The Sun and the new Moon

「んじゃ、里中サンはどうなんだよ」
 陽介はにこにこと笑って、千枝に話を振った。
「ファーストキス。まっさか、まだ済ませてないとか?」
「あ、アンタには関係ないでしょ!」
(ないことはないだろうな)
 賑やかそうな二人というのは、珍しい光景でもない。雪子が隣ではらはらと二人の言い合いを見ているが、彼らにとってはじゃれ合いの一種に過ぎず、仲が良いことの証左でしかないのだ。出会って八ヶ月ほどの月森が、まるでずっと見てきたかのように指摘するのは難だが。
「天城、あの二人はアレで楽しんでいるんだ」
 ほっといてあげよう、と言うと、顔を赤くした千枝が「楽しんでない!」と叫んだ。陽介はくすくすと笑っているので、楽しんでいるのは一目瞭然だった。
「相棒こそ、天城とこそこそいちゃついてんだろが」
「ええっ? わ、私?」
 まさか自分に矛先が向くとは思っていなかったのだろう。雪子は立ち上がったと思うと、頓狂な声を出してこちらを見た。いつものこと、と月森が首を振ると、そうだよね、と頷いて椅子に座り直す。本当にいつものことなのだ、陽介のこういうところは。まるで男と女はくっつけなくてはならないみたいに、人数が揃えば必ずそういったことを言い出す。それでいて、羽目を外しすぎないというスキルは見ていて見事だとすら思われた。クラス内でのムードメーカーという位置付けも、なるほど頷ける。
「てか、お前こそどうなんだよ」
 陽介が腕をつんつんとついてきた。
「何が?」
「ファーストキス。どうせ、もう済ませてんだろ? いつ? 誰と?」
「花村……アンタそういうの、マジで引くんだけど」
「なんだよ、お前、興味ねぇの?」
「私は興味あるかも」
「雪子まで!?」
 ある意味、話題として健全そうではある。高校生の男女が恋愛談義を行ったとして、驚嘆するようなこともあるまい。月森がふうと息を吐くと、千枝が「ほら、月森くんも呆れてるじゃない!」と言ったが、それは誤っている。二人の反応はちっとも奇妙だと思わないし、うんざりしているのでもない。どちらかと言えば、うんざりしているのは、自分自身についてのみなのである。
 陽介の好物は喉飴だ。それは好物に括られるものなのかと月森は思うが、本人がそう言っているのでそうなのだろう。喉が痛いという千枝に陽介は、常に持ち歩いているという喉飴を差し出した。快活な千枝のイメージに合わせたかのように、レモン色のレモンキャンディー。そういえば、ファーストキスはレモンの味がするんだっけ、と誰が言い出したのか定かではないのが、そこでファーストキスの話になったのである。
「あーいぼう、そこんとこ、どうなんだよ」
「どうも何も。期待を裏切るようで悪いけど、俺はしたことないから」
「うっそ、マジで? またまたぁ」
 陽介の中での自分の位置付けが気に掛かるところではあるが、ないものをあると偽っても仕様がないことである。ないんだって、と肩を上げて言うと、陽介は全く驚いたようにきょとんとした。
「彼女とか」
「いない」
「だって、あんなにモテモテだろ、お前」
 モテれば彼女がいて当然だというのは、些か頑迷な幻想ではないだろうか。月森には今も昔も彼女がいたことはないし、ついでに今後、出来ると期待もしていないのである。
「そうなんだ」
 雪子はふうんと頷いただけだった。やれ美人だ、天城越えだと言われながらも、彼氏がいたことがないという彼女ならば、決して不思議には思わないだろう。
「ホーント、花村ってバカっぽい」
 やれやれと言いたそうに、千枝は椅子の背に倒れ込んだ。
「幼稚って言うかさ」
「なんだよ、ファーストキスもまだの里中サンが」
 その言葉に千枝が立ち上がった。
「なッ! あ、あ、アンタこそどうなのよ!」
「俺!? そ……そんなん、あるに決まってんだろーが」
 自分に振られると思っていなかったのは随分と惚けた話だとは思うが、陽介は驚いて目を丸くしている。月森はクリームソーダのストローを口に含みながら、二人の様子を眺める。
(見栄だな)
「嘘っぽい」
 月森と同じ事を考えたかは知らないが、千枝はばさりと斬って捨てた。一刀両断だ。
「花村君ごめん、私も千枝と同感かな」
「天城まで!」
 この発言には月森もやや驚いた。思わず彼女の黒髪に目をやってしまう。
「花村君、そういう人じゃないから」
 雪子はさらりと、しかしきっぱりと言い切る。綺麗な横顔が、ふと、刃のように月森の目に映る。彼女の言葉は正解だ。陽介は簡単に人と付き合わないし、付き合っても簡単にキスしたりはしない。それと陽介の経歴を見れば、嘘だろうなということは容易に分かる。じっと雪子を見ていると、視線に気付いたのか、彼女がこちらを向いた。月森君もそう思うよね、と言外に言うように、雪子は丁寧に笑う。



