戯れで遺言を書いたことがある。そう、陽介が妻に話したところ、どうしてそんなことをと不思議そうに返されてしまった。切欠はついぞ思い出せない。ただ確かに、嘗て自分が相棒と呼び、誰よりも大切に思っていた存在のことだけが記憶には残っている。
「花村陽介さん……ですよね?」
仕事の都合で単身赴任生活をしているマンションに、黒髪を二つに結わえた顔立ちの良い女性が訪れた。女性は丁寧にお辞儀をすると、覚えていらっしゃらないかも知れませんが、と前置きをする。
「あの、菜々子です。堂島菜々子。……覚えていますか?」
躊躇いがちに伏せられた黒い瞳と名前に、記憶のピースがカチリと嵌った。
「――菜々子ちゃん?」
言葉にしてから、しまったと陽介は思った。ちゃん付けで呼ぶ様な年齢ではない。しどろもどろになりながら、菜々子さん、と呼び直すと、菜々子はクスクスと笑った。どちらでも構わないですよ、と。
「えっと、すげぇ久しぶりだな」
「はい。花村さんは、お変わりない様で」
最後に会ったのがいつだったか覚えてはいないが、千枝か雪子か誰だったかが、結婚式に出たと話していた記憶がある。恐らく堂島は旧姓なのだろう。
「どうかした?」
「……あの、花村さん、兄さんの葬儀には、いらっしゃいましたよね」
「月森の?」
菜々子は静かに頷いた。彼女は一人っ子だ。兄と呼ぶ存在は、陽介が高校生の時分からたった一人、月森柚樹を除いて他はない。陽介が相棒と呼んでいた大切な親友。一月程前に、彼が亡くなったとの報せがあった。仕事の都合もあり、葬儀にも出たかったのだが、通夜だけしか顔を出せなかった。出席者は多く、彼の顔の広さや交友関係の広さを改めて思い知らされたものである。
「通夜には顔を出したよ」
「あ、はい……皆さん、来てくださったそうで」
通夜では、高校時代の仲間とも久々に再会した。今ではママドルとして活躍しているりせは、大好きだった先輩の死に大泣きして、探偵から女刑事に転身した直斗に背を撫でられていた。泣いていたのはりせだけで、女将となった雪子は今でも親交の深い親友の千枝と、どちらかと言えば懐かしそうにしていた。直斗と同じく、稲羽署で警察官として働く完二も、郷愁の念を強く滲ませていた。
泣かなかったのは勿論、悲しくなかったからではない。湿った空気を月森も望まないだろうとは思ったし、それ以上に、現実感が希薄だったのだ。まだどこかにいるような、そんな気がしていた。すとんと納得して、家に戻って涙を流した気もするが、彼の胸を借りて泣いた時に比すれば、大した量ではなかったと思う。人の死にも向き合える様な年齢になったのも事実だ。
「忙しくて、お構いも出来ずに失礼しました」
「葬儀、菜々子ちゃんと堂島さんがやったんだって?」
「兄さんは独身でしたから」
両親も既に他界しており、身寄りは堂島の家以外になかったという。陽介は慌ただしくしていて、忙しそうな菜々子や遼太郎に声をかける余裕もなかった。
「菜々子ちゃんが結婚してあげなかったから」
「昔の話ですよ」
高校の頃からモテていた月森が独身を貫いたというのは、意外だった。
「その、兄さんのことなんですけど……」
「月森がなにか?」
「遺言が見付かったんです」
菜々子はそう言うと、持っていた白のハンドバッグから、白い封筒を取り出した。封筒には「遺言」と書かれている。それは、几帳面で綺麗な、月森の文字だった。
陽介が結婚してからは、月森と会うことはなくなっていた。毎年、年賀状だけが律儀に届く。だから、見慣れた文字。
「見て、あげてください」
菜々子は封筒を差し出した。逡巡を感じながら、陽介も手を伸ばす。
(アイツの、遺言――)
「俺が……?」
「お願いします」
ぺこりと菜々子が頭を下げたので、陽介の方が恐縮してしまった。頭なんて下げなくても、読むこと位、訳ないだろう。そう思うのに、指先が震えた。開けてしまった良いのだろうかと躊躇う。菜々子は夜の色と同じ、真っ黒な瞳をじっと陽介の方へと向ける。注視する仕草が、どことなく月森を思い起こさせた。
