夏幻

 海へ行こうという話になった。八十稲羽には生憎と海岸線が拝めるような場所はないが、電車でどこかへ出れば、海なんて幾らでも臨める。そう陽介が提案すると、悪くないなと月森は頷いた。幸いにして、両者には金銭的な余裕を見越して考えることが可能だ。夏休みのジュネスのバイトが一週間ほど苛烈だった分のお給金が手元にある。そして資本さえあれば、身体は高校生のそれとしてどこへでも動くだけの余裕があった。後は、時間。
「こきつかわれてるぶん、休みならあるけど」
「俺も今後の予定はないよ」
 夢想するように話していたのだ。夏のバイトは暑くて喉も渇く。燦々と輝く陽光はただひたすらに恨めしく、シャツに染みる汗は気持ちが悪い。涼しい場所に行きたかった。夏ならば海。プールでも良かろうが、より開放的な方へと心が惹かれていた。
「じゃあ、明日とか」
「いいね。行きたい」
「バイトも今日までだし、パーッとな!」
 陽介は言葉を体現するように両手を広げた。月森も頷く。かくて、明日の予定が完成した。

 駅前に八時集合。些か早い時間ではあったが、電車に揺られる時間は決して短くはない。早いことに陽介は文句を言ったが、月森は頑として譲らなかった。結局、陽介が提案に折れて、八時に決定。
「お待たせー、ってか、お前、なんも持ってねぇじゃん」
「財布と携帯ならあるよ」
 そういう陽介こそ、と月森は自分よりも三分程度遅かった彼の格好を見渡して肩を竦めた。陽介も斜め掛けの鞄を肩に掛けているだけだ。
「俺は手ブラじゃねーじゃん。ポテチとか持ってきてんぜ?」
「遠足じゃないんだから」
「どっちかってーと、臨海学校」
「行ったことないけど」
「俺も」
 林間学校なら行ったことある、と二人で顔を見合わせて声をハモらせて、二人で吹き出した。
「はは……っ、言っとく、けどな……俺は中学でも行ったんだっつの。カレー事件とは違うぜ?」
「それなら俺も同じ。奇遇だな」
「どこ?」
「忘れた。行ったって記憶しかない。朝から散歩とか」
「あったあった! あれ、マジねみーよな!」
「そうそう。気持ち良い朝の森林とか、鬱陶しいだけで」
 漸く券売機に向かうと、一番安い切符を購入した。行き先ははっきりと決めていない。適当に電車に乗れば、どこかで海が見えるだろう。そこで降りれば良いのだ。そのような計画性のなさが、月森をして早くに出掛けるべきだと言わしめたのである。最悪、帰れなくても泊まれば良いだけだとしても。今の御時世、インターネットを使えば一番近い海も、一番綺麗な海も見付けられるだろうが、計画性のなさこそが、この小旅行の醍醐味でもあった。切符を、IC乗車カードも使えない古めかしい改札口に通して、駅のホームへと揃って向かう。時刻表を陽介が確認すると、次の電車までは、まだ二十分あった。
「夏は山派? 海派?」
「拘りはない。陽介は海だろ」
 月森は自動販売機に硬貨を入れて、その後に売っている飲料の種類に目を向けた。三秒ほどして、リボンシトロンを選ぶ。ガタンと落下する音と、釣銭がチャリンチャリンと鳴り響く音とが重なって響いた。
「お、さっすが、相棒。トーゼン、水着美人だよな」
「ナンパなら、俺は御免だぞ」
 蓋を捻って開けて、月森はソーダ水を喉元に流し込んだ。陽介はそれを見ながら、両手を横に振る。
「しないって。今日は海が見たいだけ」
 朝早いこともあってか、ホームには人がいなかった。がらんどうの中で、ベンチも当然空いている。陽介は素早くそこに座ると、月森を手招きした。
「あちぃ」
「涼しげな格好してるけど」
「いつもと変わんねーだろ」
 陽介の服装は、いつもと同じ、ブイネックのティーシャツに紅いジーンズ。そして月森の服装も普段と変わらない、ポロシャツにジーンズだった。陽介は両手を身体の後ろで椅子につけ、足を伸ばしながら駅のホームの天井を見た。月森は再びソーダ水を口に含む。口の中で炭酸が弾けた。
