下校しようと教室を出たところで、奥の方の教室から出てくる黒髪を見掛けた。今でも校内で美人と名高い雪子が、何冊もの本を腕に抱えるようにして、何とか引き戸を閉めている。一番上の薄い本がゆらゆらと揺れて落下しそうだった。バランスを崩して、そのまま本はバサバサと落ちる。雪子は腰を落としたものの、手に持っている本が邪魔をして、拾えないようだった。陽介は小走りで駆け寄ると、彼女の腕から転げた数冊を拾い上げて、ついでに「なにしてんだ、天城」と声を掛ける。
「あれ、花村君……今日は遅いんだね」
「日直。天城こそ、里中連れないでなにしてんの」
いつも一緒なわけじゃないよ、と雪子は小さく笑った。控えめな笑顔は、相変わらず大和撫子然としていて、さすがというか何というか、と陽介は思う。これで爆笑王などと、少しばかし、詐欺だと言えてしまいそうだ。
「本、ありがとう」
「手伝うよ。教室? てか、なんか頼まれてんの?」
「ううん。自分用」
そう言われて手元を見ると、『資格ガイド2011』と書かれていた。別の本も、似たタイトルが並んでいる。
「これ、全部同じ?」
「あ、全部じゃないよ。お茶の本やお華の本も混ざってるし」
どうやら雪子の手元、下の方にある分厚い本は、彼女の言ったものが占めているらしい。他に、日舞などと書かれた本も見える。
「久々に図書室に寄ったから、ついでにって思ったの。そしたら、こんな量」
雪子はくすくすと笑う。
「里中に荷物持ち頼めばよかったじゃん」
「千枝は、今日は部活なの」
「あー……カンフーのね」
河原で目撃証言を多く聞いている。一条なんかが、俺も見に行ってみようかな、などと言っているのも聞いたが、それで彼の中の里中千枝像が壊れなければ良いのだが。
「それよか天城優先しそうだろ」
「だったら余計にダメかな」
雪子は「ここにいると邪魔になっちゃうね」と言って廊下を歩き出した。陽介も上からもう二冊ほど取り上げて、並んで歩く。暮れ始めてきた空は、ゆっくりと赤みを帯びた光を窓から投げ込んでいる。こんな時間まで雪子が校内にいること自体が、陽介には珍しいように思えた。彼女は遊ぶ暇もなく旅館の手伝いを熱心にこなし、帰りにどこかへ寄ることすら、特別捜査隊での集まりが初めてと笑っていたのだ。それはどんなに窮屈な生活だっただろう。鳥籠の中の雪子の言葉が本心だったとして、自分も似たようにシャドウを現出させたという経験からではなく、彼女のそうした性質から、軽蔑すべきことではないと思われた。思えば、誰でもそうだ。
(まぁ、シャドウの俺は相当ヤなヤツだったけどな……)
思い出したくない過去は頭を振って誤魔化し、雪子の次の言葉を待つ。
「依存したらいけないと思う」
「里中に?」
「うん。寄り掛かってしまったら、きっと、倒れちゃうよ。だから千枝のシャドウは――」
『雪子姫の城』に捕まっていた彼女は、千枝のシャドウを見ていないはずだ。それでも雪子はさらりと、「歪んでしまったんだと思う」と言う。まるで見知ってきたかのように。陽介が驚いたのに気付いたのか、「千枝から聞いてる」と雪子は笑った。教室の扉を開けると、既に人の姿はなく、柔らかい風にクリーム色のカーテンが揺れている。陽介が消したはずの黒板に『数学わかんねぇ』などと変な悪戯書きが増えていて、思わず肩を竦めてしまった。
「千枝はね、全部話してくれた。私だけがみっともないところを見せたんじゃないよって」
「……すげぇな」
「うん、千枝は強いし、すごいと思う。私なら、言えなかった」
天城は悪くないだろ、と言うと、それなら花村君も同じだよ、と雪子は楽しげに笑う。
「花村のシャドウは見てないけど、たぶん、商店街とのことで悩んでたんじゃないかな。全部嫌になったーとかって、って」
「ぶっ、天城、里中の真似、結構うめぇのな」
「ずっと一緒だったからね」
悪戯っぽく笑う雪子の姿は、初めに壇上から見たときに思った『近付き難い高嶺の花の令嬢』という陽介のイメージからは、ずっと遠くなっていた。同じ、高校生の女の子。ちょっぴり、美人なだけの。
「実際、天城は大変だったんだろ?」
とすんと軽い音を立てて、雪子は机に本を下ろした。置く場所をどうしようかと悩み、陽介の持っていた本は、とりあえず千枝の机の上に置いた
「だから、花村君も同じだよ。バイト、忙しそうにしてる」
「仕事だって」
「私も同じ」
頑張ればお小遣いも上がるんだから、と雪子は嘘か真か分からぬように笑った。
「でも、それに凝り固まっていたら、いけないんだよね……」
雪子は、資格の本を見詰めながら呟く。
