湖の底


 乾いた部屋で目覚めると首元に違和感があった。両手が拘束されているので触れることもできず、その正体は分からない。頬に触れている床が冷たい。さざめくように耳に入るのは波の音ばかりだった。時計かなにかないだろうかと辺りを少し見回してみたが、なにも見当たらない。
 アントーニョはずきずきと痛む後頭部に悩まされながら目を閉じて記憶を改める。ここがどこだかは分かっているし、なぜこんなことになったのかもきちんと覚えていた。ここはイギリスの船の一室だ。それを判然とさせると唐突に目眩が襲いかかってきた。投げ込まれて随分と経過している気がするが、昨日も一昨日もその前もすべて思い出したくないと脳が拒絶している。レッドゾーンだ。自由になる指先を動かそうと試みたが、あまり役には立たなかった。ペンキも塗られていない粗末な造りのこの部屋は人が過ごすことなど考えられていないのだろう。ここに閉じ込められてからもう既に何度も見ている申し訳程度の木製のベッドと肌触りの悪そうな毛布だって、そこに寝転んでいるわけでないのならば意味がない。まったく無用の長物となっているように思えた。採光も悪い。このまま自分が朽ちたとしてもアントーニョは驚かないだろう。床もひどく汚れていた。
 それからは目を逸らしてふと顔を上げると、視界に見慣れてしまったブロンドが飛び込んできたのでアントーニョは驚いた。
「ああ、目を覚ましたのか」
 なぜここに居座っているのだろうかと思うと声が出なくなった。腰かけていたアーサーは立ち上がると、コツコツとブーツの音を響かせながらこちらに近づいてくる。
「随分と長いお休みだったな。待ちくたびれたぜ?」
 主観的に言えばアントーニョはアーサーを怖いと思ったわけではないし、そのように思ったことはただの一度もない。けれど身体は完全に怯えていた。指先が震え、全身は凍りついたように動かない。近づいてくる足音を身体はただひたすらに拒絶している。ずっとここで目が覚めるまで待っていたのだろうかと思うとますますぞっとした。
 アントーニョの顔のすぐ傍で黒いブーツは止まり、アーサーは屈みこんでこちらをじっと見つめる。緑色の双眸がアントーニョには底のない沼のように見えた。
「よく似合ってるじゃねぇか、その『首輪』」
 白い指先が首元をなぞる。言われて『それ』がなにかをアントーニョはやっと認識した。皮膚の感覚から革のようななにかと金属がついているらしいということまでは分かっていたが、それ以上は考えることを放棄していたのだ。だいたいなぜそんなものが。
 本当にただの首輪だった。なんの変哲もないという意味でもそうだし、拘束具としての用をなしていないという意味でも「単なる首輪」に過ぎない。囚人が逃げないようにと考えてつけられているように、どこかに鎖で繋がれているわけでもなかった。首輪がついているということだけがここに存在する唯一の事実だ。
「っ、こないなモンつけて、どうす――」
「持ち物に所有者の名前をつけておくのは当然だろうが」
 アーサーは当然のようにそう言って指先を頬へと動かす。
「もち……もの……」
 愕然とした。奴隷を売り買いする『物』として扱うことは分かっていたけれど、よもや自分がそんな風に扱われることになるとは思っていなかったのだ。
「ちゃんと、身体検査も済ませてあるからな。綺麗でなによりだ」
「黙れッ!」
 瞬間的に激昂して思わずアントーニョが叫んでもアーサーは涼しい顔をしている。そのような言葉も怒りもまるで意に介していないようだった。
「そうだ……その反抗的な目がいい。怒ると翠色がより映える」
 指先は顎を軽く押し上げて抵抗のできないアントーニョの頬に口づけが降りた。背筋を冷たいものが通り抜ける。物として扱われることはもはや致し方のないことだろうとは分かっていた。敗者だから仕方がない。それでもなにもかもを受け入れられるほどのキャパシティがあるわけではないのだ。考えたくもないしおぞましい。
 暗い緑色の瞳は頬から離れると黙って静かにこちらを見つめていた。なにかするつもりはないらしいとアントーニョは少し安堵する。その先など考えたくなかった。いつになったら解放されるのだろうかと思う。耐え切れずに目を逸らすと少しして笑い声が耳に届いた。アントーニョが驚いて反射的に声の主の方へと視線を送れば、急に緑色の双眸は乾いたように笑っていた。
「もうすぐ、イギリスが近づく。あぁ、安心しろ。お前を売ったりしやしねぇよ。お前は俺の家に来るんだ」
 家と聞いても一瞬なんのことだか分からなかった。アントーニョは明るい自分の家のことを思い出したけれどすぐにそれが記憶の中で立ち消えていくのを感じた。
「俺の物が俺の家にあるのは当然だと思わねぇか?」
「――狂っとる」
 呟いた言葉にアーサーは立ち上がって鼻で笑った。
「Don't you know that? I'm crazy, and I'm crazy for you!!」
 それがどういう意味の言葉であるのかは分からなかったが、馬鹿にされているのだろうということは漠然と感じられた。アーサーは乾いた声で笑いつづける。
「安心しろ。お前は奴隷じゃない。お前は奴隷じゃないんだ。部屋はもっと明るい場所だ。食べたい物はなんでも用意させる。あぁ、イギリスの料理は嫌だと言っていたな。それならスペイン料理を用意させよう。こんな所で眠ることもない。俺の家なら温かい柔らかい布団で眠れる。もう、痛くないようにしてやる。安心しろ。お前は奴隷じゃないんだ、マイ・プリンセス」
 あぁやっぱり狂っているとアントーニョは思った。
「I love you, my princess.」
 また、深い口づけが落ちる。