 時刻表で予定された時刻より一分ほど遅れて、電車はホームに到着した。その頃には、揃ってどこかへ出掛けるらしい親子連れの姿も、忙しそうなスーツ姿の男性も増えて、ホームは俄に賑やかになっている。月森と陽介もホームに入ってきた電車に入った。車内は空いていて、焦らなくても座る席は簡単に確保出来る。
「ボックス席のがいい?」
「いや、こっちで良いよ」
 横に長い席の端に月森が腰を下ろすと、端が好きなんだな、と陽介は小さく笑った。拳一つ程度の間隔を空け、陽介もすとんと腰を下ろす。前には新聞を読んでいる男性がいて、同じ椅子の逆端に、髪の長い女の子二人が、笑いながら何か喋っていた。
「空調効いてんなー」
「冷房が効き過ぎると、逆に寒かったことないか?」
 都会では月森も陽介も、電車を多用していた。ここでは、外に出る機会も多くはないので、自然と徒歩ばかりになってしまうのだが。電車あるあるネタも、八十稲羽でずっと暮らす友人らには通用しないのだ。陽介は月森の言葉に頷いた。
「足元の暖房があったけぇと、眠くなったりとか」
 うん、と月森は頷き、向かいにある窓の外に目を向けた。陽介も同じ、車窓へと眼差しを送る。晴れた空から溢れる光は、バイトしている時に感じた茹だる熱を感じさせず、窓から入り込む風の涼やかさと相俟って、爽快感だけをこちらに与えてくれていた。気持ち良い朝、快晴、とは、正にこんな光の中。
「どっかに海が見えるといいんだけど」
「陽介、地理は詳しい?」
「俺はさっぱり。月森ならわかんじゃね?」
「程々にな。真っ直ぐ行けば海岸線に当たると思うけど、路線図に明るくないんだ」
「俺もこっちであんま電車使わねーからわかんねぇ」
 でも、と陽介は笑みを浮かべた。
「すぐに見つかるってのも、おもしろくねーじゃん」
「遠出したい?」
「誰も知らないどこか遠くへ行ってしまいたい?」
 あはは、と陽介は笑った。逃避行みたいだ、と。
 列車は静かに揺れて、前へと進んでいく。眠い、と陽介は訴えた。
「電車の揺れって、眠くなる」
「あぁ、分かる。海が見えたら教えるから、寝てても良いよ」
「さーんきゅ、さっすが俺の相棒」
 言うなり、陽介は瞼を下ろした。コトンコトンと、電車が揺れている音だけが耳の奥で響く。月森は黙って窓の外を見詰めていた。広がっている光景は、八十稲羽に来た時と同じ、牧歌的で和やかなランドスケープ。すう、と隣から寝息が聞こえてくるまでに、時間は掛からなかった。



 降りた駅は、知らぬ地名だった。県名も分からないが、知らない方が浪漫がある、と陽介が主張し、月森は手帳に書き留めるだけにしておいた。陽介が確認してみたところ、携帯電話の電波は届いていることが分かった。迷い子になることはないということに安心して、改札の前で切符の精算を済ませ、改札口を抜ける。見たことのない場所だった。
 月森が海が見えた、という方角を目指して早速歩き出してみたものの、長旅に喉が渇いていた為、目に入った駅の傍にあるコンビニエンスストアにまず立ち寄ることになった。
「駅前にコンビニがあるくらいだから、八十稲羽より都会なのかも知れないな」
「ないほうがおかしーだけだろ」
 陽介はスポーツドリンクをチョイスし、月森は紅茶のペットボトルを選んだ。レジに向かう途中に目に止まったアソートフルーツのど飴を陽介が序に購入して、涼やかな店内を後にする。
「よし、水分補給もカンペキだし、海を目指して行くぜ、相棒」
「方角はこっちだった」
「相棒、方向音痴とかじゃないよな」
「特には。陽介は?」
「あーまー、ちょっと?」
「ちょっと方向音痴?」
 初めて聞いた、と月森は肩を上げた。そうして自分の見た方角へと歩き出す。
「まぁ、相棒がいれば安心だし」
「過信して迷子になったらどうするんだ」
「この歳で迷子?」
 勘弁したい、と陽介は首を横に振った。
 八十稲羽よりは都会ではないか、と月森は推測したが、周囲に広がる長閑な雰囲気は、決して八十稲羽のそれに劣ることはない。車も通らず、静かな道路を抜けて、国道らしき道路に出ても、不意に一、二台が通り抜けるといった程度だった。人の気配もない。
