カラリと乾いた風が肩にかかる髪を揺らす。山脈を越えて何度か来たことがあるこの国は今日も美しく太陽が輝いている。フランシスはなんとなく笑った。どことなく現実感は希薄だ。
「従わないと死ぬ――って言ったら、どうする?」
地面に仰向けに倒れているアントーニョは目を閉じていた。まさかこの状況でシエスタしているとは思わないが、フランシスは少し起きているのか否かが気にかかった。地面に突き刺さっている豪奢な剣の柄に手を沿えてみる。
「……えぇよ、従うわ」
アントーニョは瞳を開け、両手を上げて少しほほえんだ。自嘲しているようにも思える。どことなく感情が希薄そうに見えた。
「あっさりしてるんだね、お前は」
フランシスはゆっくりと息を吐いた。なんだかまるでバカバカしいばかりだ。こんなことをするために山を越えてきたのだろうかと思う。上司の人使いの荒さというものにも辟易していた。
「慣れとるんよ、こういうんは」
アントーニョは太陽をその翠の瞳に映してまばたきをした。視線はフランシスの方を向かず、伸ばしている褐色の指先が向かう先は太陽なのだろうかと思う。また沈まない陽を求めているのかもしれない。もはやそれは不可能だ。
「降伏が? 服従が?」
しゃがんで尋ねるとアントーニョはむくりと上体を起こした。
「なんでもえぇやん」
軍服の背についた土を払い、しかしそのまま座り込んでいる。
「よくないの。それにしても、お前はすっかり傷だらけだな」
彼の身体には無数の切り傷が溢れていて、血も滲んでいる。フランシスも決して怪我がないとは言わないけれど、彼ほどにひどくはなかった。それを聞くとアントーニョはむっとしたように頬を膨らます。
「つけたんフランシスやん」
翠の目はフランシスの目を囚えた。
「うん。ごめんね」
謝りながら頭を撫でてみたが、鬱陶しいというような文句も出てこなかった。されるがままどこか視点のあやふやなまなざしを遠い稜線に向けている。
「別にえぇよ。世の中、そういうもんやろ。上司が変われば方針も変わる」
うんとフランシスは手を離して頷く。国民の圧倒的な指示を得ている今の皇帝はまさに破竹の勢いで領土を広げていた。スペインにも遠征するというのはもちろん彼が決めたことである。フランシスの昔馴染みがそこにいることなど彼らにとって意義深いことではあるまい。
「今の上司は強いよ。世界征服できるかも。なんてな。ところで、お前の国にも、俺の上司と同じ血縁を入れておこうと思うんだ。どう思う?」
フランシスの上司たる皇帝の血族がアントーニョのところで王になればもう争う必要はないはずだ。その方がよいだろうと思う。フランシスはアントーニョを傷つけたいわけではない。自分の手でつけられた傷跡というものは魅惑的だけれど、アントーニョに痛い思いをさせたいなどとは思っていなかった。
「……仰せのままに」
アントーニョは胸元からロザリオを取り出して額に当てた。敬虔な信者のように、忠実な僕のようにそうして頭を垂れる。
「いいこだね」
もう一度撫でてみようかと思ったが、その神聖な様になんだか触れることができなかった。
「降伏でも服従でも同じや。俺は、お前に従う。そうでしかやっていかれへんのやろ?」
アントーニョはまた遠くを見た。すべてを諦めているような節がたまに彼からは見受けられる。その過去に手に入れた物を剥ぎ取られていくことを「仕方がない」と思っているかのように。得たものは失うことが当たり前であるようだった。フランシスはそんなことを考えたくはない。得たいと思って得たものはいつまでも等しくその手の中に抱え込んでいたい。今目の前にいる彼こそが特に。
「抗わないのが得策だよ。上司にもお前の扱いをひどくしないように言っておくから」
だからずっとそうやってこちらに委ねていてくれればよいと思うのだ。けれどアントーニョがこちらに従ってくれるという状態がつづくわけではないことも分かっている。一つの国として生きていくのならばそれも可能かもしれないけれど、所詮二つの国だ。いつか皇帝の権威が落ちれば、実力で押しとどめることができなければ、またきっと彼は逃げていくのだろう。
「おおきに」
アントーニョの声は静かだった。
「悲しい?」
首を傾げて尋ねると、きょとんとしたようなまなざしが返ってくる。
「なにがやの」
本当になぜ問われているのか分からないというような目でこちらを見ていた。
「屈することが」
