アントーニョはダイニングテーブルに突っ伏していた。
「あかん。内職が終わらん」
「……まだやってたのかよ」
うず高く積まれているのは紙製のバラで、いったい全体誰がこれだけの量を欲しているのかロヴィーノには検討がつかない。しかしこれを作ることがアントーニョの仕事なのである。フェリシアーノのように手先が器用ならば手伝ってやれるのだろうが、いかんせんロヴィーノには不向きな作業だと一見して分かった。分かっているのかアントーニョも助けを求めるような声をあげてはいない。
「邪魔になるなら帰るぞ」
「えっ、そんなことあらへんよぉ。ここにいたって?」
小首を傾げてそんなことを言われたのだからロヴィーノは帰れなくなった。外見年齢でもそれほど若いというわけでもないくせに仕草が可愛らしい。しかもそれはふわりとしたアントーニョに似合っていると思えるのだ。誰かの同意を求めたいようなただの自分の盲目であるようなそんないずれの心地も内包してロヴィーノは溜息を零した。とりあえず目の前の席に座る。
アントーニョはわりと器用な方であった。繊細そうに指先が動いていくのをだまって見つめていると「見てもおもしろいことあらへんよ」と笑われる。だったらどうすればいいというのか。話しかけると鬱陶しいかもしれないと思ってそばの雑誌を見てみたものの、読むのは得意でないスペイン語ではさっぱり分からない。
「それ、どれくらい残ってんだよ」
「段ボール三箱分やね」
「終わんのか?」
「終わらへんと、ご飯が食べられん」
「そんなに貧しいのかよ」
視線をこちらに向けるとアントーニョはこくりと頷いた。
「日々の食事にも困っとるんよ。ロヴィも気ぃつけ?」
心配してくれるのはありがたいのだが、そこまでは至らないような気がするロヴィーノである。そもそもロヴィーノ自身はともかくとして弟は商才があるのだ。ぼけっとしている上に腕力もないが、とりあえず貧困に喘ぎそうな状態にならないのも弟のお陰である。
彼の商才はその昔の教育によるものではないのかとロヴィーノは思っていた。だってこちらはこのアントーニョである。スペイン語の教育くらいは受けた記憶があるが、政治も商事も法もなにもかも教え込まれたことがない。というかアントーニョの方がよく分かっていなかったのだと推測する。ロヴィーノがその怠慢のままに過ごしたことが今に影響しているのだが、幸いにして弟は教育を受けていたようであった。助かる。
「メシくらい――」
今のところロヴィーノはご飯に困るような気配はない。それならご飯くらい彼に用意してやれそうだと思った。しかし口に出してみて迷う。
アントーニョは今になっても決して変わらずに自分を「親分」と自称していた。だいたい子分はもうロヴィーノくらいしか該当してくれそうにないのだが、少なくともロヴィーノにはそういうつもりでいるようなのだ。親分という語の用法はよく分からない。推測するに家族関係に言い換えれば兄だと理解するのが正しいところであるのではないだろうか。直接確かめたことはないが、少なくとも今は父親を気取ってはいないと思われる。
そうでなくともアントーニョは昔から自分を年長者だと理解していた。あの大国たるアルフレッドですら彼に言わせれば子供であるらしいのだ。サイズ的には納得いかないが、それはアルフレッドの兄にも言えるので不問にする。ロヴィーノはあまり彼らを得意としていなかった。フェリシアーノも同様であるらしい。
要するに換言すると、年上であり兄であるようなアントーニョはあまりロヴィーノに奢られることを欲しないということである。
「ご飯がどうしたん?」
純粋な緑色の双眸がこちらを見つめた。そのわりに手は留まることなく造花を作り上げていく。本当に器用な指先というものだ。
「メシくらい、食わなくてもすぐには死なねぇだろ」
「まぁ、せやけどなぁ。ご飯重要やで?」
アントーニョが食を大切にする人間であることは分かっている。そういう言葉が出ることも知っていた。ロヴィーノはまた溜息をつく。「呆れとるん?」と聞かれてしまった。
「おーい、アントーニョ、いる? ってお前また鍵もかけないで……」
玄関からの声にアントーニョの身体はそちらを向いた。
「鍵かけたらフランシスがふらーっと入ってこられへんやろ? だからや」
「嘘つけ」
入ってきたのは彼の昔からの馴染みの男だ。ロヴィーノも見慣れている。
「あぁ、ロヴィーノもいたんだ。グラタン作ってきたからあげようと思って。今大変なんだろ?」
「グラタン! ホンマ!? うわぁ、うれしいわぁ! フランシスのグラタン大好きやで!」
アントーニョが両手を合わせた拍子に紙の花弁が床に落ちた。
「グラタンだけ?」
「フランシスもや!」
「あぁ餌付けってことね。はいはい」
「なんでもえぇやんかぁ」
アントーニョはフランシスの身体をバシバシと叩いた。昔からこの二人は仲がよいが、その理由はロヴィーノには判然としない。まず性格がまったく異なる。フランシスの自己愛性向は極めて周辺によく知れ渡っているのに対してアントーニョは自分というものにわりと無頓着だ。自分を飾ることを好むフランシスとは対照的に自分を飾ることに一切の興味を示さない。優雅だとか美だとかにうるさいフランシスと、美醜よりも実質を気にする傾向にあるアントーニョ。見ているとその差異は観察者の方にむしろ強く感じられた。それがひとつ。
