アントーニョはフォーマルな場所にはあまり慣れていない。彼の国とて名のあるレストランともなればそれなりの形式や格好を要求されるものだが、当本人がそういう場所に近づかないのである。
「……フランシス、こんな格好で入ってえぇん?」
フランシスが案内したサロン・ド・テはクラシカルにしてアンティークな面持ちであって、アントーニョは一度肩を上げてからこちらをうかがうように見た。
「三ツ星レストランじゃないんだから。ただのランチだしね」
それに言うほど彼は妙な格好をしているわけではない。今日のアントーニョは家にいるときのようなルーズなシャツと違ってタイもしてないしカジュアルなものではあるが、ちゃんとした白いシャツを着ている。入るときに脱いだ紺のジャケットを腕にかけている姿も似合っていた。いささかアントーニョらしくはないものの。
「せやけどな」
いいからとフランシスが背を押すと、ためらいがちにアントーニョは店内に入った。店と同じくクラシカルな給仕が入ってきた客に気づいて頭を下げる。つられたようにアントーニョまで慌てて頭を下げていた。なかなかおもしろい。
ランチタイムだが店内には人がまばらだった。三ツ星レストランではないと自分で言ったものの、それなりに高級な店だから混雑とは無縁なのだろう。閑雅なマダムが何人か座っているのを横目で確認しながら給仕に連れられてやや挙動不審に歩くアントーニョの後にフランシスもつづいた。
「フランシス、普通の店でえぇて言うたやん!」
席に座ったアントーニョは彼にしては珍しく声をひそめて言葉をつむいだ。
「なに言ってるの。せっかくの逢瀬なんだから、これくらいの方がいいじゃない」
「逢瀬て……」
アントーニョはなんだか難しげな顔でおうむ返しした。沈黙する時間もなく給仕がメニューを持ってきたので、フランシスもアントーニョもそちらに目をやることになる。
「なぁ、AランチとかBランチとかあらへんの?」
「ないよ。オリジナルランチでいいんじゃない」
「これ、高くあれへん?」
「どれもおんなじでしょ」
「……せやね。どれも高ぁっ」
メニューをためつすがめつアントーニョは見つめているが、たぶん何度見ても変わらないだろう。そんな恋人の様子はフランシスにとっては非常におもしろいことこの上ない。くすくす笑うとアントーニョは眉間に皺を寄せてむっとした表情に変わった。「なに笑っとるん」とでも言いたそうである。
「俺はお前のと別のにしておくよ。紅茶はなにがいい?」
フランシスはオリジナルランチの下を指差してから別表の紅茶の一覧をめくる。
「なにて言われても、分からんわ」
端から紅茶のメニューなんて開いてみる気もないようにアントーニョは頬杖をついて窓の外に目をやった。
「じゃあ、アールグレイ辺りがいいんじゃない? あ、アントーニョは甘いのが好きなんだっけ? それならフレーバーでなにか甘いの見繕ってあげようか。ホットとアイス、どっちがいい?」
「んー、寒なってきたからホットがえぇな」
「了解。だったら甘いのでなにがいいかな……」
ここのオリジナルブレンドはフランシスも何度か飲んでいるが、悪くない。しかし基本的にはストレート向きのブレンドだし砂糖を入れて飲むならばフレーバーティーでなにか甘めの紅茶がよいだろう。ミルクティーではないのだし。自分は件のオリジナルにすることに決めて、ちっとも選ぶ気のなさそうなアントーニョの分を思案する。カシスやベリーの甘さならばわりとさっぱりとしていて飲みやすいかもしれないとアタリをつけた。
「なぁ、フランシス」
「なに?」
視線を向けずに尋ねると、アントーニョはほうっと息をついた。
「お前も紅茶詳しいんやね。紅茶はアーサーの専売特許やと思うてた」
