poison little finger

 菜々子は月森に凭れかかると、小さな寝息を立てている。それを微笑ましそうに陽介が眺めていた。
「実際さ、菜々子ちゃんて、すげーしっかりしてる」
「周囲の状況を分かってるんだろうね」
 母親がいないこと、父親は忙しいことを、菜々子は理解している。連れ去られたテレビの中での彼女の心象世界が、母親を求めていたことは間違いないが、菜々子は基本的に、敏過ぎるくらいに敏いのだ。無理を言って父親を困らせることもしない。けれど本当は、甘えたい。菜々子のそんな心情に、自分が寄り添ってやれるのならば、月森としてはこれ程に嬉しいことはなかった。自分を信頼する安らかな寝息だとか、そういうものを愛おしく感じる。
「菜々子、眠いならもう布団に戻らないと」
「うん……」
 菜々子は大きな黒い瞳をぱちぱちとさせて、しかし眠そうに指で瞼を擦った。頭を軽く撫でてやると、ふわりと笑う。コタツから出た月森に従うように菜々子も出て、よたよたと寝室へ向かうのを、傍で支えてやった。
「おやすみ、菜々子ちゃん」
 陽介が手を振る。
「うん……おやすみ、なさい、おにいちゃ……」
 どうやら、ジュネスのお兄ちゃんのことは記憶から抜け落ちてしまっているらしい。陽介は小さく笑った。
 布団は、菜々子が風呂に入っている間に敷いておいたので、そこに寝かせるだけだ。菜々子が手をずっと握っているので、少し手間取りはしたが、寝息が聞こえてくるまで待って、そっと離した。安らかな寝顔に、おやすみを告げて、リビングに戻る。陽介はコタツで丸くなっていた。
「テレビでも見てれば良いのに」
「うるさくしたら、菜々子ちゃんに悪いだろ」
「ぶっ、お母さんみたいなこと言う」
 あのな、と陽介は眉間に皺を寄せた。彼曰く、夜のテレビの音は特に、甲高く響くらしい。そして小学生の聴力では、高音を良く拾う。
「前に、うちに、確か甥だったかが預けられたことがあったんだけど、結構言われたんだぜ。テレビはさっさと消しなさいって」
「あんまり気にせずに、天気予報見てた」
「最低!」
 陽介はこたつ板に顔をくっつけた。相変わらず、繊細なようである。
「堂島さん、遅いんだって?」
「いつも遅いって言えば遅いんだけど」
「そっか。菜々子ちゃんも、寂しいんだよな」
 しみじみと陽介は頷いた。もしかしたら、彼も鍵っ子だったりしたのかも知れない。御曹司などではないと言うが、彼の父親は、あの大規模店舗の店長なのである。その前はジュネスの社内で働いていたらしいが、忙しい人だっただろうことは想像に難くない。母親も、同僚として、今でも忙しいと聞いているので、可能性は高いだろう。かく言う月森自身も、両親は多忙で家に独りというのも珍しくはなかった。
「しっかしアレだな。菜々子ちゃんは可愛いし、将来はすっげぇ美人になりそうだよな」
「菜々子だから当然だな」
「どうすんの、お兄ちゃん?」
「どうって……まぁ、恋人とか簡単には許さないけど」
 菜々子はしっかり者だ。彼女が悪い男に引っ掛かるとは到底思えないが、それとは話が別で、どんな相手でもぶん殴ってやりたいくらいの気概はある。陽介は「堂島さんより怒るんじゃね?」と楽しげに笑った。
「それより、お兄ちゃんと結婚するって言い出すとか」
「俺が? まさか、菜々子は小学生だぞ」
 確かに菜々子は可愛いし、目の中に入れても痛くはないと思っているが、月森はロリコンではないし、恋愛対象に入れたことはない。菜々子への溢れる愛情は、全て、家族愛の範疇である。
「そりゃ、今はそうだけど」
「有り得ない」
「わっかんねぇぞ。十年くらい経てばさ、もう菜々子ちゃんだって女子高生だぜ? 俺らとおんなじ。そんでさ、『昔言ったこと、覚えてるかな?』なーんて言われてみたら、流石の月森でも……」
「あのさぁ、陽介」
 語気を強めて言うと、陽介はこたつ板から顔を上げた。
「それって、俺に何を言わせたい訳? あぁそうだね、もしかしたら菜々子にならグラついちゃうかもーって?」
 睨みつけると、陽介は目を伏せた。
「陽介は余り嫉妬する方じゃないって知ってる。俺が里中や天城といても、あぁ仲良くしてるんだな、くらいにしか思ってない。浮気するとか心配されていないのは嬉しいよ? 嫉妬しろとか強制出来るものでもない。でも、だからって、他の女の方を見ろってどういうこと?」
「……冗談だろ」
「性質が悪いから怒ってる。分かってるんだろ」