アントーニョはその昔に植民帝国を築き上げたが、それが長く続いていないことは我が身をもってもロヴィーノは知っている。その後のアントーニョはと言えば、フランシスに引っ張り出されたり同じく旧友たるギルベルトに引っ張り出されたりとして振り回されていることの方が常であった。フランシスに至ってはアントーニョに遠征まで仕掛けている(ついでにこちらにも来たのでロヴィーノはやはりフランシスを好かない)のである。れっきとした侵略者だ。無論、侵略者ならば情が生まれないとは言わない。アントーニョとロヴィーノも基本的には支配・被支配関係から始まっているし、その手から脱するべきとの結論に到達したことも誤った判断ではなかった。それでもロヴィーノはアントーニョが好きなのだ。情に理屈は伴わない。
考えているうちに彼らの友情は理屈ではないのかと自分で結論づけてしまった。とりあえずだまって見ているわけにはいかない。というか彼らの間の友情などそもそも知ったことではないのだ。理屈で行動を正当化しようなどと愚である。ロヴィーノはアントーニョの育てによるものだと強く主張するが、頭で考えるのは向いていない。
「アントーニョ、俺がパスタを作ってやる。カルボナーラかペスカトーレか選べ」
「え、なんやの、急に?」
フランシスの方を向いていたアントーニョはこちらに振り返って首を傾げた。
「グラタンじゃ、主食にならねぇだろ」
首を傾げたままのアントーニョはそのまま少し考えるようにまばたきをして、頷いた。理屈として妙だとロヴィーノは自分で思うのだが、アントーニョはあまり考えていないようである。彼は「そんなものか」という言葉がカバーする範囲が非常に広いのだ。
「材料を買ってくるから待ってろ」
言い含めるようにして立ち上がると座ったままゆえに少し低くなった目線がこちらをじっと見つめている。
「パスタくらい家にあるで?」
それでは意味がない。アントーニョはロヴィーノが自分の計算において彼に食事を作ろうという意図を知らないからそのように発言するのだということは分かる。しかし意図をまるで察していないところは相変わらずの鈍感と言えた。明言すると遠慮される気がして先ほどもそう言えなかったわけだし、ここではっきりと言うのもまた意味がないことである。
「パスタ法を守ってないパスタはパスタじゃねぇ」
なので適当に理屈をこねてみた。そういえばドイツやフランスにはパスタ法があったような気がするがスペインはどうであるのかとんと知らない。もしあったらその理屈は成立しないのだがアントーニョはそれについてなにも言わなかった。
「えぇー、多分ちゃんとデュラムセモリナ粉つこてると思うけど……まぁ、えぇわ。あ、今日はペスカトーレがえぇなぁ。グラタンはクリーム系やし」
「……だったらカルボナーラだな」
グラタンよりもパスタに勝算があるというわけではないが対抗心である。それにアントーニョが自分とフランシスを比較して前者を心情的に勝たせないはずがない。ロヴィーノは自己満足した。
「うわ、選択権がある意味あらへんなぁ。んーでもカルボナーラ好きやからえぇよ!」
なんだかクドイ食卓になりそうである。サラダもつけてやろうと思った。それならばデザートもなどとついつい余計なことが思い浮かんでしまう。どうしたらアントーニョを喜ばせられるか、彼の目を惹けるかということは重要だ。
二人の好意に笑顔を浮かべたアントーニョはふたたび内職作業に戻った。それを見届けてからロヴィーノは彼に背を向ける。そうして玄関に向かおうとした廊下の途中で腕を引っ張られた。
「まぁ、別にいいんだけど、もしかしかしてなにか誤解してない? 俺はライバルじゃないよ?」
わざわざ非ライバル宣言をされるとは思わなかったロヴィーノである。
「友人が貧困に喘いでるっていうから持ってきただけで」
なんとも言えなかった。
フランシスについてロヴィーノは誤解しているわけではない。この男がアントーニョを好きであるとかその逆にアントーニョがこの男を好きであるとかあるいは双方向好意であるとか、そういうことがあるとは思っていないのだ。緊密な友人関係であると理解している。グラタンを持ってきてもらうことでアントーニョが喜ぶのなら(食べ物はだいたいアントーニョを喜ばすのだが今は特にそうなのである)それを迷惑だと思うこともない。フランシスはそれなりに器用だし、内職だって手伝ってやればよいだろうと思う。そういう友人関係的によくある行動であろうこと(ロヴィーノには友人らしきものがあまりいないので不明確だが)をフランシスが行うのはそれはそれで正しい。
じゃあ正しいものとしてなんでもいいかと言うとそうではないのだ。「友人である」だから「親しい」。この言葉の前提がロヴィーノにとっては意味を為さないのだ。なんでもいいけど親しい様子はむかつく。
ついでに言えばフランシスがアントーニョに比べて、という限定を付さなくても多分に聡い人物であることも知っている。つまり今ここで、別にアントーニョなんて好きじゃない、みたいな発言をすることにどれほどの意味もないのだ。本人に悟られていないことを彼の資質ゆえと読むか否かは難しいが、フランシスとはロヴィーノ自身も付き合いがあるし今までもそれらしいことは言われてきていた。知られていることを知って言うことに価値はない。
結局総合したところで言葉がなかったのである。
「お前も苦労するよな」
「……うるせぇ」
とりあえず同情されるのも腹立たしかったのでそれだけ返して腕を振りほどいた。
「ペスカトーレで俺はいいんじゃないって思うんだけどね」
助言は無視してロヴィーノはドアを開けた。向こうから「いってらっしゃーい、気ぃつけてなぁ」と脳天気な声が聞こえる。そうか今日は生パスタにでもすればいいのかと思った。