恋人の口から聞き慣れた宿敵の名が耳に入ったので反射的にフランシスは顔を上げた。浮かぶのはやたらと眉毛ばかりが印象的な性根の悪いブロンドの男だ。瞬時に浮かべて瞬時に抹消する。いつのまにかアントーニョは真面目そうにこちらを見つめていた。
「げ、あのマユゲ? あんなのと一緒にされるのは嫌なんだけど」
そして眉根を寄せることで本心からの嫌悪を込めて告げると、アントーニョは少し顔を崩して首を横に振った。
「ちゃうよ、そういうわけやなくて。なんていうか――珍しぃなぁって」
「紅茶飲むのが? 別に俺だってコーヒーしか飲まないわけじゃないよ」
確かに文化的にはコーヒーが主流だ。紅茶が好きだと言う人は珍しい。しかしこのようにサロン・ド・テが存在しているくらいだしフランシスだって紅茶も飲めばビールだって飲む。もちろん英国やドイツほどとは言わないが。アントーニョはそんな返答にもまた首を振って返す。
「それもちゃう。んー、なんて言うねやろ。しっかりしとるフランシスがっていうか」
しかしそれはフランシスからすれば極めて心外な発言だ。これでは普段はしっかりしていないとでも言うようである。先ほどから話題に上る某ツンデレ海賊眉毛に比べれば余程マシだと思っているから対比されているみたいに感じて余計に納得がいかない。
「何気に失礼だね、お前も」
メニューで額を小突いてやろうかとでも思いながら言えば、アントーニョは微妙な表情を浮かべながらもフランシスにそのまっすぐなまなざしを傾けている。そしてつぶやくように口を開いた。
「……たまにはカッコよく見えるもんやなぁ、って思うただけ、や」
そう言い切って彼は視線をふたたび窓の方に向ける。フランシスはしばし絶句してまばたきをくりかえした。そういう意味だとはちっとも思わなかったのだ。彼が素直でないとは言わないが、なにせ昔から付き合いが長すぎる。好きとか愛してるとかいまさらアントーニョはあまり言わない。まして『カッコイイ』だなんて初めて聞いた。
「うわ……、可愛いこと言うね」
「もうえぇわ」
すっかりそっぽを向いたままの恋人にフランシスは笑みを深めた。表情にそれほど出ているのではないが気恥ずかしいのだろうということは分かる。昔から可愛いと思ってはいたがフランシスはそれを再認識した。やはりアントーニョは可愛い可愛いpetit amiであるらしい。
「惚れ直した?」
「自信過剰や」
フランシスが調子にのって言えば冷たく返される。
「そう? 俺はお前に惚れ直したよ、アントーニョ。可愛いなって」
「っは、はっずかしいこと言うなや!」
思わずと言った風に彼の視線がふたたびこちらに戻ってきた。
「声大きいよ、アントーニョ」
指摘するとアントーニョは身体をびくっとさせて慌てて周囲の様子を見た。遠くにいるマダム達は自分達の会話に夢中でこちらになど目をくれることもない。それをちゃんと認識してから安心したようにアントーニョは椅子に背を預けた。
「あ、注文いいかな」
そんなアントーニョの様子を尻目に手を上げて呼べば、きちんと教育されている給仕は静かにしかし足早にこちらに近づいた。
「オリジナルランチ一つと季節のランチ一つ。紅茶はこれと、これをホットで」
「かしこまりました」
注文を受けた給仕の手でメニューが下げられる。居心地の悪そうなアントーニョは去っていくその背をしばらく見つめ、ぼんやりと尋ねた。
「紅茶、なににしたん?」
「お前の好きそうな甘いのにしたけど」
アントーニョは砂糖壺に手を伸ばして蓋を開けた。「ガムシロップでも紙袋に入った砂糖でもないんやね」などとつぶやく。甘く満たされているのはザラメだ。
「甘いの、なぁ」
「そ。名前も甘いんだけど、聞きたい?」
「なんやの、甘い名前って」
彼は善意そうに首を傾げた。フランシスは目を細めてアントーニョに顔を近づけた。そして誰にも聞かせられない呪文のように彼に囁く。
「――mariage」
* petit ami=恋人