世界平和のための短冊

 りせも無事に救出し、また、束の間の平穏が訪れる。次の被害者はどうなるだろうかという懸念は常に持っているものの、男子高校生らしく、陽介は基本的に、日々の学校生活も楽しんでいた。特別捜査隊の面々についても同じ。
「陽介、今日空いてたら、うちに来ない?」
「なんかあんの?」
「七夕」
 しかし、そんなことを特別捜査隊のリーダーから笑顔で言われるとは、さすがに思っていなかったのである。
「七夕……ですか」
「七夕です」
「ちょっと待て、月森。七夕だからうちにおいでってなに? なにがあんの?」
 昔は学校給食で七夕ゼリーなんてものが出てきて、一体その日にどれだけの価値があるのかも分からずに、ただデザートが出てくれてありがたいなと思いながら食した記憶はある。七夕伝説のことももちろん知らないわけではない。年に一度しか会えない、彦星と織姫が、今宵、天の川という美しげな川を渡って束の間の逢瀬が許されるという話だ。そこまでの知識と、だからうちにおいで、との因果関係が分からない。
「居間に菜々子が笹を飾っていて、せっかくだから短冊を探してるんだ」
「短冊って探すものなの?」
 どこかに落ちている短冊を探す月森と菜々子の姿が、一瞬頭に浮かんでしまった。
「陽介はまだどこにも書いていないと見て」
 白米を口に運びながら、月森は微笑する。陽介は肩を上げた。
「あー、期待に沿えなくてワリィけど、書いたんだよ。ジュネスでも笹飾ってっから、陽介くん書いておいてね、って担当の人に頼まれてさ」
 せっかく飾ってある笹に、短冊が集まらなくてはもったいない――そういう意味では、ジュネスにおいても、彼と同じ短冊探しというものが行われていたにも等しいのかも知れない。とかく、陽介はサクラとして、短冊を書いて、吊るしておいたのだ。後に人が続いてくれるようにと願って。
「そうか……残念だな」
「……いちおう聞いとくけど、なにが?」
 月森はにこりと笑った。たぶん、会話内容にさしたる意味はないのだろう。
「陽介は、いろいろと頷いてくれれば良いのに……。今日、菜々子、友達と七夕のお祝いするから遅くなるって言われてるんだ」
「あー、なんか小学生んときとかって、そういうのあるよな」
 小学生ならば納得が行く。高校生にもなって、七夕だから、では、やはりおかしいのだ。
「その大学芋、美味しい?」
 月森は真ん中に置いてある弁当のメインのおかずを箸で差した。ほくほくとした大学芋は、相変わらずの彼の料理の腕前を垣間見させる。こうして昼食に月森が作ってきてくれた弁当を二人で分け合うのも、普通になってきてしまった。違和感もない。
「ん、美味いけど」
「夕食も食べない? 俺、一人だからさ」
 陽介は大学芋を飲み込むと、また、肩を上げた。
「……お前さ、なんか遠回しに言うのクセなの?」
「俺、恋人とかいたことがないんだよね」
 思わず、もう一つと口に入れた芋を詰まらせそうになって、俄に噎せた。
「なんかこう、どういうやり方? 誘い方をすれば……って、陽介、平気か!」
「へ、へーき……あぁ、センセイもしかして俺が初恋? なんちゃって」
「うん、そう」
「そ、そうか……」
 初恋は幼稚園の優しい先生だった自分が若干、申し訳ない。
「……まぁその、なんだ。遊びにおいでよ、でいいと思う。素直に言えよ。お前のよくわからんトコも慣れてるけどさ」
「じゃあ、うちに来てよ、陽介。いちゃいちゃしよう」
「ぶっちゃけすぎだろ!」
 後半はさすがに、オブラートに包んでも良かったと思う。

 菜々子が帰っていないという堂島家は、静かだった。七夕には晴れない、と世で良く言われている通り、空の色は灰色で、昔、織姫と彦星はきっといつも会えないのだ、という話を陽介も聞いたことがある。一年に一度だけしか会えない、というその言葉の意味を、それまでに考えたことはない。片面では永遠に会えなくなってしまったという小西早紀のことも思うし、他面では、何やらダイニングテーブルに溢れ返っている色とりどりの短冊(ほとんど文字は無記入)を片付けているんだか散らかしているんだか分からないであれこれと触っている月森のことも思う。一年に一度しか会えないわけではない。けれど、彼のここでの期間が一年しかないことを知っている。それを、陽介には真っ先に話してくれて、それでも仲良くしたいのだと言ってくれた。
