部屋に入ったのは二度目だった。相変わらず整頓された部屋は、どこか男子高生らしさを欠いている様にすら感じられる。白い壁、整って揃えられている布団一式に、デスクの上には教科書とノートが優等生らしく乗せられていた。しかし入って左手を見れば、シルバーの三段ラックに謎の置物が置いてあったりする。あぁそれモコイさん。とか言われても、モコイさんって誰だよ、と思わずツッコミを入れる他なかった。
「適当に座ってて。麦茶で良い?」
「あーうん、ありがとさん」
鞄と重たい学ランを脱いで、適当に端の方に避けておく。テーブルの前に座って、することもないので、そのまま上体をべたっとくっつけた。置く場所があれば、つい、で何かを置いてしまいがちな陽介から見れば、何も置かれていないテーブルは珍しく思える。主のいない部屋が冷えていた様に、少しだけひやりとした頬の温度を下げるその感触はいっそ心地良い。
暇だったら家に来ないか、と誘われた。陽介は暇だったので、二つ返事で頷いた。たったそれだけの単純な会話で、別段の理由もなく、今、こうしてだらしない体勢でいる。
(なんか用事でもあったんかな)
虚ろな感情で思いながら、何とはなしに目を閉じる。理由なくと言えば、目を閉じると、眠気があったという訳でもないのに眠くなるのは、どうしてなのだろうか。
(んー……なんだろ、暇……?)
本当に眠ってしまいそうな危機感を抱き、陽介は無理に瞼を開くと、そのまま勢いで立ち上がった。
「家探しでもすっか」
前回に来たのがいつだったか、はっきりとは覚えていなかった。確か、半袖の季節だったと思う。それから家には入っても、部屋にまで上がってはいない。言えば、上がらせてくれるだろうとは思うが、部屋に来る必要性はなかった。試験勉強ならば図書館で出来たし、フードコートでも代用出来る。ここに来て、なんて、考えなかった。ふと視界にテレビが入り込んで、彼はいつも、ここでマヨナカテレビを見ているのだ、と思う。何となく指で触れると、ブォンと小さく音がして波紋が出来た。試したことはないから分からないが、少なくとも、八十稲羽にあるテレビならば、全てこうなるらしい。突き抜けて、クマの住んでいた影の世界に進める。修学旅行で行った辰巳ポートアイランドのテレビではそういうことがなかった為、今の限定では八十稲羽域内のみということになるだろう。とぷりと人差し指の第二関節が入り込んだところで侵入を止めて、その横の布団に目を移した。
「そういや、例のアレ、ここに隠してるとかって言ってたよな」
うーんと癖になっている腕組みをした。きょろりと周囲を確認する。菜々子ちゃんはまだ帰っていないとか何とか言っていたから、ちょっと位、騒ぎになっても怒られないだろう。
「んじゃちょっと失礼して――」
「陽介、おまたせ」
布団の下に手を突っ込んだところで、タイミング良くと言うのか悪くと言うのか、ドアが開いた。ばちっと目があったので、陽介は、あはは、と空笑いする。
「何してるんだ」
呆れた様に月森は肩を上げた。
「えーっと、例のモノを探してみようかなーとか」
「何しに来たんだ?」
「なにって……」
何だろうか。
(用事あったっけか?)
