天城屋旅館に宿泊したまでは良かったが、女性陣の所為で、風呂に入ることも出来なかった。けれどそのまま布団に横になり、電気も落とした。目を瞑り、静かな夜が更けていくのを頭の片隅で感じる。
(……眠れない)
潔癖症ではないが、風呂に毎日入るのは、現代日本人としては普通だろう。シャワーでも良い。せめて身体を洗いたい。そういうことは気にしないタチなのか、隣の完二の鼾が眠りを脅かすほどではないにしろ鼓膜に響くのを恨めしく思いながら、月森は眉間に皺を寄せていた。対して、逆隣の陽介は静かだ。授業中も後ろで寝ているときは基本的に寝息が聞こえないし、眠り方が静かなのだろう。暗闇に慣れてきた目でじっと陽介が丸くなっているのを見る。繊細だから、自分の音ででも眠れないかも知れない。そんなことを思ってくすりと笑うと、突然、隣の布団がもぞもぞと動いた。見ていたことがバレたのかと思って、思わず肩が跳ねる。
(陽介?)
掛け布団がバサリと避けられた。むくりと起き上がった陽介に、月森は慌てて瞼を下ろした。ちらりと見えた浴衣の胸元は微妙にはだけている。静かに音を聞いていると、陽介はそのまま立ち上がったようだった。少しして、歩き出す。スッと静かに襖の開く音がして、そのまま閉められた。陽介は、そのまま部屋を出て行ってしまったようだった。
完全に音と気配が消えて、月森もぱちりと目を開く。隣を見れば、陽介の布団は、整えられてもいない、抜け出したままになっている。逆隣の完二は変わらず、良く眠っているようだが、その隣のクマは、むにゃむにゃと寝言かなにかを言っていた。逆ナンなどと聞こえたので、そっとしておこうと思う。
(風呂に入りたかったとか?)
陽介は綺麗好きらしいところがある。清潔感を大事にするというか、汗を流せば制汗剤を使うし、あれでハンカチやティッシュを常に持ち歩いているというのだ。男も綺麗にしていないとモテない、とは言っているが、基本性質がマメなのだろう。そうであれば、一日でも風呂に入らないと気になるということは分かる。それに、文化祭でそれなりに汗を流してきているのだ。このままで寝れる方が図太いとすら思う。もう疲れたから寝よう、という様子だったので同調したが、陽介もそうだったのなら便乗しようと思い、月森も立ち上がった。足元ではまた、完二の鼾が聞こえている。月森は異常に寝相が良いので、浴衣は着崩れていなかった。以前に林間学校で隣で寝ていたときに、陽介が「お前、ぜんっぜん動かないで寝んのな」と若干呆れを含めたようにも言っていたほどだ。まだ急げば十分に間に合うだろう、と月森はいそいそと部屋を出た。
旅館という形態であるため、廊下は光が煌々と照らしている。それが部屋にまで漏れてこないように扉はしっかりと遮光しているのだな、と妙なところで感心し、月森はきょろりと辺りを見回してみた。廊下には姿がない。やはり風呂場の方だろうかと思って、案内表示を確認してそちらの方向へと向かった。今は何時なのだろうかと時計を見れば、時刻は深夜の少し前。雨が続いていたならば、マヨナカテレビが映し出されるだろう。念の為ということもないが、少しだけ気になったので、風呂場へ向かうより前に旅館内で見た大型テレビの方に寄ってみることにした。
(今の時間って、大浴場開いてるのか?)
ふと思いながらテレビがあった方へ向かう。幸いにも正常な方向感覚を有しているし、記憶力も良いので、迷うことはなかった。陽介はそういえば方向音痴だったな、と思い出す。明確にそうとは見せないのは、地図を読んだり情報を収集しているためなのだろう。つらつらと思いながら、ロビーにある巨大なテレビを見付けた。そろそろ真夜中だろうとは思うが、画面には異変はない。立ち止まってじっと見ても、黒い画面はいつまでも黒い画面のままだった。雨が降っていたわけでもないし、当然だろう。月森はふうと溜息を落として、風呂場に向かおうかと振り返った。
(……陽介?)
