暗礁を焦がれる


 ローデリヒの部屋は整然としてとても静かだ。彼は静寂を好み騒乱を嫌う傾向にあるらしい。アントーニョが傍にいるようになって知った事実である。昔はもっとピリピリとしていた感じもあるが、段々と気質は丸くなっているように思われた。ローデリヒはひたすらに美味しい物とピアノ音楽を好んでいる。この部屋はいつでも穏和だ。
「また、あの男のところに行ったのですか?」
 ローデリヒはピアノを弾いていた手を止めるとあからさまに溜息をついて見せた。彼の奏でる音に聞き入っていたアントーニョはびっくりしてソファから立ち上がる。
「……会ったら、アカンの?」
「いいえ、別に。ただ、あまりとやかく言いたくもないのですが、友人は選んだ方がいいですよ」
 その一連の発言は相互に矛盾しているだろうとアントーニョは思う。しかし自分の着る高雅だが重い服に一瞬視線を向けて、なんてことのないように笑った。せやねぇと。
 ローデリヒは先程までの言葉になど意味がないようにふたたび指先を動かす作業に戻る。ここに来るとまるでBGMにするように彼はピアノを弾くことが多い。指先に神経を集中させるためか言葉はいきおい少ないし、アントーニョの方も邪魔をしてはいけないだろうと極力話かけずに一人遊びをしている。テーブルの上のトルテをフォークで突き刺して口に運んだ。どこから調達するのか食材は高級な物ばかりで甘さは上品に口中を満たす。まるでローデリヒらしい。
「やっぱり、ローデリヒのトルテは美味しいなぁ」
「――当然です。あなたのためにあちこちから食材を取り寄せたのですから」
 そして平然とローデリヒはそう発言する。指の動きは止まらない。メヌエットは徐々に収束に向かっていた。
 リビングは光で満たされている。名門であるローデリヒの家と繋がるようになってからのアントーニョの世界はひどく安定していた。輝く波間を背に「あなたも望んだことでしょう」とローデリヒは無感情げな瞳で指輪を差し出した。そしてアントーニョはその時もやはりほほえんで同じように指輪を差し出した。それが正しいとかそういう以前のことだったのかもしれない。
「私は、あの男は嫌いです」
「知っとる」
 あの男――フランシスもヨーロッパ随一の名門という名を背負うローデリヒのことを疎んでいるらしかった。言葉の端々からよくない言葉が出てくるのだからアントーニョも困っている。ことあるごとに自分の方がふさわしいはずだと言うけれど誰にとってなのかは聞けなかった。
「だから、あなたが向かうのも好ましいとは思いません。ですが、止められるものでもないのでしょう?」
「そないなことないわぁ。行くなって言えば、行かれへんよ」
 メヌエットを弾き終えたローデリヒは振り返った。部屋には沈黙が落ち着いている。もうずっとこうやって静かな部屋にばかりいた。降りるのはピアノの音だけ。ある時フランシスの元から帰ってきたアントーニョにローデリヒはひどく落ち着いた声音でこう言った。「香水の匂いが染み付いていますよ」と。そんなことはアントーニョにはちっとも気づけなかったのだ。甘い香にあまりにも近づきすぎている。
「言ってどうにかなりますか」
 まっすぐに瞳を見て言われたのでアントーニョは目を逸らした。別に彼の言葉に首肯できないというわけではないが、ただぶつけられる視線が痛かったのだ。ちらりとうかがえばメガネの奥のおっとりとした双眸は数度まばたきした後に視線を落とした。
「いつかあなたがフランシスの手を取ったとしても、それを止める術はないでしょうね」
「ローデリヒ」
「あぁ、感傷ではありませんからご心配なく。ただ、次は誰の傍にいればいいものかと、思っただけですよ」