呼び止めたのは月森で、暇だったらと留保もつけている。陽介は暇だったからついてきた。それだけ。何をするとかそういう、明確な目的は最初からない。
「陽介はさ」
月森は膝を付くと、グラスをテーブルに下ろした。陽介も手を引っ込めて、そうっとテーブルの方に近付く。何となく喉が渇いていた。
「大衆迎合的なところがあると思う」
「たい……? なにそれ」
聞き馴染みのない言葉に首を傾げながら、月森の正面に座って、置かれた麦茶のグラスをこちらに引き寄せる。前に来た時は氷も入っていてキンキンに冷えていたのだが、今日のは人肌程度の微温さだった。部屋の冷えを考慮したのだろう。
「大勢の人間に合わせている。……無意識? 日本人って、誰しもそういうとこがあるみたいだけど」
丸で自分は日本人ではないかの様な物言いに、思わず笑うと、不満気な視線を差し向けられた。グレームーンストーンの様に、一般の黒よりもずっと色素の薄い瞳の威圧感は相変わらずだ。
「勿論、合わせるのは悪いことじゃない。陽介はクラスの雰囲気と、自分の役割を理解してるから、いつも明るく振る舞うだろ? そういうこともそう」
「や、別に、そういうワケじゃ」
「気付かないんだ?」
ずっとテーブルに身を乗り出してきたので、思わず身体を引いてしまった。
「……エロ本探すとかさ」
「直球で言うな、お前」
「男子高生ならそういうのが普通だろ、って感じでやってるように思うんだけど」
「普通、じゃねぇの?」
「エロい話題が? うーん、なきにしもあらずと言うか」
「えろえろ連呼すんなーセンセー」
「俺は、陽介は別にそういうことしたいって思ってないと思ったんだけど」
「えっとー……?」
月森はにこりと笑った。
「間が持たないからとか、そういう理由だろ? 本当は別にどうでも良いんだよ。ソレに興味がある訳でもない。普通の人はそうするだろうからって、行動を取る。例えば、男女が同人数で揃ったらくっつけようとするとかそういうのも」
上手く返せずに黙ると、月森は優しげに微笑んだ。
「理由なんてなくても良いんじゃないか? 俺が誘ったのには別に理由はないし、陽介がノッたのも、理由なんてないんだろ? だったら、何かしたいって訳でもないし、本当は、黙って二人で過ごしてるだけでも良いと思ってるんじゃない?」
(なんか、ハズイこと言われてる気がする……)
「違う? だったら、そうしていようよ。俺はそれで良いと思ったんだけど。陽介って意外と静かな時間とか好きだろ?」
「……そうやって言われんの、結構恥ずかしいのな」
自分のことをあっさりと指摘されること程、羞恥心が掻き立てられることもない。その上、何か言いたいと思っても、反論する余地がないのだ。
月森がどこに何を隠していようと、別にそんなことは、終局的に言えば、どうでも良いのだ。話題さえ作れればそれで良い。男子高生らしい行動ならばと思ってそうした。誘うならばカラオケとか、そういうノリと同じ。
(だって、普通に過ごしてるのが、一番だろ)
出る杭は打たれる。唯でさえ、ジュネスの御曹司等と不名誉な渾名を付けられているのだ。陽気なキャラクタはそれなりに利便性が高い。嫌な噂も言辞も、笑って受け流すことが許されるから。
「外では『普通』を貫いても構わないけど、俺の前でだけは止めて欲しいと思って。俺を相棒だって言ってくれるなら、――去勢張るのはナシだ」
口さがない噂の類も、亡くなった想い人を悪く言われて声を荒らげたことも、子供みたいに号泣してしまったことも、全て月森は知っている。見てきている。
(ホント、敵わねぇよな)
それでこの発言だ。格好良過ぎて、溜息しか出てこなかった。
「お前って、カッコイイよなぁ」
「茶化すなよ」
「本気だって。ははっ、そんなこと言われたら、どうすりゃいいんだか」
思わずまたテーブルに突っ伏した。その頭を、菜々子にでもするかの様に、月森が撫ぜる。
「どうもしないで良いんだって」
言葉を交わさなくても、何もしなくても。
「一緒にいて落ち着くなら、それで良いんだよ」
顔を上げて瞳をぱちりと合わせると、月森は小さく笑った。何だ、と思う。それだけでも良いのだ。幸福な時間と言うのはきっと、何かを重ねなければ得られないものではない。傍にいて、呼吸を合わせるだけで、例えばそれだけで満たされるものがあるのならば、きっと、それは紛れもない幸福なのだ。他の誰に言われても、そう信じて通じ合っていられれば、確かなものはそこにある。
月森はソファの上に乗っている黒い表紙の本を、手元に引き寄せた。
「本読んでるから、陽介も好きにしてて。どうしても探したいって言うなら、止めないけど」
「……止めとく」
代わりにすくっと立ち上がって、布団にダイブした。
「んじゃさ、なんか眠くなってきたから、ちっと眠ってていいか?」
「ん、どうぞ。暗くなってきたら起こす」
「さんきゅー……」
ぺたりと目を閉じると、微かに和風の香りが漂っていた。白檀や沈香とでも言う様な落ち着く香。
(線香とか? なんか、田舎のじいさん家みたいな)
静かにすると、生活音が微かに響くだけで、他には何もなかった。ヘッドフォンから漏れてくるいつものBGMもない。静か。時折、頁を捲る音と、僅かな呼吸音がする。自分の鼓動の音も良く聞こえた。次第に意識は落ちていく。
(なにもしなくていいんだったら)
(それだけで幸福だったら)
湯の中を揺蕩う様な意識では、それ以上、掴み取れない。伸ばした手が、虚しく空を切る様に、思考が落ち込んで止まった。
また彼の声が起こしてくれるまで、世界は止まる。
実際に陽介が興味あるのかどうかはよくわからないんですが、
こういうキャラ付けだから、みたいな感覚で動いているような気もする陽介。