 視線を逸らしたので、ますます苛立って、頬を伸ばしてやった。中々、餅のような柔らかさがあって悪くない。びよんびよんと伸ばされるがままの陽介は、昔に流行ったとか聞くたれぱんだを彷彿とさせるかも知れないと思った。話のネタとしては古いが。
「らっひぇ」
「何? 懺悔?」
 頬を伸ばしたままでは喋れそうにないので解放してやる。指で引っ張った辺りは紅くなっていた。陽介は両手で頬を押さえながら、じとりと月森を見る。
「……ヨボーセン」
 言って、フイと視線を逸らした。
「張ってるんだよ」
「何の為に?」
「聞くなよ!」
「いや、実際分かんない。何の為に、予防線張るの?」
 首を傾げると、陽介は奇声を発して項垂れた。暫く動かないでいるのでどうしようかと思っていると、むくりと起き上がる。
「心構えが必要だろーが! いざって時のショックの軽減! 予防線って言葉の意、味、分かるだろ!」
 意味という語を強調して言うと、陽介はまたがくりと項垂れた。
「菜々子ちゃんだったら、なんかまだ、普通によかったなって言える気がする。つか、他の女よか全然いい」
「陽介」
 呼び掛けると顔を上げた。何、と聞き返しそうな瞳を素通りして、肩を掴む。
「え、ちょ、月森」
 そのまま、首筋に噛み付いた。ぎゃあっ、と陽介は蛙を踏んづけた時みたいな声を上げる。
「なんで噛むんだよ!」
「歯形がついた」
 小さく笑うと、陽介は怯えたように肩を竦めた。何事か分からない奇異な行動は、陽介の苦手とするところだ。恐恐と、噛み付かれた歯形を指でなぞる。
「ど、毒とか仕込んでねぇよな?」
「ポイゾマ? ベノンザッパー?」
「……どーすんだよ、これ」
「寝たら取れるだろ」
「気楽に言うな。っつか、なんで噛んだ。なんで噛んだんだよ。なに? もしかして食べる気?」
「あぁ、陽介って美味しそうだよね」
 指先を掴んで、見詰めながら口角を上げる。細い指先は戦闘経験の割に、しなやかで綺麗だ。女性のように丸みを帯びた華奢なものではないが、スッと通った流麗さが備わっている。掴んだまま瞳を細めると、陽介は首を振った。
「コワッ」
 噛み付こうが所有痕を付けようが、いずれ取れてしまうという意味では、マーキングとしては余り意味を為さない。心中だけで溜息を吐き、また突飛な行動に出るのではないかと警戒する陽介を胡乱に眺める。
(傷つかないための予防線)
 どこかの歌で聞いたフレーズを思い起こす。
(陽介はさっぱり分かってないんだろうな)
 傍にいるのに、終局的に噛み合っていない気がしている。いつか別れる時の予防線なんて張るくらいなら、隣で談笑する女の子にでも嫉妬してくれるべきではないだろうか。いつもとは言わないが、何だかんだで交流は広いし、いつも輪の中心にいがちな陽介を見て、こちらがどれだけやきもきしているのか、彼は全く知らない。そして、彼の判断は別れを前提にしているのだということも気付いていないのだろうし、きっと、別れた後の陽介は新しい恋人を作って上手くやれるのだろうとも思う。予防線を張りたいのはこちらだ。でも、張るのが怖い。
(現実化したらどうするんだよ)
 怖いから予防線を張りたいのは同じだけれど、離れるのがもっと怖いから、それすらも出来ない。
「……月森」
 掴まれている指先が、呼び声と共にぴこぴこ動いた。
「ん? 何?」
「微妙な顔してっから」
 誰の所為だと。月森は思わず溜息を零した。
「え、と、だな。お前の愛を疑ってるワケじゃねぇぞ」
「知ってる」
 陽介は多分にリアリストなのだ。早紀の死が影響しているのかも知れないが、永遠を信じない。いつか覚めるかも知れないと思って、それでも今を生きている。その精神は非常に強いのだ。喪うかも知れないということを恐れない。手放しても失くしてもきっと、恋したことを後悔しない。
(俺の執着心が強いだけかな)
 まだ高校生の恋愛だと言われても、結婚も出来ないような年齢でと言われても、他には考えられない。手放すことが恐ろしくて仕方がないのだ。
 小指に噛み付くと、ぎゃあっとまた陽介は悲鳴を上げた。
「菜々子が起きるから静かに」
「お前が言うな!」
 噛み付いた痕から全身まで、逃れられなくなる毒が染み渡ってくれれば良いのに。

様々な事情から放置されていた話ですが、内容的には割と気に入り……?
噛む話が好きです。
長さや唐突感からpixivに上げにくいのでサイトのみで。

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