「一年に一回、か」
 来年はそれこそ、一度しか会えなかったとしても不思議はない。お互いに受験生だし、同じ国内にいても、八十稲羽は都会から、あらゆる意味で遠すぎる。
「七夕伝説? 詳しく教えようか?」
「や、結構です」
 知識が生き字引級の月森なら、細部に渡ってまで説明してくれそうだが、それを聞いていると日が暮れてしまいそうな気がする。
「菜々子ちゃん、なに書いたの?」
「良い願い事」
「そっか。堂島さんとか、さすがに書かない?」
「書いてくれなかったから、笹の葉が寂しい感じになってて」
 居間に飾られている笹には、三枚だけ短冊が飾られてあった。
「お兄ちゃんもって頼まれたんだけど、久慈川のことがあって、中々手が回らなかったんだ」
「で、今から書く? てか、短冊多すぎじゃね?」
 少女の短冊を覗き見るのも悪趣味だろうから、と居間から離れて、月森の座っているテーブルの方に戻ってきた。短冊は間近で見ればみるほど、山のように置いてある。
「張り切っていろいろ作った結果がこれ」
「シスコンだなぁ、お前って」
 微妙な顔でこちらを見られたので、冗談だと陽介は肩を竦めた。
「願い事なんて書いてなくても、飾ったら綺麗かなと思って」
「いんじゃね? 一個一個書くのも手間だし」
 紅い短冊を一枚、テーブルから取り上げた。赤橙黄緑青藍紫、虹の色から、黒に白、灰色、金銀と取り揃っている。それが何枚も何枚も、上部に紐を通した状態であるのだ。相当な労力だろう。
「根気あるよな、お前」
「折り鶴かなり折ってたから、その延長」
「あー……」
 不器用な方ではないと思っていたが、鶴を折るのは苦手だ。昔から、折り紙は得意でなかったような気がする。手裏剣とかメンコとか、自分が折ると失敗ばかりして。
(器用な指先、なんだな)
 まだ少し残っている穴の空いただけの短冊に、月森は紐を通していく。繊細な動きに思わず見蕩れていると、月森はふと手を止めてこちらをじっと見た。
「あ、っと、ワリ。見てると集中途切れる方?」
「多分、根気とは言わない。こういうのは」
 いきなり何をと首を傾げると、まだタフガイまでは至らない、としみじみ月森は語る。
「陽介、これだけの短冊をすべて飾るのには手間が掛かるだろう?」
「そうだな。つか、全部飾ったらバケモンみたいになんじゃね」
「だから口実だったんだけど」
 突如立ち上がると、月森は机の上に山盛りになっている短冊を腕で掬った。そのまま、陽介の頭上からばらばらと降らせるものだから、全く何事が起きたのか理解出来ず、陽介はただひたすらに目を丸くしているだけだった。短冊はすぐに床に落ちていくのではなく、空気抵抗か何かでふわふわと舞っている。何だかとっても綺麗だな、と思った。
「意味がなかったので、陽介にとりあえず降らせておく方向で」
 月森が笑っている。
「お前の……発言は……わからん……」
「短冊には何を書こうかな」
 床にぶち撒けた短冊は無視して、月森はテーブルに残っている灰色の短冊を一枚を手に、また椅子に座った。彼の言う通り、溢れた短冊もすべて笹に飾るのであれば、わざわざ元の位置に片付ける必要もないのだろう。陽介も自分の頭に乗っていた橙色の短冊を一枚手に取って、肩や背中にくっついている短冊を手で払い、椅子に腰掛ける。テーブルには筆ペンが二つ用意されていた。
「陽介は結構真面目だから、二回も願い事を書くのは嫌かなと思って」
「マジメでもないし、仮にそうだったとしても、んなことまで気にしねぇから」
 何を書くのかと思って手元を見ていると、月森はすらすらと達筆に『陽介とずっと一緒にいられますように』と臆面もなく目の前で書き上げた。
「はい、完成」
「恥ずかしい!」
「恥ずかしがることはないよ。どうせ、大量の短冊に埋もれちゃうんだから」
 陽介は足元を埋めるくらいの短冊の山を見た。
「願いなんて、そんなものだよ」
 何だか、そういうのは寂しいな、と思う。
 ジュネスには数多くの短冊が飾られていた。陽介が書かなくても、笹は十分に埋まる。恐れるほどに、八十稲羽の人たちはジュネスのことを毛嫌いしているばかりではないのだということを、吊るされたその短冊を見て思った。子供の拙い文字も、お爺さんの達筆過ぎて読めない文字も、すべてが等しく請われた大切な願いだ。無理でも、不可能でも。
