(W)End is coming!

 3月に入って、学校は自由登校となった。勿論、卒業生だから等ではない。稲羽市を覆う異常な霧と、それに伴う体調不良の増加は、最早政府も看過出来ないレベルに達した。それに因り、学生の健康を考慮して、この様な処置が取られることになったのだ。しかし、国の最高法規上も認められている学問の自由を保証するとの趣旨のもと、登校したい生徒に関しては、登校を禁止する制限は取られていない。体調に問題がなければ、学校に通うことは認められているのだ。しかし、展望が見えず、隣市、隣県に転入手続きを取った者も少なくはない。知っているだけでも半数以上はそうしている。
 視界を不当に制限する霧の中、陽介は通学路の角でぼんやりと立っていた。そして、角から曲がる見違えない人影に、陽介は笑顔を浮かべる。
「おはよ、相棒!」
「あれ、陽介、おはよう。偶然だな。今日も学校行くんだ?」
 月森は黒縁の眼鏡を掛けている。陽介もオレンジの眼鏡をしていた。これをしていれば、眼鏡の向こうだけは霧が緩和される。直ぐ様、彼の隣に並んで、陽介はうんと頷いた。
「陽介は勉強嫌いだから、真っ先に行かなくなると思ったんだけど」
 意外だったと月森は笑う。
「失礼だな、相棒。俺だって、来年は受験生だぜ?」
「来年ね。――そうだな」
 月森は遠い目をして、深い霧の先を覗く様に灰色の瞳を細めた。
 『来年』は、この街には訪れないかも知れない。そう囁かれている。囁かれているから、通学路に人はいない。クラスにも二人しかいなくなってしまった。登校しても構わないと言われたって、教師も誰も出てきやしないのだ。だから、二人で教科書を見て、図書室で参考書を覗いて、勉強しているかしていないか分からない時間を過ごすばかりだ。聞くところに拠れば、学校に通っている奇特な生徒は、もう殆どいないらしい。陽介はただ、彼と過ごす為だけに学校に通っている。待ち合わせする訳でもなく、こうして通学路で偶然みたいに待っていた。彼の笑顔を見ていたいから、こうして隣を歩いているだけ。
「じゃあ、今日はテストしてあげようか?」
 受験という言葉に呼応したのか、月森は急にそんな提案をする。受験生と意識して先を考えることは、霧に閉ざされてしまいそうな街の中では、重要な思考だと思う。しかし、それと同時に、月森がいなくなってしまうことも思い起こされるので、陽介にとっては複雑だった。それでも単調に問題を解いているよりは楽しいだろう。
「なんのテスト?」
「古典と英語、どっちが良い?」
「んー……英語!」
「じゃあ、単語のテスト作ってあげるから」
 月森は自分の学習については問題ないらしく、大概、問題集で陽介が詰まると、その解説をしてくれるばかりだった。そうしている内に、何ページも教わって、陽介の勉強だけが捗る。正直、他にすることもないし、月森と時間を過ごしたいとなれば、必然的に勉強しなければならず、すっかり勉強は進んでいた。陽介も、もう三年生向けの教科書を勝手に借りてそれを見ている。それすら問題なく解いているのだから、月森の頭脳は本当に恐ろしい。
 学校にいる間、月森は完全に陽介が独占していた。教室にも図書室にも誰もいないのだから、当然、他に喋る相手だっていない。難しい問題に当たっても聞ける教師がいないのだから、月森に聞くしかなかった。
 もしも彼が来なくなってしまったとしても、仕方ないだろう。霧が人体に影響を与えていることは、もう疑いの余地もないのだ。ジュネスだってガスマスクが売れた程度で、開店休業状態だし、両親も気分が優れないと日々を憂鬱そうにしている。外に出ている人も皆、ガスマスクばかりしていた。世界は終わると信じている人の方が多い。その上、月森は3月中には東京に帰ってしまうのだ。それがいつになるのか、怖くて聞けないままでいる。
