見慣れてきたスペインの街並みを歩いていると目の前を子供が走り抜けた。ともすると横から衝突されていたかもしれないところを間一髪で後方に避けてロヴィーノは通り抜ける影を見た。髪を二つに結んだ少女はぶつかりそうになったことなど気づかない様子で走り去っていく。
「あぶねぇな――」
この辺は車道も遠いけれどあんな風に前を見ずに走っていては危ない。そんなことを思いながら独りごちていると後ろから声が追いかけてきた。
「こらー、待ちぃやー!」
「……アントーニョ? なにしてんだよ」
横をすり抜けていきそうな見知った姿に慌てて声をかければ、こちらを見た彼はキキッと自分にブレーキをかけた。前方につんのめりながら止まると、ぱぁっと顔が明るくなる。
「ロヴィ! こっち来てたん? あ、ちょっと待ってな、あの娘追いかけな……」
「遅いよーアントーニョー」
「呼び捨てたらアカンて言うてるやろぉ! お兄さんか親分や」
子供にまで親分なのかとロヴィーノは少し思う。先ほどの少女は追いかけてこないアントーニョに焦れたらしく向こうで止まって腰に手を当てていた。不満そうだ。
「鬼ごっこでもしてんのか?」
「や、別にそういうわけやないんやけどなぁ。お向かいさんの家が用事があるから言うて、子供の世話を頼まれたんよ。ほんで遊んでったらそのうち増えて増えて……」
「アントーニョつーかまーえたー!」
「うぉわっ、やめ、急に後ろから抱きつくんはアカン。危ないわぁ」
「アントーニョー、ねーねーおままごとしようよー」
見る見るうちにアントーニョが子供たちに取り囲まれていった。なるほど遊んでいるうちに増えてきたというのはこういうことなのだろう。最初に見た少女もいつのまにかアントーニョの手を引っ張っている。親分は子供たちにこそ人気のようだ。誰も呼んでいないが。
囲まれた引っ張られたり押されたりしているわりにアントーニョはにこにことほほえんでいた。基本的に子供に弱いのだ。過去の自分を振り返ってみても分かる通りである。幼い頃はなにをしても許されたというほどではないが、結局いつもアントーニョが折れていたのだからほとんど許されていたということに相違ない。そんなことを懐かしく思う。彼は可愛い人やもの(特に生物)に弱い。
「楽しそうだな」
「せやねぇ、子供らはかわえぇからなぁ」
取り囲まれたアントーニョに近づけないでいるうちに泣き出した少女を見つけて、彼は褐色の指先を伸ばす。「ほらぁ、泣かんといて」なんてほほえみかければ、途端にポニーテールの少女の顔が明るくなった。あやし上手だ。
子供は無意識に大人を選別する。この人は善だとか悪だとか、直感でそう思って人を判断している。これだけ子供に好かれているのだからアントーニョの発するものというのは善良なのだろう。そんなことロヴィーノには当然のこととして受け止められていたが、客観的に見てもそうなのだと確信した。
なにをしても許してしまうというのは躾として正しいことではないかもしれない。現にロヴィーノは自分が子供っぽい部分を残していることをそれなりに認識していた。自分だけを見つめてくれる緑色の双眸を手に入れるためならばどんなことだってするだろう。ちょっとの悪事くらいどうってことないのがマフィアの国などと言われる所以なのだろうか。そう言ったらおそらくアントーニョは怒るだろうけれど。やはり正しい躾ではないのかもしれない。愛してしまったし。それでも別にいいだろうと思うのだ。無償の愛は心を満たしてくれる。愛された記憶のある子供は幸福だ。自分がそうであるように。
「あぁ、もう皆バラバラのこと言うたらアカンよ。鬼ごっことかかくれんぼとか、皆で遊べるものにしような!」