廊下に佇んで、窓の外、暗い空を眺めている横顔が見付けられた。てっきり、風呂へと向かっていたのだと思っていた姿がそこにあって驚く。しかし、元々彼を探していたのだと思えば、まだそこにいてくれたのはむしろ手間が省けたのだと言えよう。目的意識があやふやになっているようにも思えたが、声を掛けようと口を開いた。そうして焦点がはっきりと、彼に合う。
「――ッ」
見慣れないアンニュイとも呼ぶべき表情が、月明かりに照らされていた。気怠げに細められた瞳が、ぼんやりと空を見ている。一瞬だけど、そのまま、どこかにパッと消えていってしまいそうにも思えた。月が、と言うなら、かぐや姫だろうか、としょうもないことを考える。足音を殺して、そろそろと近付く。陽介は気付いた様子もなく、ただぼおっと空を見ている。
「眠れないのか?」
考えてみれば、何も持たずに風呂場に行くこともあるまい。出てきた最初の瞬間からきっと、陽介はこうしてぼんやり外を眺める目的だったのだろう。
「なんだ、月森か。脅かすなよ」
しぃっとするみたいに、陽介は人差し指を口元で立てた。微塵も驚いていないような顔で。
「つーか……疲れたのに風呂でゆっくりも休めないとか、ないわ」
「同感だ」
「相棒、どうかしたのか?」
「眠れなくて」
「んじゃ、おんなじ」
陽介は廊下の手摺に軽く腰掛けるようにして、天井を仰いだ。
「……何か、あったのか?」
何か? と、陽介は首を傾げた。へらっと笑っている。
(誤魔化すときの顔だな)
見てきているから分かる。陽介は時々、瞳が笑っていないように動かない。作って笑っているのだ、と本人が如何ほど意識しているのかは分からないが、それは誤魔化そうとして笑っているときだ。これ以上踏み込むな、というバリア。親しい人間には全部、手の内を晒しているように見せて、シビアに彼は内側で計っているのかも知れない。踏み込ませたくない領域を持っているのだ。つまらない、と思ったのが表情に出たのか、陽介はぴょんと跳ねると、両手を振った。
「怖い顔すんなって」
「顔に出る方なんだ」
悪いな、と額に三つ指を付いて言うと、陽介は首を横に振った。
「んー、ただ、大谷と柏木がトラウマになっちまいそうだなーって」
「陽介は直接の被害を受けてないだろう」
肩を上げると、陽介はふふっと笑った。トラウマになりそうな体験をした当の二人が、部屋でぐうすうと眠っていることを考えれば、彼らの精神は傷を負わずに済んだのだとも思われる。
「でも夢に出そうじゃん」
陽介は少し困ったように笑う。そういえば、少しだけど、様子がおかしいような気がしたのは、あの部屋に入って以降だった。
(あの部屋で何かあったか?)
特別捜査隊の女子メンバーの部屋だと思ったら、大谷と柏木が宿泊している部屋で(そもそも何故あそこに泊まっていたのだろうかも疑問ではある)、彼女らに逆に返り討ちにあった、ような格好である。何があったかと言われれば、それだけで十分トラウマになりそうな体験だ。
(違うな)
けれどそうではない。それで、アンニュイな表情を浮かべるはずもないのだ。
(俺と陽介は、部屋を覗いていただけで、クマと巽が突撃したんだったな)
面倒になりそうだった上に、女性陣への男子高校生的な興味もなかったため、扉の近くで陽介と待機していたのだ。陽介が行こうとしたら、止めておけと言おうと思ったのだが、幸いにも彼は、後輩と同居人の残念な姿を黙って見ているだけであった。いざというときに、妙な真似をしないのは、ある意味ではガッカリなのだろうか。据え膳は食わないような気もする。恐らく、完二もそうだろうが。完二が突撃したことについては、月森も面食らったものである。林間学校でも女子のテントに行った辺り、多分に猪突猛進なのだろうとも思うが。
「しっかし、意外だったよな」
「何が?」
「クマはともかく、完二が突っ込んでくんだもん。しかも、里中の布団!」
クマが雪子の名を呼んで。
(そうだ、完二は『里中センパイ!』とか言ってたな)
「てっきり、直斗くんの方行くかとおもいきや……」
アイツにんな度胸ねぇか、と陽介はからりと笑った。