 いなくなる前には、こうやって二人でいたいが為に学校に来てしまう位に月森のことが好きなのだと伝えたいと思っているが、中々、タイミングが掴めない。今更、面と向かって言うのは難しいかも知れない。それならいっそ、手紙でも書こうかと思うが、それはそれで気恥ずかしかった。毎日そうやって過ぎている。明日なら、明日なら、と考える。そろそろ週末が近い。週末は学校に行かないので、月森とも会えない。今日こそ言おうと思っても、また来週に持ち越されてしまうだろうと陽介は思った。

 霧に眠る街は白い。冬の間は、通年感じる吐く息の白さを見失わせる程に白く煙り、霧の都とも称される外国の都市をも想起させた。その形容は、些か、言葉が過ぎる感はあるのだが。慣れた手付きで陽介は眼鏡を掛ける。八十稲羽を覆う濃霧から自他を判別する手段としては、いつの間にか眼鏡を掛ける以外になくなっていた。稲羽市がとか、世界がとか、終末論が叫ばれる様にもなって久しい。
「――霧が人体に影響を――、街の封鎖も――れて」
 テレビを見るのが好きではなくなって、ラジオを携帯する様になったが、この所、ノイズが酷くて良く聞き取れない。通りを歩いていても前が見えないことが多く、危ないので、ヘッドフォンをして歩くことも出来なかった。
 陽介は手紙を手に、ポストを探している。
 紅い身体はきっと、直ぐにでも目に付くだろうと思ったのだが、予想以上の霧の深さに、それすら探し出せなくなってきていた。眼鏡の力も、ここんとこ落ちている。クマがいれば修理して貰いたいところだが、生憎と彼の姿は、あの日以来見ていない。菜々子の心肺が停止し、再び蘇生したという、あの不思議な日。警察が容態の回復しない生田目を一向に起訴出来ずにやきもきしているらしい、とはラジオのニュースで聞いた。本当にあの日、生田目を落としてしまわなくて良かったのだろうかと、それだけが今でも気掛かりになっている。
「終末ですよ!」
 ラジオの向こうでも、近所の主婦の会話でも、その言葉を何度も聞いていた。白い霧に覆われて、世界が消える。そう夢想したとしても不思議はない様な霧に埋もれた街。けれどそんなことよりも、と陽介は変わらずにポストを探している。どこにあったのか、その記憶すら定かでないのは、陽介の記憶力に問題がある訳ではない。それを使うことを、最早想定していなかったという程度の問題だ。
 もうすぐ、週末がやってくる。
 月森は、あの日会ったのを最後に、突然、帰ってしまった。いつか戻るのだということは知っていたし、話題に出さないまでも、それが近いことは傍にいて感付いていた。それでもどこかで、ふと、消え去ってしまう様なことはないと思っていたのだ。彼は独りで列車に乗り、元の街に帰ったのだと聞く。そして二度と、戻ることはない。霧に包まれた死にゆく運命の街に、彼が戻ることはもうないのだ。もう、彼の笑顔は見られない。それだったら、ちゃんと伝えておけば良かった。それだけが心残り。
 週末が近い。前が見えなくなってきたのは、月森がいなくなってからだった様に思う。それから急速に、視界は白くなっていった。このままいけば、週末には……。
 だから、手紙を書いた。せめて彼に忘れられない様に。生きてきた証を残す様に。伝えたい想いや言葉は幾つもあったけれど、結局長々とは記すことが出来なかった。陽介はたった一言だけをシンプルに選んで便箋に書き、こうしてポストを探している。急がなければ、郵便も動かなくなってしまうかも知れない。終末は気に掛からないが、週末になればきっと郵便は遅れるだろう。その分、届かなくなる危険性は高まる。
(あ、終末が来たら、そっちでも届かなくなるか)
 それはそれでやはり困る。
 外に出るなと母親からは止められていた。身体が心配だから、と言われたが、生憎と陽介の体調は万全だ。眼鏡のお陰か、ベッドに臥せっているという街の人々と比較しなくても、元気だった。