『いなくなってしまいませんように』
 陽介が短冊に書いた願いは、叶うようなものではない。自力でどうにも出来ないから、ぼんやりと書いたという程度だし、叶わないからとて嘆かないだろう。そういうものだと知っている。まだ、半年以上先のことなのに、けれども願ってみた。それ以上に願いがないのだと言えば、確かに月森の言うように、異なった願い事を今ここで書きたいと積極的には思わないだろう。
「陽介、何書くの?」
「……事件が無事、解決しますよーに。これでいいだろ」
「リアリティあるね」
 無言の短冊に埋もれてしまう願いに意味があるのだろうか。
(なんか、うじうじ考えてんのもなー……)
 ごろんとテーブルに頭を乗っけると、月森は急に髪の毛を触り出した。
「おい、月森」
「陽介の髪って柔らかい」
「お前のは、硬そう――」
 手を伸ばして前髪に触ると、ワックスで固めているような硬い感触がある。
「……ところで俺、陽介の文字って分かるっていうか、見分けられるんだけど」
「うん? お前、俺の字、そんな見てたっけ?」
 顔を上げて見ていると、分かるよ、と月森は唇の端を上げた。
「陽介がジュネスで短冊を書いたと聞いて、ちょっと見てみたんだ」
 ここに来る前に、夕食の買い物をしていというので、ジュネスに寄っていた。その時、行動をずっと同じにしていたわけではない。陽介もちらりと飾られている笹は見たが、月森も同じもの見ていたとは思わなかった。
「……ちょっと待て。お前は俺の文字が分かる。んで、ついでに、ジュネスに吊るされてる短冊を見てきた」
 こくこくと月森は頷く。そして、満を持したように、口を開いた。
「特定しておきました」
 彼の言葉を認識するまで三秒かかった。認識して陽介はまた、机に突っ伏す。
「お、おま……な……ッ、人の短冊を探すな!」
「いや、だって気になったから。あれって、俺のことだよね? 自惚れても平気?」
「その上、恥ずかしいことを言わすな!」
「良かった。だから、俺の短冊はこうなんだけど」
 改めて月森は短冊をひらひらとこちらに向けたらしかったが、陽介は顔を上げずに、ただ目の前の人の行動を呪うばかりだ。名前も書いていないし、誰かに特定されてしまうとは思わなかった。万一特定されたとしても、それが誰かを理解する人はいない。そう思ったから書いたのだ。世界平和とでも書いておいて良かったところを、敢えて。今更ながら、世界平和にしておけば良かった、と、平和でない自分の心情を思う。
「いなくなったりしないよ。心はいつも、陽介と、共に?」
「疑問形……」
「どうせ誰にも見られないんだし、陽介もそっち書いてくれて良いよ」
 何だそういうことか、と徐に思って顔を上げた。月森は柔らかい表情で笑っている。
 人に知られて良い関係ではない。陽介が固有名詞を出さなかった最たる理由はそこにある。けれど、好きなのだから仕方がないと月森は言うし、陽介もそれを否定出来ない。見えないようにしたというのは、そういう意味で。そして喩え、誰かから見えなかったとしても陽介にはきちんと伝わるように、と、彼はわざわざ見せ付けるのだ。とても精緻で美しい文字で、ずっと、と書かれているその短冊を。
「やっぱやめとく。世界平和だな、世界平和」
「何でだ」
「二つも同じ願い見てみろ、向こうだってうんざりするだろーが」
 自分が幸せなときくらいなら、世界の平和を祈っていられるだろう。
「俺のはお前のと一緒でいーよ」
 言うなり、月森がガターンと音を立てて椅子から立ち上がった。何かまずいことでも言っただろうかと慄いていると、ふるふると月森は小刻みに振動する。
「陽介は不意打ちで可愛い!」
「なにそれ!?」
 そのまま、月森の当初の目的だろう、二人でいちゃいちゃするということを実行に移すことになったのか、抱き着いてくる彼の所為で短冊関連は全く捗らず、菜々子が帰ってくるまで床の短冊は放置されたままとなり、結局帰ってきた菜々子と三人で笹に飾ることになった。

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