 用事があるからと千枝と雪子は二人で先に帰り、フードコートには二人きりで残った。陽介はまだ残っているフライド・ポテトを摘みながら、ぼんやりと人気のなくなってきたフードコートを眺めている。
「ステーキでも奢ってあげれば、里中、喜ぶのに」
「そういうこと言うなっつの」
 陽介は頑なに、片思いしていることには触れさせないようにするが、気になるのは致し方ない。
(どこを好きになったのかとか、どうして里中だったのかとか)
 考え出せばキリがないのだ。どうして――自分ではいけないのだろうか、とか。自分ではダメなのではなくて、結果論であっても選ばれたのが彼女だったというだけなのだ。知っている。疑問も問いも全部、無意味なのだ。意味なんてない。それでも、陽介を好きだと思っているのだから、止まないでいる。どうしたら自分のことも見てくれるのかとか、もし、自分が千枝みたいだったらどうだろうとか。性別的な違いがあるのだから考えるだけ無駄だということは分かっているけれど、どうにか出来ないかと思ってばかりいるのだ。諦めたつもりで、何も変わらない。
「大体、話題のチョイスが悪い。いきなりキスって」
「言い出したの俺じゃねーっつの!」
 あぁもう、と陽介はテーブルの上で腕に顔を埋めた。微妙に覗いている耳が紅くなっていて、そんな部分にも可愛いなぁと思う。頭を、撫でるようにそっと触れると、陽介は顔を上げてこちらに視線を向けた。
「つか、マジでしたことねぇの?」
「どうして疑うんだ、逆に聞くけど」
「そらお前……健全な男子高校生としちゃあさ、彼女もキスも普通だろ」
「まぁ、身構えてはいない」
 陽介とは違って。きっと彼は、好きな子の恋愛の一事情を知りたかったに過ぎないのだ。探らなくとも、見た限りでは千枝にそういう相手がいないことは分かるし、これまでも千枝は雪子にべったりだと校内で聞いているし、彼氏がいたということはないだろう。憂うべきはむしろ、親友とべったりしすぎ、ということくらいではないだろうか。今日も結局、二人で帰ってしまったことだし。
 たかがキス一つでとは言わないけれど。一喜一憂する気持ちも分からないでもないけれど。
(俺だって気にならないわけじゃない)
「陽介こそ……本当にしたことない?」
「へ?」
 相変わらず陽介は、自分に振られるということを想定していない。
(とんだ鈍感だ)
 好きだと言うのは慣れているのに、言われるのには慣れていないみたいに反応する。それとも、気にしているのは自分ばかりだと思っているのだろうか。これでも好意は素直に示しているつもりだと自分では思っているのに、報われないことこの上ない。千枝も千枝で、陽介の好意に気付いている気配はないし、一方通行が果てしなく続いているばかりだ。
「なんだよ……どーせ、彼女なんていたことねぇもん」
「いなくてもキスくらいなら出来るけど?」
 何言ってんの、というような顔で陽介はこちらを見詰めた。
「難しいことじゃない」
 さらりと流れるようなハニーブラウンの髪に触れていた指先が、頬に伸びる。髪や顔の手入れは常にきっちりとしている彼らしく、自分よりもずっと滑らかな肌をしている。目を閉じた。薄いけれど柔らかい唇に、自分の唇を重ねる。
(たった、それだけ)
 ぱっと目を開いて笑うと、陽介はぴたりと固まっていた。微動だにしない。
「こうやって」
「……は」
 掠れたような声が喉から絞られるように出てきた。
「ファーストキスなんて幻想だよ。レモン味だった?」
 どちらかと言えば、先まで飲んでいたソーダの味だったのではないかと思った。彼の、少し茶色味のある睫毛がぱさぱさと揺れているのを眺めている。
 橙色が紫色に変わるのはまるで瞬間的だ。それまでずっと、空を明るく染めていた色が一転して、急に静かに影を落とす。冬の空は、冷たくて、すぐに暗く変わっていく。
「おまえ、な……」
「これだけで終わりなんだから、陽介もこだわることないよ」
「あのなぁ! てか、初めてだっつってたろ!」
「俺も初めてだけど?」
 何てことないよ、と笑うと、陽介はうっと詰まってしまった。
「暗くなってきたし、そろそろ帰ろう」
 立ち上がって手を差し出すと、陽介は怒ったように手を払った。
「ったく、お前はなにを考えてるんだ。なんか、びびったろーが」
「あぁ、驚かせてごめん」
「謝るトコちげぇ」
 頬を膨らませてはいるが、陽介はさほど怒っているようではなかった。
(こうやって俺は、陽介の想いを踏み躙っているんだな――)
 空が暗くなっていくに従って、心も暗澹としてくる。悪いことをした、ひどいことをした、と自覚しないでもない。好きな人がいるのにそんなことをするのは、奪うにも等しいだろう。それでも、たかがファーストキスの幻想に拘泥して、歓喜して、けれどそれだけにまた落胆している。
「口直しにリボンシトロンでも奢るよ」
「直す必要があるようなことすんな」
 持ち上げたクリームソーダのコップをぺこりと潰してゴミ箱に投げ入れた。沈む空には月明かりも灯っていない。
 暗いな、とだけ、思った。

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