「アーサー、本当に褒美はいらないのですか?」
 広々とした謁見の間に美しいブロンドが輝いている。もっとも光の溢れる場所である玉座に座る女王はもう一度同じ言葉をくりかえして尋ねた。赤い絨毯の上でかしずいているこの国を象徴する青年に、この戦の功労者である青年に向かって。
「えぇ、結構です。俺なんかのことよりも政のことを女王はお考えください」
 ここに来たときからアーサーの瞳の色がおかしいことに女王は気づいていた。海へ出る前はエメラルドグリーンのようだった瞳の輝きが濁っている。まるでなにか取り憑かれたかのように。そう考えて頭を振った。イギリスは勝ったのだ。彼と海賊たちの働きによって、太陽の沈まない国を打ち倒した。これからは通商もはかどることになるだろう。海を自由に渡ることができる。それだけでよいはずだと言い聞かせた。強大な国を倒して覇権を奪い取る。誰にも破られることのない国になるのだ。そうやって前を見ていればきっとこの国は繁栄の道を歩むのだと。
 吹き抜けてくる湿った風に女王は雨を予感した。またこの国には雨が降る。太陽を打ち倒してなお、否、それだから一層に雨が募るのかもしれない。
「女王、スペインへの制裁として、各国に貿易制限をさせましょう。オランダの同盟都市辺りはうるさく言ってくるかもしれませんが、我らの力があればその位のことは可能です」
 それは悪い考えではないと思った。無敵と呼ばれた艦隊を倒した今、この国に敵はいない。その力を背景に西欧の国々に圧力をかけることは容易いだろう。いつかこの国が西欧を支配できるかもしれないとすら思われた。それはまだ今ではないだろうけれども。
「それは良い案だと思います。そのように手配しましょう。アーサー、他に望みはないのですか?」
 勲章はいらないと言われた。そもそも彼に勲章が必要であるかどうかは分からないが、武勲を讃えることは必要なことであるように思われる。なにも望まないことが女王にはおかしく見えた。
 三度問われたアーサーはうつむいて少し考えたようにした後、顔をあげて少しほほえんだ。まるで紳士的にそれらしく。
「でしたら、家に、スペイン料理を用意させていただけませんか? 先程の言葉に反するのは恐縮なのですが、スペインから食材を輸入して」
「……そんなものが、必要なのですか? それだけを?」
 頷いた彼の緑色は病んでいるように映った。
「えぇ。とびきりの戦利品を得たんです。だから他にはいりません、Her Majesty the Queen」

* Her Majesty the Queen=女王陛下

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