誰かに支配されるということは、国にとって幸せなことではないだろう。隷属は自分たちが至上にすべき国民たちの地位を著しく低下させるおそれが高い。もちろんフランシスは皇帝にスペインの処遇をよくしてくれるように取り計らうつもりだ。確証はできないけれど、自分の手柄なのだから多少の融通は利くことだろうと思う。これ以上アントーニョが苦しまないようにできうる限りはしてやれそうだ。
「別にそうでもないわ」
しかしそうしたフランシスの考えと完全に相違しているとまでは言わないのだろうが、アントーニョは首を横に振った。日常ごとのようにつぶやく。
「慣れてるから?」
思わず尋ねれば今度は首が縦に振られた。
「せやね、慣れとる」
瞬間的にフランシスにとっては宿敵である男の姿が目に浮かんだ。
「うれしくない」
そして不快感が心臓に到達する。昔は敵のいないと呼ばれた彼が始めて屈した相手は海の向こうの島国だった。海賊なんて野蛮な真似をしてアントーニョを落とした国。上司はそちらもいずれ駆逐するつもりなのだろうかと思う。よく戦っているから勝手は知っているものの、あまり得意とする相手ではない。また行けと言われたら嫌だなと思う。それならアントーニョも誘ってみようかと思った。きっと恨みがあるはずだ。
それにしても愛するアントーニョが誰かに屈したということを考えるのはフランシスにとってちっともうれしいことではなかった。
「フランシスが?」
アントーニョは首を傾げた。怒るのは自分であるべきだとでも言うような言葉を、怒る気のないような表情で紡ぐ。
「お前が、他の誰かに取られたみたいだ」
率直に感想を述べるとアントーニョは複雑な顔を見せた。
「取られてへん」
たしかにアントーニョは海の向こうの国に敗れたけれど、今のように服従させられたわけではない。それはフランシスも知っている。
「分かってる」
フランシスは右手の指先を褐色の頬に伸ばした。触れてもアントーニョは無感情な瞳でこちらを見ているだけだ。
「分かってへんやろ」
そして呆れたように声を出す。
「そう?」
わざと首を傾げると、手首を掴まれた。
「そうやて」
言いながら頬から指が離される。
「お前が言うならそうかもしれないね」
投げたような返答には溜息が返ってきた。右手をアントーニョの両手が包む。
「自分で考えんとダメやで」
まるで母親のようなセリフだった。
「そうだね。どうでもいいんだ。帰ろう。帰って治療してあげるよ」
こことか、と言いながら左手で目の上の傷跡に触れてみる。アントーニョは一瞬痛そうな顔をした。けれど次の瞬間には元に戻ってのんびりとほほえんでくれる。
「おおきに」
右手を掴んでいた指先が離れた。
「痛い?」
袖の取れかけている軍服の右手部分を見やる。露出した肌には血が流れていた。それを解放された指先で掬えば、なんだかくすぐったそうにアントーニョは目を細めた。
「そこそこやな」
まるで痛くないみたいな表情だったので、フランシスには余計に罪悪感が募る。
「そっか。ごめんな」
血を舐めとってやろうかと思ったが、衛生的でないのでやめた。
「えぇよ」
アントーニョは立ち上がる。また土を几帳面に払ってフランシスに背を向けていた。視線が見つめる先が稜線なのかそのそびえる先のフランスなのか分からない。彼はなにも言葉を発さずにだまって遠い空を見ていた。
「愛してるよ、アントーニョ」
後ろからまた指を伸ばした。頬に触れて唇に触れる。
「知っとる。なぁ、ロヴィーノも悪くせんといてな」
けれど返る反応は至って淡白だ。
「分かった――けど、弟離れしなよ、お前もさ」
アントーニョが心から想う弟ロヴィーノのことをフランシスは疎ましいと思っていた。上司が南イタリアも遠征すると聞いて密かに喜んだのだけれど、その後アントーニョが悲しげにしていたのを見て思い直した。やはり彼を悲しませるのは正しくない。その時の弟を見るアントーニョはフランシスが見る中で一番悲しげだった。
唐突にフランシスはロヴィーノなどいなくなればよいのにと思う。
「まぁ、分かっとるけど」
呼気が指先にかかった。
「分かってない。妬いてるんだよ?」
どうやってあの男から引き離そうかと頭の中で算段している。アントーニョの感情が恋愛と程遠くにあったって、可愛がっているのも愛情を傾けているのも気に入らない。いつか八つ裂きにして欲しくなかったら早く弟離れしてもらいたいものだ。「ロヴィーノは世界で一番かっこえぇ!」などという言葉を聞かされる身にもなって欲しい。
愛してるよとまた言うとアントーニョは振り返って笑った。