「花村陽介様ですね?」
 道を走っていると声を掛けられた。急いでポストを探さなければならないので、構っている暇はないと思ったが、名前を呼ばれたことと、今、街中で人を見掛けることが珍しくて、陽介は立ち止まった。霧でぼんやりとしているが、細長いシルエットは女性らしく、金色の髪に、シルバーフレームの眼鏡を掛けている。女性は悠然と、艶然と微笑み、色白の指先を伸ばした。見たことのない相手だったので、陽介は首を傾げる。
「誰だ?」
「あなた様に、言伝が御座います」
 マニキュアの塗られていない爪が見えた。顔は見えないが、微笑んでいる様に思う。
「ポストは、だいだらぼっちの前に」
「え……? あ、そうか。そうだった。えーと……わざわざ、ありがとうございます」
 いいえ、と女性はまた微笑んだ様だった。そのまま姿が霧に消えて見えなくなる。そうだ、ポストはあんな所にあったのだ。商店街にあった様な気はしていたが、昔はあの辺りを良く通っていたというのに、すっかり忘れてしまっていた。女性の厚意に感謝し、陽介は踵を返す。振り返ると、視界が少しだけクリアーになっていた。疑問には思ったが、余り気に留めることもなく、陽介はまた、ポストを目指して走り出す。
 世紀末だとか、終末が来るとか、霧が深いとか、いつからか色々なことに鈍感になってきている気がしていた。鈍麻している。もしかしたら自分の身体にも不調が出ているのかも知れない。月森がいなくなって、眠れなくなった。伝えられないままでいたから悪かったのだ。気持ちだけが焦っている。早くしなければ、早くしなければ。
(早くしないと、死ぬ)
 死にたくないと昔は思っていたのに、今は然程怖くない。それより、月森の記憶から零れ落ちてしまっては困る。手紙があれば、きっと覚えていてくれる筈だ。だから、その一心で、毒の様な霧の中を直走る。呼吸が苦しい。手足が重い。視界が歪んできた。
(探さないと)
 だいだらぼっちはどこにあったのだろうか。
(月森、に)
 終末が来ることよりずっと、いなくなってしまったことの方が悲しい。
 脳の働きが鈍い。忘れてしまいそうになる。ポストを探さないと。手紙を。だいだらぼっちの前に。断片的な言葉を繋ぎ合わせる。四目内堂書店の、隣。そうだった、と、思い出して陽介はまた走った。頭がくらくらとしている。

 走ってだいだらぼっちの前に辿り着くと、紅いポストが見えた。一瞬、どうしてポストを探していたのかと思い、コートのポケットに入れていた手紙に直ぐに気付く。投函しようと思って、再びポストに目を向けた。その隣に、人の影がある。
(え――?)
「走り回ってどうしたんだ、陽介?」
 銀色の髪、灰色の瞳、黒縁の眼鏡。
「なんで、お前がここに」
 帰ったんだろ、と喉から声が出てこなかった。ひりひしている。どうやって声が出ていたのかも分からない。月森は八十神高校の制服を着て、テレビの中で使っていた黒縁の眼鏡を掛けて、ゆっくりと陽介の方に近付いてきた。
「顔、青いな……。こんな中を走り回ってたからだ」
 月森は眉を下げると、陽介の頭をよしよしと撫でた。
 週明けの日、学校に来なかった月森を探して、陽介は堂島の家を訪ねた。もしかしたら、とは想定していたが、その時に遼太郎は、甥は東京に戻った、と教えてくれた。週末に、独りで帰ったのだと。だから、もう会えないのだと思っていた。信じられない心地で、頭を撫でる温かい指先に触れる。ちゃんと実体があった。彼は決して、幽霊の様なものでもない。
「もう、戻ってこないと、思って」
「そのつもりだったんだ。そのつもりで、何も言わないでいなくなったのに――親には止められたよ。稲羽市は危ないからって。でも、どうしても陽介に会いたくて仕方なかったから、戻ってきた。薄情な上に身勝手でゴメン」