「海っつーから、もっと人集まんのかと思った」
「海水浴場じゃないんだろうな」
「まぁ、泳ぐワケでもねーからいいけど」
 手ブラの月森も、鞄を提げている陽介も、水着は用意してきていない。海に入って二人で泳ごうという計画ではないのだ。海が見たい。たったそれだけ。陽介は気紛れに言い、月森は何となしに頷いた。
「逃げ水」
「蜃気楼か?」
「コンクリートの照り返しがあちぃ……」
 うへぇっと陽介は呻いて、シャツの首元を指で掴んで風を身体に送り込もうとしたが、温い風に余計に汗がじわりと溜まるばかりだった。ちょいタンマ、と陽介は足を止めて、先程買ったスポーツドリンクを喉に流し込む。買ったばかりなのに、僅かながら、温んできているようだった。
「子供の頃、逃げ水を本気で追ったことがあるよ」
 少し前で立ち止まった月森は、振り返って、道路の方をじっと見た。視線の先には、水が如く揺らめく蜃気楼。
「捕まえられた?」
「捕まえられないから、逃げる水なんだよ」
「そりゃそうだ」
「立ち止まると暑い」
 言って背を向けた月森に陽介は慌てて、ペットボトルの蓋を閉じ、鞄の中に仕舞い込む。
「海見えてきそう?」
「遠くはなさそうだったけど」
 あっち、と月森は住宅の合間を縫って向こうが見えるポイントを指さした。陽介も指さされた方へと視線を送る。
「海だ」
「っしゃあ! てか、マジでさすがだな、相棒!」
 目的地も無事に目視出来たことで安堵し、月森は腕時計に目をやった。
「そういえば、もう昼だけど、昼食はどうする?」
「忘れてた……食う場所もなさそうだし。帰りにコンビニでなんか買って食うか」
「弁当でも用意してくれば良かったかな」
「お前の弁当好き」
「また新学期に作るよ」



 それから十分程度で海に到着した。夏のシーズンだと言うのに、人気が全くない。不思議に思っていると、砂浜に突き刺さっている立て看板には遊泳禁止と書かれていた。鮫が出る、と嘘か真か分からない文言が赤で記されている。元々海水浴スポットという訳でもない場所が、遊泳禁止ということで、遊びに来る者もいないのか。単に昼時だから食事中なのか。
「貸切みたいでいいじゃん」
「泳ぐ訳じゃないんだぞ」
「気持ちよさそうだから、足くらい」
 陽介は周囲に人がいないことを確認し、砂浜の端の方に鞄を下ろした。そしてぱたぱたと海の方へ駆けていく。
「本当に鮫が出たらどうするんだ」
「波打ち際まで来るかよ」
 それもそうだ、と月森も陽介を追って海辺に足を向ける。
「陽介、スニーカーは脱いだ方が良い」
「サンダルで来ればよかったな!」
 流石にローファーで来るのは止めておけば良かっただろう。月森は革靴を波の来ないことを確認した場所で脱ぎ、ズボンの裾を捲った。既に波打ち際にいた陽介は、スニーカーを脱ぐとぽいぽいと後ろに投げ捨てた。ジーンズの裾はひたひたと濡れている。
「帰る時どうするんだ」
「歩いてりゃ乾くだろ」
「確かに」
 月森も波が寄せてくる辺りまで裸足で向かうと、太陽を背に振り返った陽介は、唇の端を上げた。
「スキあり!」
 軽く水を掬って月森の方に掛けると、パシャッと軽い音が響いた。
「うわっ……陽介、子供じゃないんだから」
「へっへーん。スキだらけの相棒が珍しくって、つい」
「スキだらけって」
 月森は楽しげに笑っている陽介の方に近付いたが、水を掛けるような真似はしなかった。
 波は穏やかならぬ様子で、寄せては返す。月森が膝下まで捲ったズボンの端っこが濡れるほど海に入っている陽介は、更にスキを窺って月森が近付くのを見ていた。
「気持ちいいな」
 月森が横に並ぶと、陽介は太陽が眩しい、地平線の彼方の方へと眼差しを送る。空の青い色と海の青い色とが溶け合って、その境界は曖昧にぼやけていた。風は柔らかくそよぎ、どこか人心地しない。現実感を奪う。見たかった海とはこれだったかも知れないし、そうではなかったかも知れない。
「もっと深いトコ行ってみようぜ」
