仮にこちらのものを渡されても読むことはできないだろう)雑誌の類もない。書籍は詰まっているが、なぜだかすべてラテン語で読みにくいことこの上ない。幸いにして辞書が置いてあったので(ご丁寧にこちらはスペイン語とラテン語の互換する辞書だった)日に何回もトライするのだが、まったく難しい。青い表紙の辞典を見るにつけても恨めしい。
あぁそうだ、と思った。
(船上には本なんて高尚なもん、なかったなぁ……)
そもそも退屈を感じるような暇はなかった。ひどい扱いに辛い思いばかりしていたし、ぼんやりとすることはなかった。泣いていることもあったし、今考えるととてもも腹が立つ。怒っては泣いていた。それゆえにというのは皮肉だが、時が経つのはあっという間だったのだ。アーサーは雨に濡れた指先を頬に伸ばし、払いのけようとするアントーニョの右手を掴んだ。そんな奇妙な光景が脳に灼きついている。アーサーになどはなにをされてもむかむかした。触れられることも視線がこちらを向くことも声をかけられることもすべて、すべて。それは閉じこめられたことへの苛立ちというよりもむしろ、敗北による屈辱感であるとかアーサー個人への漠然とした怨恨から生ずるものだった。
想い耽っていると扉が開いた。アントーニョはもう何度も見ているが、ここに自分を閉じこめた彼は特に異常な表情を浮かべたりしてはいない。女性に持て囃される整った――黙っていればとフランシスが笑う秀麗な顔、サラサラとした茶色の髪、色素の薄い瞳、自分と異なってあまり日に焼けていないコーカソイドの皮膚の色と細い腕。彼の国らしくお洒落な青いシャツを身につけている。とてもよく似合っていた。
たまにリビングかららしく携帯電話の鳴る音が聞こえることがある。彼は随分と呼び出し音を聴き続け、まるで仕方ないように着信を取るのだ。姿を見ていなくても想像ができる。そして素っ気ない言葉で通話を切っていた。それらの通話内容にどれだけ大事な用件があるのか知らないが、もう随分と彼がまっとうな会話をしているのを聞いていない。四六時中この部屋の傍にいるというのに来客もない。そもそもここに彼がいることを知らせていない可能性もあった。アントーニョもここがどこなのか分かっていないのだから。アントーニョの携帯はどこにあるのか分からない。誰が心配しているのかも知れない。彼がまっとうな会話をしていないということも事実だが、アントーニョ自身もしばらく会話をしていなかった。会話能力がこの短期間で衰えるということもないだろうが、あまりつづくなら心配にもなる。けれど話そうと決心をしても、その色素の薄い瞳に射ぬかれると言葉をなくしてしまうのだ。
凍えた指先が唇に触れる。扉を開けるといつも冷えた空気が入ってくることからしても、向こうでは暖房など入っていないのかもしれない。それでこんなに彼は冷えているのだろうかと思う。触れた唇も冷えていた。
なにもかもを忘れてしまいそうになる。自分の存在とか現実感とか日常生活とかそういう些細で大切なように思われることが。どうして閉じこめるのかということさえアントーニョは彼に聞いたことはない。それを聞いたらすべてが崩壊していくような気がして恐ろしかった。否、崩壊することを恐れているのは彼のことなのかもしれない。表情が変わらなくても不安定な心情は触れた指先の震えから理解していた。彼のことならばよく分かる。長く口づけられて頭の芯からぼんやりとしてきた。浸透圧がかかったように染み出す感情が視界をまろやかに埋めていく。ゆっくりと唇は離れて、次の瞬間には彼にやわらかくやわらかく抱きすくめられていた。顔は見えないけれど泣いているのではないだろうかと心配になる。だって親分としては、子分に泣いていて欲しいはずがない。
(泣かんで)
ずっと彼は泣いているように思えた。
暮れる日が白い壁を紅く染め上げている。先ほどまで視界を占拠していたその腫れあがる赤い色を瞼の裏で見つめていた。聞かなければならないのだ。どうしてこんなことをするのだと。いったい、なにが本当に望ましいことであるのかと。『閉じこめた』のはわざとなのだろうか。アントーニョはだらりと下げられているだけの右手を握った。爪が掌に食いこんで少し痛い。痛みすら感じられなくなってしまう前に、なんとかしなければ。
身体が冷えている。耳の奥でヒステリックな音が響いている。金属を引っ掻いたような不快な音が鼓動を乱していた。