 にこりと月森は微笑んだ。途端に視界が開いていく。先程まで、白く染まっていた眼鏡の向こう側から、ゆっくりと霧が消えていく。だいだらぼっちの店舗が、全部見えた。
「陽介も外には出てこないかも知れないって思ってたから、会えて良かった」
「俺も……会いたかった」
 上手く言えずにシンプルな言葉を紡ぐと、月森は瞳を細めた。
「そっか。嬉しいよ」
「俺、お前に言いたいことがあって――」
「俺も陽介に言いたいことがあったんだけど、ちょっとそれは保留にしようか」
 月森は人差し指でちょんと陽介の唇に触った。
「保留って?」
「さっき、叔父さんに聞いたんだ。生田目の背後にいた『黒幕』について」
「黒幕? え? どゆこと?」
 話についていけずに首を傾げると、順に話すから、と月森は笑った。もう見られないと思っていた笑顔が近くにあって、それだけで、一つ胸がいっぱいになる。
「黒幕の名前は、足立透。叔父さんは、生田目が犯人だってことに納得いかなかったみたいでさ、独自に調べてたんだ。刑事の勘だって。俺も、家で見てたけど、もう終わりにしたかったから、見ない振りしてた――最初の二人の殺人事件、そこで共通に接触した人物を探って行ったら、両方の事件で、最後に被害者を見ている人物が共通していた」
「そ、それが、足立刑事だったっての、か?」
「うん。それで叔父さんは、俺より前に東京に戻った白鐘に、自分の推理を披露した。子供だから何て言ってたけど、叔父さんは白鐘を信頼してたみたいだ。そうしたら、白鐘も、足立に違和感を覚えていたって話になって」
 そこから捜査が進み、堂島は遂に、足立に事件のことを問い詰めた。数々の証拠と、彼の推理と共に。陽介が堂島の元を訪れて、数日後の出来事だったという。
「そうしたら、足立は逃げたんだって。……テレビの中に」
 分かる? と月森は、今度は陽介の頬に触れながら尋ねた。
「叔父さんがもう、吃驚しちゃってね。腰が抜けたってさ。追い掛けようにも、叔父さんは自分でテレビの中には入れない。それで、俺がずっと前に妙なことを言っていたのを思い出してくれて、さっき、携帯に連絡をくれたんだ。こっちにいるって言ったら、慌てて、うちに来いって」
 本当は陽介に会うだけで、叔父の元へは行かないつもりだった、と月森は笑った。
「テレビって、じゃあ、俺たちが、捕まえないと……ってこと?」
「そう。だから、それもあって、陽介を迎えに来たんだ」
 月森は手を離し、改めてそれを陽介の前に差し出して、一緒に行こうと笑った。その瞬間、彼がいなくなってから、機能が衰えてきていた眼鏡が、急に元に戻った。レンズの向こうには、霧のない世界が映し出されている。やっぱり、眼鏡を使っても世界が見えなくなってきていたのは、月森がいなくなった為だったのだ、と改めて陽介は思った。
「足立が捕まって、事件が解決すれば、きっと霧も晴れるよ」
 何の根拠もない発言だったけれど、月森が言うと説得力があるように思われた。陽介はこくりと頷く。
「終末論なんて、有り得ないし」
「だよな! 俺もずっとそう思ってた。下らないって。だから、ここに残っててよかった。……お前が、来てくれて」
 何とかなると思うと同時に、月森が来てくれたなら、もう週末に終わってしまっても構わないとも思った。もし終わるとしても、今度こそ、いなくなってしまう前に、伝えることが出来る。
「俺の言いたいことも、陽介の言いたいことも、全部、後でな。足立を捕まえて、それからゆっくりと話そう」
 行こう、相棒。月森の言葉に大きく頷いて、陽介は彼の隣に並んだ。

真面目にBAD END後の世界が気になりますね。
可愛い話書きたい週間で可愛めに書いてみました。
堂島さんなら真犯人に辿り着いてくれるはずって信じてます。

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