「何言ってるんだ。鮫が出るかも知れないんだぞ」
「へーきへーき」
 陽介は月森の言葉を意に介さず、前へと進もうと足を動かす。
「ただでさえ、陽介はドジッ子――」
 そう言うが早いか、陽介の足首が変に曲がった。ガクッと体勢を崩した身体が背中から倒れる。スローモーションで青い空と白い雲が視界に映っていた。バシャンと水の弾ける音が耳元で響く。
「よ、陽介!」
 月森が慌てて倒れた陽介の顔を覗き込むと、倒れた際の水飛沫で、月森の前髪やそこらにも水滴が付いているのが陽介の目にも見えた。
「……だから、言っただろ」
「イッテェ」
「水があって良かった」
 陽介はそのまま仰向けに空と月森の顔を交互に見ていた。足を浸していた時とは比べ物にならないくらいに爽快で気持ちが良い。
「あーびしょびしょんなっちった。これ、乾くかな」
 右手を伸ばすと、月森と視線が重なった。そのまま近付いてきた銀色の目をじっと見ていると、月森の端正な顔が陽介の視界にあった空を覆って隠し、陽介の視界を奪い尽くし、唇が重なる。
「日が高い内に帰ろう」
 離れた月森も、膝まで海に漬かって濡れていた。
「乾かないと電車に乗れないから」
「……乾くまで海見てたら?」
「それも良いね」
 月森はにこりと笑うと、独りでさっさと海から引き上げる。革靴を回収して、階段を上り、堤防のヘリに座った。待て、と陽介も起き上がって、砂浜を駆け出す。素足のまま階段を上って、月森の隣に腰掛けると「靴と鞄は?」と月森は尋ねた。見下ろす砂浜にはスニーカーとオレンジの鞄が置き去りになっている。
「帰るときでいいじゃん」
「陽介、忘れそう」
「靴と鞄忘れるバカはいねーよ」
「お腹空いた?」
「そんなに動いてないから別に」
「濡れたままコンビニも入れないからなぁ」
 捲っていた裾を元に戻し、月森は空を仰いだ。強い陽光が降り注いで、濡れた膝もじわじわと熱を帯びてきている。そのまま視線を下ろすと、また強い波がこちらに寄せてくる。白いスニーカーに波の飛沫が掛かった。あ、と二人で声が合う。
「スニーカー濡れたぞ」
「めんどくせぇ!」
「投げ捨てるから」
 取ってきなよ、と月森は薦めたが、陽介は面倒だからと首を横に振った。もうあれほどの波は来ないはずだと言った陽介の言葉通り、それから波は静かになり、海も静かになる。
「静かの海って聞いたことあるか?」
「んにゃ、知らない」
「月の海の一つ。地球で言う海とは異なるものだけど」
「んじゃ、なんで海っつうの?」
「名付けた人が、そこを地球と同じ海だと信じていたから。ラテン語で海という意味のmareと命名したんだ。他にも雨の海、晴れの海、氷の海なんてのもある。変わったのでは、既知の海、危難の海、賢者の海、豊かの海」
 陽介はじっと海を見ていた。
「つまらない?」
「いんや。おもしろいから、まだあんなら続けて」
「続けるほどのものもないけど」
「月森の声って、ずっと聞いてたくなる」
「Sea That has known――これは既知の海の英名だけど、意味分かる?」
「……うん?」
「thatの使い方とか、完了形とか」
「うえっ? そ、そういうのはいい!」
 陽介はばたばたと両手を振った。
「リクエストしてくれたから、続けてみたんだけど?」
「勉強に持ってくなよ」
 はぁと陽介は溜息を吐いた。
「じゃあもう一つ、月から」
「月好き?」
「月球儀が家にあって」
 名の通り、地球儀の月面バージョンである。
「なにそれ」
 陽介はイメージ出来ずに首を傾げた。
「月の海に気象を冠した名前が多く出てきたのは、月が地球の気象に影響を与えていると考えられていたからなんだ。雨の海は雨を喚ぶ」
 長雨はマヨナカテレビを映し出していた。犯人が捕まった今ならばもう、それを恐れる必要はないにしても。
「ずっと晴れの海ならいいって?」
「それで晴れるならね」

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