謂れのない非難は慣れている。彼が来てからも、それ以前も同じ。面と向かって言われることは多くはないが、それでも、悪意の塊のような言葉を投げられるのも珍しくはなかった。大抵は言い掛かりだ。どうでも良い相手のどうでも良い言説に折られるほどの弱い心は持っていないし、不快感を顔に出さないようにする程度の配慮も出来る。
しかも相手は二人に対して、こちらはたったの一人。そういうのを、卑怯だとか惨めだとか思わないという神経の図太さは、ある意味、見習うべきであるかも知れない。隣に人がいるのに、傍らに人無きが如く振る舞えるのは中々に凄いことだろう。そう、色々なことを考えて、ぶつけられる言葉を消すのだ。音があれば思考はいらないけれど、目の前でヘッドフォンをする訳にも行かない。
「なんとか言えよ――!」
ひゅっと目の前に手が伸びてきた。胸倉を掴まれるのか、殴られるのか、そのいずれかだろうなと判断したが、避けられるほどの余裕はない。痛いのは嫌だなと咄嗟に目を瞑った瞬間、ガツッと鈍い音が聞こえた。
(……痛く……ない?)
「なにすんだよ!」
そろりと目を開けると、廊下に手を出そうとしてきた男子生徒が倒れている。もう一人が慌てて駆け寄っていた。
「それは俺の台詞だ。陽介に何をする気だったんだ」
「あ……悠……」
陽介の左斜め前で右の拳を握り締めていた鳴上は、くるりと振り返ると、にこりと笑った。
「え、えと、悠」
「殴り足りない」
笑顔のまま。
「ひぃっ!」
彼の背後で男二人が悲鳴のような頓狂な声を上げた。目を瞑っていたので分からないが、恐らく、右ストレートが綺麗にヒットしたらしい男の右頬は、良く見ると腫れ上がっている。振り返った鳴上がどんな表情をしていたのかは分からないが、彼らを竦み上がらせるのには十分だったようだ。本気でまた一発殴りそうに拳を構えている鳴上を見て、陽介の方が慌てた。
「す、ストップ! ストップだ、相棒!」
慌てて学ランの後ろの襟首を掴み、そのまま引っ張った。
「これ以上、罪を重ねないでくれ……」
後ろ手に陽介が引っ張っていくと、鳴上は全く抵抗せずに、ずるずると引き摺られている。
「でも、陽介に酷いこと言ってただろ」
憤懣やるかたないといった声が背後から響く。
「その上、手まで出そうとして……許せない、ああいうの。俺は、陽介を不用意に傷付けるような奴を許せない。誰が許しても」
鳴上の声が真剣で、胸に響いた。指先の力が抜けてしまいそうになる。
(あーヤベ……、泣きそう)
友人を引き摺りながら涙を流していたら不審過ぎる。彼といると、涙腺が弱くなってしまうから困るのだ。泣きたくなるくらいに、感極まることなんて、なかったのに。
「殴ったら堂島さん飛んできちゃうから」
「正当防衛だよ」
「俺は別に殴られてねーもん」
「殴られそうだった。陽介に危険が迫っていたから、陽介を守る為に殴った。ちゃんとした正当防衛」
そーなんだ、と陽介は呟いた。
「俺さ、昔から王子様みたーいって言われてたんだけど」
「なんだよ急に……自慢?」
「本当は、ナイトになりたかったんだよね」
「なんで」
いきなり妙なことを言い出すので、思わず立ち止まってしまった。
「王子様って、守られてるだけだろ? アールピージーの戦う王子様って、幻想だし。だったらさ、守ってあげる騎士になりたい」
この人は。
(なに言い出すんだよ……)
振り返って顔を見ると、鳴上はやんわりと微笑んでいた。言わんとすることが分かるので、胸が痛い。
「……ちょっとトイレ」
「ん? 漏るって?」
「先、帰ってろ」
「えっ、どうして。折角、陽介見付けたのに……!」
「いいから! 帰ってろ!」
手を離して男子トイレに走ると、横を擦り抜けた女子生徒が不思議そうにしていたので、相当酷い顔をしていたのかも知れない。
放課後だった為か、トイレには人がいなかった。そのまま個室に入って自分の頬に触ると、既に冷たく濡れている。擦れ違った生徒ならばともかく、鳴上には見られていないだろう。
(あーもうヤだ……こんなことで)