「ロヴィーノ、どうしたん?」
ゆっくりと耳に届くように言葉を紡ぐ。
「泣いとるん?」
「……泣いてねぇよ」
ロヴィーノは泣き虫やからなぁ、とアントーニョは笑った。思い通りにならなければ泣いて、怒っては泣いていた。だから抱きしめてあげるといつのまにか泣き止んで、また、怒るのだ。なんて面倒な子分だろう。やっぱり上手く育ててやれなかったのだろうか。思う通りにいかなくても、あぁ、自分がいてあげればよいのだと迂闊にも思わせてしまったから。
けれど考えてみたら彼の弟もよく泣いている。あれはきっとローデリヒの育て方のためではないのだ。そうすれば甘えも弱さも遺伝によるのかもしれない。人は環境ではなく遺伝で性格が作られるのだと聞いたことがある。そう言われても驚かないくらいに二人も似ていた。育ちはまったく違うのに。教わった統計心理学は正しかったようだ。
「あんな奴のどこがいいんだよ――!」
アントーニョはびくっとして肩を震わせた。声は静かな部屋の空気を一遍に揺さぶった。鼓動が早くなる。腕が離れた。ロヴィーノは眉を下げて笑っていた。
「そんな顔、すんな。笑ってればいいだろ!」
「へ?」
間抜けな声がこぼれた。『そんな顔』が自分で浮かべられない。そういえば鏡を見ていない。洗面台には鏡がない。
離れていく気配を彼は感じ取っている。一度目は彼がスペインの支配から独立した時に。あの頃ロヴィーノはしばらく部屋に閉じこもってばかりいた。外に出ることを拒んで逃げるように部屋で蹲っていたのだ、前兆らしく。バッド・オーメンだ。少なくともアントーニョにとってはそうだった。
「泣かんでや、ロヴィーノ」
笑いながら彼の瞳からはぽたぽたと涙が零れてくる。なんだやはり泣きたかったのではないかとアントーニョは思った。泣き虫で強がりで強情だ。
「泣かれたら、どないすればえぇのか分からんようになるやん」
繋がれているのは自分の方なのに、泣かれてしまうとまるで悪役は自分のようだ。泣かないで泣かないでと昔からずっとくりかえして思う。昔からずっと、泣き虫のロヴィーノ。厳しくしても甘やかしても怒らせてしまう。彼はずっと、なにを考えていたのだろうか。遠く世紀を超えて。今こうして部屋にアントーニョを閉じこめることが彼の望みなのだろうか。ありえない!
鋭い目が好きだった。
泣きながら冷たい指先が頬に触れて爪が引っかかる。すべてはアーサー・カークランドの所為だ。自分が迷ってここに繋がれていることを選んだのもロヴィーノが泣いていることも、起源はそこにある。緑色の瞳が胸の奥に潜んでいる。鋭く射ぬかれた中心がある。
「こんなの、つけんでも」
息を飲みこんで足を動かすと鎖が軽い音を奏でた。
「親分はどこにもいかへんで」
望まれたようににっこりとアントーニョは笑う。涙の止まったロヴィーノはまた急に、今度は噛みつくようにキスをした。切れた唇の端から血が滲んで、気づいたロヴィーノの舌がそれを器用に舐めとる。手慣れた様子はさすがにイタリア男らしい。息切れしそうに甘いキス。蕩けてしまいそうな舌先。誰から教わったのだろうかと心中だけで笑う。もしかしたらア・プリオリかもしれない。まさにDNAだ。
信じこみたいのならばそう見せてやらなければならない。離れた唇に軽く息を吸ってアントーニョは両手で冷えた頬に触れる。目を閉じて彼の唇に自分の唇を重ねた。
「本当か?」
「なんや、疑っとるん? 親分は嘘つかへんで」
ロヴィーノはじっとこちらを見つめると、唐突に右腕を掴んだ。そのまま引っ張るのでその力に従って立ち上がる。よろめいた身体はそのまま足についたものの先が繋がるベッドに倒れこんだ。鎖がカシャリとこすれて音を立てている。ロヴィーノに上から乗りかかられてアントーニョは思わず目を閉じた。冷えた指が首筋をなぞる。それからなぞった部分に舌が這わされた。妙な感触に全身が粟立って、ひッと小さく悲鳴があがった。
「本当にもう、どこにもいかねぇのか」
すぐ耳元で囁かれる。どこにも行かせないと枷をつけたあの声が瞬間に頭を駆け巡って、霧のように散って消えた。
(忘れるんや)
念じると声が遠ざかる。
(忘れろ)
忘れがたき想いなんてそんなもの、もうどこにもありはしないのだ。もう後は、足が跳ねるたびにひどく軽やかに鳴る鎖の音だけをアントーニョは聞いていた。