(――あぁ、そうか)
ふと、月森の中で落ち着いた。
「巽のことだったのか」
「え?」
なんだ、そんな明かされ方はズルイ。思って瞳を閉じると、陽介は不思議そうに月森の名前を呼んだ。
「別に、巽は里中に特別な感情はないと思うぞ。……ないからこそ、だろ」
直斗の布団はありえない。りせでは気恥ずかしい。雪子の元にクマが行くなら、消去法で千枝だったに過ぎないのだろう、と月森は分析する。
「えーと……?」
くすりと笑った。
「里中に気があるってわけじゃないだろ、ってこと」
目を閉じたまま笑っていると、陽介は微かに息を飲んだような音をさせた。
「相棒って、エスパー……?」
「陽介のことなら、だいたい分かる」
気になるなら自分が突撃すれば良かったのに、と笑うと、足がこえぇだろーが! と返された。確かに、千枝の寝込みなんて、絶対に襲いたくないと思う。足蹴の強力さは、テレビの中で実証済みだ。
「俺は、里中は悪くないと思うけど」
「……そういう話を、したくねぇから黙ってたの」
「どうして? 男勝りではあるけど、明るいしいい子だろ?」
「客観的だなー」
「俺は俯瞰視点で生きてきたからね」
全体を見渡して、どうやって人間関係の糸が繋がっているのかを見てきた。陽介よりもずっと、空気や場を見て、読んでいる。嫌われたくないという彼のそれよりは、些か淡白で、面倒を避けたいというに過ぎなかったけれども。好き好んで話をややこしくしたくなかった。見てさえいれば、人の感情だって把握出来る。
(つもりだったんだけど)
陽介が千枝を好きだったなんて、初めて知った。いつものように見ていれば、決して気付かないこともないはずだ。陽介は何かと千枝を選ぶし(雪子との相性が悪いというのも一つの理由には上がるにしろ)、そして、千枝のことを女の子として扱っていた。前に出てしまいがちな彼女の身を案じて。顕著だったのは雪子を救出するときだったので、忘れてしまっていたのだ。彼はちゃんと、千枝を見ている。だから、完二の言葉には驚いたのだ。どうして千枝を選んだのか、と。もやもやとした気持ちのまま陽介は眠れない。とても繊細だから。そうしてここで、誰に咎められるでもなく空を見ていたのだ。
「……言うなよ」
「誰に」
「誰にも」
そっと目を開くと、陽介が人差し指を突き付けていた。
「似合うよ」
「んだから、お前にそういうの言われっと、ハズイんだっつの! 察して!」
「本当にそう思うから言うのに」
絵のように二人が並んで笑っていたら、きっと綺麗だろうと思う。二人とも明るくて、言い合いが耐えないけれど、笑顔もきっと耐えないのだ。頭の中でそうやって絵が浮かびかけたのに、ぶつんと映像は途切れてしまった。
(見られない)
客観的にも見られない。二人の幸福そうな絵なんて、もっと見られない。だってずっと、感情を込めずに、外側の視点から陽介を見られた試しがないのだ。もし、好きな人に自分の内側の感情を含めない視線を送れる人がいたら、月森は賞賛するだろう。
「あーもうヤメ! こういう話はいいんだよ……えーっと……あ、風呂、入りてぇな」
「この時間に開いてる?」
「無理か」
陽介は頬を掻いた。
「戻る?」
「……もうちっとここにいる。相棒は? 先、戻ってていいぜ?」
「もう少しいるよ。だってほら、月も綺麗だから」
笑うと、陽介はまた窓の外に視線を向けた。
「相変わらず、田舎は星もすげぇしな」
うん、と月森は頷いた。溢れ返るほどに輝く星空よりも、隣の太陽の眩しさに眩んでしまいそうになりながら。
最後の一文のクレイジーさが好きです。(自分では)
月と太陽……いいですよね……そして皆大好き「月が綺麗ですね」ネタで。
陽介は小西先輩といい千枝ちゃんといい、主人公以外への好意が普通な感じで……
私も、えええええってなります。柚樹がんばってください。
あと天城屋旅館の見取り図くらはい……適当に書いちゃった……(一応アニメを思い出しはした)
主花千枝だいすきです! 前回主←花←千枝だったので逆にしましたが、
次は主→花←千枝にして、主花千枝三部作が終わります(嘘)