やっぱり鳴上の所為だ。泣いてばかりいる気がする。(実際に泣いたのは二度目だが)
(トイレで泣くっつぅシチュエーションもヤだ……)
イジメにあった小学生のようだ。イジメ類似の言動は受けたが、それで泣いている訳ではない。目を擦っても擦っても、涙は止まらずに溢れてくる。何故泣いているのか、分からなくなってしまうように、涙腺だけが壊れていた。時間の感覚も危うい。気付けば、十分近くそうしていたように思えた。やっと涙が収まってくれたので、一息ついて個室を出る。鏡を見ると、目元が綺麗に紅く腫れていた。
「うわ、やっぱり……」
河原で泣いた時も、目が真っ赤になってしまったので、母親に心配されたのだ。
「隠れて帰るか」
ここまで来たら、ここで時間を潰して顔が良く見えなくなる程度の闇に紛れられればベストだろうが、トイレでいつまでもいるのは流石に陽介の気分的に嫌だった。何となく手を洗い、水気をざっと飛ばして、そろりとトイレから足を踏み出す。
「陽介! どうしたかと思った――って」
「うわぁっ! な、なんでお前がいるんだよ!」
「その目……陽介……!」
顔を胸に押し当てられた。
「独りで……泣いてたのか?」
「いや、えっと、その」
「泣くならいつでも俺の胸を貸したのに」
(そういうののせいで泣いてるんだよ)
鳴上の指が、優しく髪を撫でる。知られたくなかったから逃げたのに、鳴上は全て台無しにするのだ。
(ケーワイ……)
言っても恐らく治らない。彼のこれは、天然なのだ。悪気はない。善意しかない。そして、そんなところを、陽介も好きだと思っている。躊躇いのない優しさが。
「てか、どうやって帰ろうって思ってた。こんな顔じゃ……」
そうだな、と鳴上は呟いた。回していた腕を離すと、きょとんとする陽介の頬に、いきなり右の拳が飛んでくる。身体が吹っ飛んだ。
「え? な、なに? なにが起こって……」
「陽介も俺を殴ってくれ。二人で大喧嘩して、泣きながら仲直りしたってことにすれば、安心だ……!」
(どこが!?)
「ばっ、バカだろ! おまえ!」
「どうして」
鳴上は「痛くなかったか」と心配そうな瞳で言いながら、手を差し伸べた。
「河原で殴りあって通報されたの忘れたのかよ……また、堂島さんに迷惑かかんぞ」
「平気だって。ほら、陽介も殴って」
「だから」
「そんな顔で街を歩きたくないんだろ? 心配掛けるからって」
人差し指が目元に優しく触れた。殴って吹っ飛んだのに、頬はちっとも痛くない。加減するのも得意で、本気で殴り合ったときのように、花畑は見えなかった。
「俺を殴ってくれ!」
「真似すんな、ハズイから」
鳴上は早くと目を瞑って待ち構えているが、陽介は彼を殴りたくなんてなかった。泣いたのは彼の所為だが自分の所為だし、優しいのが悪いんだとも言いたい訳ではない。それなのにまた、陽介の為に(若干変ではあるが)一計を案じてくれて、殴られるのも厭わない。
きゅっと拳を握る。力がちっとも篭らなかった。陽介は諦めて指を開いて、鳴上の頬にぺちりと当てた。
「……これで勘弁してくれよ」
「かっ」
声と同時に目が開いたので、陽介は効果音かと一瞬思った。
「か?」
「かっわ……いい……ッ!」
「お前って定期的におかしくなるのな」
普段は非常に優しい良い人なのに、偶に発言が迷走する。
「も、もう目のことはいいから、帰ろうぜ……?」
「いや、良くない。教室で話しでもして、時間を潰せば良いよ」
「いいってもう。お前にもワリィし」
「俺なら構わないよ? 陽介となら幾らでも喋っていられるし。あ、教室は、今、人いなかったから平気だ」
鳴上は笑顔で陽介の腕を掴むと、教室の方へと引っ張っていく。
「目が紅い可愛い陽介は俺だけの特権なんだよ。だからダメ」
天然主人公=鳴上悠のイメージになってます。アニメとはたぶん別人。
陽介を庇いたい。守りたい。ナイトになりたい!!!!(※だから私は花村家のメイドに立候補する)
「少年よ我に帰れ」を聞くと主花が過る系です。
たまに陽介を泣かせたほうがいいのかなと思って書いた。