取り囲まれて笑っているアントーニョは可愛い。もしかしたら彼も子供が欲しかったのかもしれないとロヴィーノは思った。人とは違う自分たちに望むべくことではないけれども、血の繋がる弟を羨むということも端的に表れている部分なのかもしれない。いずれにしろ、彼がそれを望めないということはロヴィーノにとってはわりとありがたい出来事である。仮定だが、例えばアントーニョが女で子供などを産んでみたらそれはそれは溺愛するだろう。たぶんロヴィーノのことも忘れてしまうくらいに溺愛するのは確実だ。そうなったらまったくおもしろくない。仮定でよかったと安堵する。
子供などいなくても自分だけが彼の家族になっていてやればよいのだ。今よりももっと笑顔に、幸せにしてやる。そういう確固たる信念があったのでロヴィーノは子供といる光景を、感情に波風立てずに見ていられた。
「ロヴィ、ごめんなぁ。遊びに来てくれたんやろ? ――って痛ぁっ! か、指を噛むなやぁぁ! 噛むのはアカン!」
アントーニョが痛そうに左手を振り払う。ロヴィーノはそれを見て少しむっとした。噛むのは自分の専売特許である。たぶん。それに、アントーニョが子供にばかり構われていることもあまりおもしろくない。やっぱり子供っぽいのかと自分に少し呆れた。致し方がない。育て方が悪い。
「別に構わねぇよ。忙しいなら、帰る」
ふいと背を向けてみた。
「え!? ちょ、待ってや、ロヴィ」
「子供に怪我させねぇように気をつけろよ」
「ま、待って……なぁ、ホンマに行ってしまうん?」
お前な、とロヴィーノは口に出しながら振り返った。曇った瞳と目が合う。さっきまであんなに笑顔だったのに、可愛い子供たちに囲まれているのに悲しげに目を伏せていた。太陽はたった一つの言葉でこんなにもあっさりと翳ってしまう。なんて考えるのはひどい自己満足だろうか。
立ち尽くすアントーニョに手を伸ばして、子供たちでは触れられないような位置にある頬に軽く触った。気を引く手段なんて子供より熟知している。それでも、子供がいるからとそちらを優先されなくてよかった。感情を確かめるというのはいつだって綱渡りみたいなもので、叩ける石橋もない。
(子供より、俺がいないとダメなんだな)
「バーカ、嘘だよ」
きょとんと瞳が円くなる。
「……ロヴィ、嘘つきや」
言葉だけ怒ったように見せてもそんなことは無駄だ。喜色を湛えた緑の瞳が雄弁に語っている。
行かないでほしいとか傍にいてほしいとか、そんな風に思っているのが自分だけではないのだと知って安心して頬にキスをした。
「邪魔んなるだろうから、その辺フラフラしてる」
手を離してそう告げるとアントーニョは視線をさまよわせた。
「え……えと。えぇやん、ここにおっても」
「いてほしい?」
「おってもえぇやん」
「お前はどうなんだよ。言え」
顔を近づけて言うとアントーニョはおずおずと目を合わせた後、耳元で囁いた。
「ここにおってくれるとうれしい」
「ならいてやるよ、ずっと」
情操教育に悪いかと思って先ほどは頬にしたのだが、別に子供らの教育の観点など自分の知ったことではなかったとロヴィーノは思って唇を合わせた。
アントーニョが一瞬忘れてしまっただろう子供たちはしんと静まっていた。そう思っていたら、急におさげの少女が口を開く。
「アントーニョー、邪魔したらいけないと思うから皆で遊んでるねー!」
「遊んでるねー!」
「かくれんぼでもしようぜー」
「え、うえぇッ!?」
ロヴィーノから慌てて離れたアントーニョは、子供たちが散っていくのを驚いた様子で見ている。
「なんだ、ちゃんと教育されてんだな」
感心してロヴィーノがつぶやくとアントーニョは隣で脱力していた。いわく「子供らに気ぃ使われるなんて……」だそうだ。