『財産は全て、花村陽介に譲る。 平成24年、自分の誕生日に。 月森柚樹』
名前の後ろに、指印が押されてある。
(あぁ、あの時の)
記憶が一瞬で、数十年も昔に引き戻された。
「遺言って、15歳から書けるんだって」
それは、彼の17歳の誕生日に、部屋に行った時のことだった。冗談の様に、後一年経たなければ結婚出来ないのだなんて話した後で、月森はぽつりと呟いた。窓の外には雪が舞っている。
「は? お前ってなんでそういう変なこといきなり言い出すの?」
「四目堂書店で、遺言を書く本が売っていたから気になって、ネットで調べてみたんだけど」
月森の興味の向く先は些か変わっている。月森は白い便箋を机の抽斗から持ってくると、テーブルに乗せた。こういう時、陽介は成り行きを見守っている。自分と違う感性を見ているのは非常に楽しいのだ。
「自筆証書遺言。普通の遺言でも、方式があるんだってね。誰に何を譲るか、名前と、それから日付。印鑑。大体これだけで十分らしいよ」
「残す財産があんの? お前に」
「まぁ、将来は資産家の予定だから。そうそう、全部譲るとかでも良いんだって。えぇと、包括遺贈とか書いてあった」
「気前良いな」
へらっと笑うと、月森は陽介の頭に手を置いた。彼は、この髪が柔らかくて好きだと言う。髪だけではなく、頬に触れれば頬を、指を握れば指を、それぞれ好きだと言ってくれた。そういう言葉は女の子に言うべきだと言っても、飽かずに陽介にばかり告げられる。
「だからさ、陽介に全部遺そうと思うんだよ」
髪を撫でる温かい手。子供にするみたいだとは思っても、心地良くて、好きだった。
「全部?」
「俺も、俺の持っている物も、これから手に入る物も全て。全部、陽介の物にしてよ」
そう書いておくから、と手を離した月森は、ペンを握った。
「お前、よく、そういう恥ずかしいことが思い付くよな」
「ダメ?」
「や、別にいいんだけど……」
思わず目を逸らすと、月森は顔を近付けた。間近で見れば、いつも睫毛が長くて、灰色の瞳の奥に自分の姿を見る。熱っぽい視線のまま、月森は唇を重ねた。
「財産は全て、花村陽介に譲る――」
あの日書いた文字のままだった。便箋は色褪せていて、時の流れを思わせる。
「これを見た時に、あの頃を思い出しました。兄さんと、花村さんと、良く、部屋で二人で過ごして」
菜々子は淋しげに瞳を伏せる。
「私、邪魔しちゃいけないって、思ってたんですよ。花村さんも兄さんも、いつも私が一人でいると、上に呼んでくれてましたけど」
空気も読ませて貰えなかった。菜々子はふわりと笑う。空気が揺れた。
「……重ねて、もう一枚、遺言がありました」
「え、遺言って二枚も作れるの?」
「いえ、普通は、日付の新しい方が優先されて、前の遺言は撤回になります。ですが、遺言は、書いた人の意思を尊重します。前の遺言と新しい遺言が矛盾抵触しなければ、撤回ではないとして、前の遺言も有効なんですよ――って、弁護士さんが」
菜々子は悪戯っぽく微笑む。再びハンドバッグを探ると、今度は茶封筒を取り出した。
「もう一枚の遺言は、私を遺言執行者に指名するという物でした。兄さんらしく、生真面目に、報酬についてまで書いてありました」
「だから、俺のところに?」
「はい。兄さんの遺言を叶える為に、花村さんを探して来たんです」
月森は嘗ての言葉の通り、資産家とは言わないものの、かなりの財を成していた。具体的に何をしていたのかは知らないが、代議士の秘書だったか何だか、背筋を正した様な職に就いていたことを陽介は記憶している。
包括遺贈、と言った月森の声を思い出す。陽介、陽介、と幾度となく呼んでくれた、柔らかい声。
「これ、有効なの?」
「裁判所で検認を受けています。遺言は有効です。兄さんの遺産は、自宅の土地と建物、それから、銀行には預金が――」
「いらないよ」
「えっ……?」
菜々子はきょとんと瞳を丸くした。断られることを予期していなかったかの様に、首を小さく振る。