 ふふとローデリヒは珍しく笑った。こうして共に過ごすようになって初めて見た物かもしれない。彼がなにより恐れているのは孤立なのだろう。帝国に埋もれてしまわぬように自国を守るために。名前だけの名門一族となってしまわないように。だから誰かと共にいろと言われればきっとそのようにするだ。その相手が彼の嫌いだというフランシスでも海の向こうの海賊でもなんでも。もともと貴族らしく過ごしてきたローデリヒに戦はふさわしくないとアントーニョは思う。それよりは自分の方がずっと向いているのだから、外敵を排してあげられる自分が傍にいることは正しく思われた。そして彼は名誉という恩恵を与えてくれるという対価関係。
 しかし安穏としたこの場所は自分によってではなくローデリヒによって守られている場所のようだった。平和で暖かくてアントーニョをも守ってくれている。精神的にも物質的にもなにもかもが安全で満たされていた。それなのにずっと息苦しくて逃げ出したいとばかり思っている。「遊びにおいで、アントーニョ」とフランシスは囁く。差し伸べられる手を取れば空気が開放されるように感じられた。その種の自由が自分に与えられるべきであるのか否か判別がついているつもりだったのに、このままずっとと願ってしまう。けれどそれならば、苦しいのならば、逃げ出せばいいと言われても結局アントーニョにはそこまで不誠実な真似はできなかった。ローデリヒは自分を伴侶と認め、その愛情を惜しみなく注いでくれる。もちろんそれが恋愛感情であることはないだろう。もとより関係は友好的であったしそれが発展していった親愛の情としてなのである。それでも恋人のように伴侶のようにあるいは母のように愛情のすべてを傾けてくれることは実際心地良いという面もあった。それを手放せないというのは卑怯だと思う。せめて朝になる前にここに帰ってくるのならば許されるのだろうけれど。
「でもあなたは、こんなところに来たくはなかったのでしょう?」
「なんでそう思うん?」
「笑い方を見れば分かりますよ、お馬鹿さん」
 知らず笑みを浮かべることが多かったが、そのように指摘されてアントーニョは申し訳なく思った。狼狽したとかそういうことはない。
「ですが、ピアノを聞いているときだけは表情が穏やかだったので、きっと好きなのだろうと思いました」
 だから弾くのかと尋ねようかと思ったがやめた。きっとこれ以上聞いたらますます戻って来られなくなる。ローデリヒから注がれる情を捨て去ったら楽になれるだろうと思ったのに、そう願うことすらできなくなってしまう。居心地と危険という相反する物を求める感情が同居していた。そのまま逃げ道を失って海で溺れるのはごめんだ。あるいは海ならばとも思う。このまま沈んでなくなってしまった方がずっとよいようにも思われた。果てのないように思える海は心を飲み込んでいく。
「皇帝は――もう、疲れたみたいですね」
「へぇ、そうなん」
「もしかしたら、あなたとの別れも近いのかもしれません」
 またピアノの音が響く。荘厳な響きが心を満たしていた。
「寂しなるなぁ」
「えぇ、そうですね」
 特に偽りの言葉ではなかった。ローデリヒの与えてくれる音楽も美味しいお菓子も暖かくて光に溢れているこの部屋もすべてがアントーニョの気に入りであったのだから。
 けれど唐突にアントーニョは海はよいと思った。すべて手に入れたらすばらしいだろうとも。穏やかな波はなにもかもを忘れさせてくれるし、染められた血も綺麗に洗い流してくれるのだろう。きっともうローデリヒがいなくても十分に自分の国は戦っていける。立ち上がったアントーニョは美しい音楽と光に満ちた申し訳ないぐらいに居心地のよい部屋に背を向けた。
「ローデリヒ、出かけてくるわ」
「そうですか。いってらっしゃいなさい、アントーニョ」
 別れてもいつかまたローデリヒの手を取るのかもしれない。あるいは今度は望むままにフランシスを選ぶのかもしれない。もしかしたらひたすら孤立していくのかもしれない。分からないけれど今日もまたアントーニョはフランシスの元へと足を運ぶのだ。いつか感情と齟齬が生じないようなそんな時代が来るのだろうかとだけ思った。

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