「どうしたら良いんだろうって、ずっと、考えてた。旅館が嫌いなわけじゃない。八十稲羽が嫌いなわけじゃない。ただ、きっと、レールに敷かれた人生に疑問を持っていた――これで良いのかなって。千枝は、やりたいと思うことをやってる。カンフーだってそうだし……きっと自由で、鳥みたいに、本当は私なんか置いて飛んでいってしまうんだろうなって」
「里中が、天城を置いて?」
そんな馬鹿な、と思ったが、雪子は真剣な黒い瞳で更に続ける。
「そうしたら、今度こそ、私は自分の意志もないままで決められた道を歩くんじゃないかって。どこかで、王子様が来てくれることだけを夢想して。そういうの、嫌だなって思うの。やりたいこと、やれること、色々あるはずだから。それを見付けたい」
「で、資格?」
「これは一歩かな」
ふふっ、と雪子は元の調子を取り戻したように笑った。
「簿記とか――どうかなって。何て、女将になるなら経営も学ばないといけないって思っただけかも知れないね。結局、私が見据えているのは、同じ道なんだと思う。でも、今度は自分で選んだ道だから」
喋りすぎちゃったね、と雪子は首を振ると、鞄から取り出した布の袋に本を詰めていく。その手元を、陽介は黙って見ていた。
(意外、でもないけど)
饒舌だったことを指すならば、些か意外だった。雪子とこれだけ長く喋ったのは珍しいかも知れないし、そもそも、二人きりになるという状況が珍しい。彼女にはいつも千枝がいて、陽介の傍にはいつも、月森がいた。四人で話すことは珍しくないけれど、二人で会話が弾むこともない。依存してはならないという言葉は重い。こちらはまだ、相棒に頼ってばかりいるような気がしているのに。
「……そうだ。月森君のは違うと思うから」
「違う?」
何が、と問うても、雪子は笑っているだけだった。
「手伝ってくれてありがとう、花村君」
「もう帰るだけ?」
重そうな袋に手を掛けて雪子は頷いた。その細い手に触れないように気を付けつつ、陽介は袋をさっと自分の方へと引き寄せた。オフホワイトの生地に、紅い花柄が主張せずに散らばっている袋は、赤を好み、それでいて派手さのない彼女らしい色使いのものだ。
「もしかして、今から時間あったりとかしない?」
「……花村君、私なんか誘って平気なの?」
「ナンパじゃないっつの。そうじゃなくて、たしかなんだけど、うちの親父、簿記の資格持ってんだよ」
「えっ、本当?」
雪子は口元に手を当てた。
「昔の話だけどさ……なんか、おっきなお小遣い帳みたいなもんだって言ってた気ぃする。もしかしたら、うちにもなんか使えそうなモンあるかもしんねぇし、よかったら、親父に話聞いてみたりとか」
迷惑じゃなければだけどな、と控えめに言うと、雪子はふるふると首を横に振った。
「話、聞いてみたい」
「オッケー。んじゃ、今の時間ならジュネスにいっから、ちょっと寄ってこうぜ」
「ありがとう、花村君」
雪子は両手をグーで握っている。気合十分のようだ。
「天城、甘いの好き? よかったら、クレープでも奢るぜ?」
「……やっぱりナンパ……?」
「違うっつーの! あー、なんか、里中にいつも奢らされてっから、たまには天城さんもどーですかってだけ!」
「それならクレープ、お願いしよっかな」
「了解! あ、重いから、これも持ってくよ」
そう言って、本の詰まった袋を持ち上げると、雪子は真っ黒な瞳をじっとこちらに傾けた。
「優しいんだね、花村君は」
「女の子にはやさしくすんのが、トーゼン」
「残念だね……」
「え? な、なにが?」
常からガッカリと残念を良く使われているような気がするが、今、言われるとは思わなかった。ギョッとして雪子を見ると、スイッチでも入ったみたいに身体を震わせている。
「あはははははは……ざ、残念って、そういう意味じゃ……うふふふ」
「えーと……なんで、俺、笑われてんの?」
「何でもな……っふふふ、ふふ……だって、女の子に優しいのに……つ、月森君……なんだもん」
「そーゆー話?」
思わず肩を竦めてしまった。雪子はまだ身体をぶるぶると震わせている。最初に見たときは、千枝が少し残念そうに、自分しか見たことなかったのに、と言っていたが、今ではその言葉が信じられないくらいに、雪子は良く笑っていた。心を開いている証拠なのだろうと思うが、何度見ても、和風美人の爆笑する図というのは慣れない。しかも、ツボが分からない。
「笑うトコなの、それ」
「わっかんな……!」
何だか見ていると、自分までもおかしくなってきてしまった。暮れる放課後に教室で美人と二人、片方は爆笑中。
(どんなシチュだ)
「天城さん、天城さん。そろそろいかねーと、遅くなるんだけど」
「あっはは……そ、そうだね。行こう……ふふ」
いつまでも笑いが止まりそうにないので、千枝を呼び出そうかと陽介は真剣に検討してしまった。
*
「それで、フードコートに」