「遺言っつったって、貰わなくてもいいんだろ?」
「え、えぇっと、た、確かに、遺贈は放棄出来ますけど……」
「放棄したら、遺産はどうなるんだ?」
「……兄さんには、相続人がいませんから、その場合は国庫に帰属します」
「それって、菜々子ちゃんが貰ったりできない?」
「特別縁故者に認められれば、可能性はありますけど……」
「じゃあ、菜々子ちゃんが貰ってあげるといいと思う。俺はいらない」
菜々子はじっと陽介を見詰めた。
「貰ってあげて、くれないんですか? その……兄さんは、花村さんに遺したかったんだと思うんです」
「捨て忘れただけだって。昔さ、遊びで作ったんだよ」
「いいえ!」
忘れてたなんて、と菜々子は声を上げた。陽介の手を掴むと、今にも涙が零れてきそうな潤んだ目で、陽介を見据える。
「遺言は兄さんの机の抽斗の中に、新しい遺言と一緒に、クリップで止めてあった! 新しい遺言の日付は一年前。兄さんが、病で倒れた頃――兄さんは間違いなく、これを遺したんです、他でもない、あなたに」
「俺には貰えない」
「花村さんっ」
「貰えないよ」
陽介は首を横に振った。菜々子が項垂れる。彼女の気持ちを慮れば、貰ってあげたい気持ちもあった。けれどそれはもう許されないのだろう。
一度だって、月森を忘れたことはない。傍にいてもいなくても、彼は特別だ。陽介の想いはずっと、高校二年生のあの頃から変わっていない。彼と別れてから何かの折に、自分でも遺言を書いてみた。全てを月森柚樹に譲る。そう一言だけ書いて、封をした。月森が教えてくれた方式のことは忘れていたから、あの遺言は残っていても意味を成さないだろう。日付も名前もない。けれど確かに、彼がくれた物と同じ。
『俺も、俺の持っている物も、これから手に入る物も全て。全部、陽介の物にしてよ』
あの日の言葉が、『愛している』という言葉なのだとしたら、もう、陽介にはその想いを受取ることは出来ない。妻がいるし、彼女のことを大事に思っている。陽介が書いた遺言は、遙か昔に破り捨ててしまった。
月森が八十稲羽を去った日に、二人の恋は終わったのだ。別れようとは互いに言わなかったけれど、多分、その日が最後だと知っていた。だから、再会した時にはもう、二人は親友だった――。陽介はそのことを悔いたことはないし、恋人であったことを悔いたこともない。そして、彼が恋人ではなくなっても特別な存在に変わりはないからと、ずっと胸に仕舞っておいた。彼が何を思って毎年、年賀状を送ってきてくれたのか、知らない。そして彼も、積もったそれらが一枚たりとも捨てられることなく残されていることを知らないのだろう。
菜々子は俯いたまま、顔を上げなかった。
「これ、貰っても平気?」
中央に一文だけ書かれている、白い便箋。
「俺は、これだけ欲しい」
きっとこれは、在りし日の恋を綴った、ラブレターだ。遠い昔、月森は死期が迫る中で、何を思って遺言を遺したのだろうか。本当のところ、月森の遺志は、菜々子への遺贈ではないかと思う。葬儀だけではなく、病院にも足繁く通ったらしいとは聞き及んでいた。夫が嫉妬してしまう位に。献身的に世話をしてくれた菜々子に遺したいという気持ちと、もしかしたら最後の意地で遺したのかも知れない。陽介ならば遺贈を受けず、菜々子に分け与えられるのではないか、と予期して。
「兄さんは、ずっと、あなたのことが、」
これ以上は、彼の口から語られることはない。陽介にも知り得ぬことだ。軽く首を振って、陽介は笑みを浮かべた。
「届けてくれてありがとう、菜々子ちゃん。旦那さんと、堂島さんによろしく」
白い遺言を振ると、菜々子は淋しげな瞳を見せた。丁度、あの春の日に、月森を別れた時の幼い少女の姿が脳裏を過って消える。
さよなら。
あの日消えた、背と恋心に手を振る。
それなりに遺言の論点を押さえた教材です。(嘘)
陽介は別れても別の恋を見つけられるイメージがっていうか、こんなことになる前に復縁しろ!