陽介の隣で、月森が腕を組んでいる。向かいにいる雪子は、陽介の奢ったシェイクを飲みながら、うん、と頷いた。夕方のフードコートは親子連れが少しずつ姿を消していき、高校生が喋っている姿が増えていく。日が落ちていけばそれも更に減るのだろう。まだ静かとは言えない、ざわめいた空気が漂っていた。
「親父から話聞いて、テキストももらえたし、これでも勉強にはなるだろうからって」
「おじさんに挨拶を済ませて、しかも二人で勉強……」
「挨拶?」
ぶはっ、とシェイクから口を離した雪子が吹き出した。
雪子は陽介の父、陽一から昔受験したというときの話を聞いたところ、ジュネスの社員で、わりと最近になって簿記の資格を取った人がいるらしいと聞いたのだ。聞けば、まだテキストは新しい方だし、それを使っても良いからと譲ってくれて、試験自体についても色々と教えて貰ったのである。雪子が熱心にメモしているのを見て、陽一は、それなら陽介も一緒に勉強しておけ、損はない、などと言い出したのだ。将来的には自分と同じ、ジュネスに入社させるつもりらしい父親からすれば、簿記の勉強は願ってもないことだったのだろう。ついでに雪子のことを、息子の美人な彼女、と誤解されそうになったので慌てて訂正したが、ともかく、独りでやるよりも二人の方が、やる気も出るのではないかということでもあるらしい。嫌がるかと思ったが、案外、雪子はあっさりと提案に頷き「だったらフードコートだね。花村君、次は何を奢ってくれるの?」とちゃっかりした発言も出ていた。
「だから、どうせならお前も一緒に勉強しろって言われただけだっつの」
寝耳に水だったし、困惑したのだが、雪子が乗り気だったので頷いてしまったのだ。そうして今に至る。雪子とここで勉強するようになってから、早一週間ほど経過していた。
「二人きりで勉強」
「フードコートでな」
自分の部屋で勉強しないかなどと陽介が誘ったこともない。誘っても、用心深い雪子が来るとは思わないが。
「花村君、学校の勉強よりも、こういうのの方が得意みたいだよ。結構、私も教わっちゃってる」
「まぁ、美人の前でかっこわりぃとこ見せらんねぇしなぁ……」
なるほど確かに、モチベーションという意味では高かった。雪子がいるから、きちんとやらねばと陽介も思う。既にガッカリで残念と認識されていたとしても、これ以上の評価の低下は避けたかった。
「俺とは全然勉強してくれないのに」
月森はふいと顔を背けた。
「試験前に勉強したくねーもん」
「花村君、ここ合ってた?」
雪子がシャープペンシルで問題をマークしたので、陽介もそちらに目を移す。
「陽介! 陽介は気付いてないかもしれないけど、陽介と天城だって意外と、絵になるんだよ。噂になってるの知らないのか」
何だか長くなりそうな話なので、ガバッとこちらを向いた月森の話はスルーし、雪子の言っていた問題を自分のノートと照らし合わせた。
「合ってた。天城は細かく考えすぎなんじゃね、ここはさ」
月森はテーブルに顔を突っ伏した。
「お疲れー! 頑張ってる、お二人さん?」
背後から明るい声が響いたので振り返ると、千枝がひらひら手を振っている。
「あ、千枝。来てくれたんだ」
途端に雪子の声が明るくなったので、やはり、親友がいてくれるのが嬉しいのだろう。千枝は部活がないときなどにはここに顔を出すが、肉は絶対に奢らないから、と堅く誓ってある。
「あれ、リーダーどしたの?」
「花村君が構ってくれないから、拗ねてるみたい」
「あらら……」
「陽介と天城がコミュ築き始めてる」
むくりと起き上がったと思えば、意味の分からない言動。千枝は首を傾げていた。
「コミュ? なにそれ? よくわかんないけど、花村、これ以上リーダーいじけると面倒だから、なんとかしといた方がいいんじゃない?」
「ぶっ……千枝、めんどうって……扱い……!」
「ほら、月森。帰ったら部屋行ってやるからさ」
俊敏に顔を上げた月森は、陽介の手を握ると「分かった。大人しく待ってる」と大きく頷いた。
「愛されてるね、花村君」
「こうなると思ったから黙ってたのに」
肩を竦めると、千枝が納得したようにこくこくと頷いた。
***
「だから天城と仲良くなるのは良いことだと俺も思ってはいるんだけどだからって俺も二人で勉強っていうシチュエーションはテスト前のほんの少ししか許されていないにもかかわらず連日のように天城とフードコートで勉強会してるっていうのはどういうことなのかって俺は思っているだけで別に醜い嫉妬をしているだけではなくそもそもなんで俺に黙ってそういうことに」
「悪かったから。ホント悪かったから」
宥めるために三十分もずっと月森の部屋でハグすることになった陽介は、天城との勉強会について考え直そうかと少しだけ思った。