八十神高校にはプールがない。中学校ならばいざ知らず、今日日の高等学校においてはプールの有無は大勢に影響しないし、むしろ、年頃の男女は水着姿を晒すことを好まないということからも、その点について不平不満が出ることも少ないだろう。稲羽市は広いため、八十神高校の敷地も決して狭いものであるとは言わないし、プールを作るだけの余裕もないことはないのだろうが、かような理由でプールがない。そもそも、海岸線が近く、泳ぎたければ海に出れば良いし、単なる水遊びならば川でも十分だという認識もあった。
「中学校のプール?」
「――そ。市営プールとかもねぇし、ハチコーの生徒なら無償で貸してくれるって話。そんなに使ってるヤツは多くないっぽいけど、結構暑いだろ? たまーに人数集めて借りてるヤツもいるっぽいぜ」
八十稲羽の多くの生徒は、この公立中学校から八十神高校に上がってくるため、校舎や教師についてもある程度、見覚えがある。その上、当該中学校には水泳部がなく、夏季休暇期間中にプールが空いてしまい、もったいないという面もあったのだ。
「プールか。中学以来だな」
「ははっ、俺も。お前んトコもプールなかった?」
ああ、と月森は頷いた。都会の狭い学校では、ますますもってプールがある高校も限られているだろう。
「毎日あっちぃもんなぁ。プールでもいいから、涼しいことしてーよなぁ……」
陽介が彼にそんな話題を振ったのは、ひとえにその暑さがゆえである。茹だるようなとか、溶けるようなとか、そんな暑さと日差しを毎日のように浴びて、中に着ているティーシャツは汗に濡れて、油断すると首筋にも汗が滲んでくるような季節。制汗剤の匂いは爽やかで嫌いでないけれど、いつもと違う香りは、嫌と言うほどに夏を認識させてくれる。
「暑いな」
涼しい顔で、額に汗一つ滲ませずに友人は呟いた。
(ホントに暑いのか?)
動かない眉毛とクールな灰色の瞳からは、不快さは読み取れない。それとも端正な顔は、暑さにすら苦悶することはないのだろうかと不意に思う。
*
(たしかに、そんな話をした記憶はある)
手首を掴まれて引き摺られるようにしながら、陽介は記憶を思い起こしてみる。それがいつだったかは記憶していないが、たぶん、久保美津雄がテレビの中に入るよりは以前の出来事だったように思う。夏休みになっても事件の捜査で忙しいのかと思えば、諸岡が殺害されて、事件の犯人が見付かって、それを捕まえて。怒涛のように日々は過ぎていった。そう、陽介が言ったら月森は、「シュトゥルム・ウント・ドラング」と耳慣れない言葉を言って、陽介がそれに首を傾げると、何でもないと手を振った。後で辞書で調べてその意味を知ったとき、どうやら彼は冗談を言ったつもりだったのではないかと思ったのだが、冗談にしては難しすぎる。
いずれにしてもそれだから、夏休みは、普通の夏休みだった。事件の捜査からも開放されて、テレビの中に入る必要もない。宿題は大量に出されて面倒だけれど、学校はないし、無事に補習もない。完全無欠のフリーだ。何をすることも出来るけれど、大半は何もせずに終わってしまう。月森に予定を聞いてみたら、全く何もないと言われて少し驚いたことだけ覚えていた。陽介だって、バイト以外にするべきことなんて何もなかったけれど。じゃあ沖奈で映画を見ようとか、海にでも行こうかとか、そういう話はした。
「なんで、プールだよ」
「涼しいだろ?」
「海とかあるだろーが」
「陽介に話を聞いて、行きたいと思ってた」
月森の言葉は、やけに熱っぽく聞こえた。暑いからそう聞こえただけ、なのかも知れない。
(ふたりで?)
呼ぶなら、千枝も雪子も完二もりせもいる。クマは難しいかも知れないが、彼らも皆、八十神高校の生徒だから、通してくれるだろう。どうして盆のこんな時期にとは言われるかも知れないが。だって、二人では、どちらも出身の中学ですらないのだ。
「……ま、どーでもいいか」
「何?」
振り返らずに月森は耳聡く聞き付けて尋ねる。いいや、と笑うと、彼はそのまま足を進めた。見たことのない校舎の前まで陽介を連れて行く。話には出したけれど、実際の場所までは陽介も良く知らなかった。
制服だったので、簡単に校門を抜けられた。来校者欄に月森が二人分の名前をサクサクと記入して、プールの鍵を借り受ける。今日は先客がいないらしかった。水着を用意しているわけでもないので、プールに来たって泳げるわけでもない。そんなことを、とぷりと揺れるプールの水面を目の前にして思った。それでも水の傍は涼やかだ。手で水を掬うと、冷たくて気持ちが良い。月森は、アイスクリームでも持ってくれば良かったな、と言いながら、フェンスの向こう側を見ている。校庭にも誰も人がいない。当然だろう。お盆の期間にまで、活動する部もない。
「水着持ってんの?」
「いや」
「お前って、たまーに電波系だよなぁ……」
行動が突拍子もないと言うか、唐突と言うか、恐らく説明すれば何らかの理由もあるのだろうけれど、それがないから不思議な印象を与える。思えば最初に会ったときからそう。月森は違うのだ。どことは言わないけれど、何となく。初めからまるで親しい人のように「陽介」と呼び、心の中に入り込んできた。その原因の一つとして、自分のシャドウを見られた、ということもあるのだろうけれど、それだけではない。誘われるままにずっと付いてきていた。何をするにも傍にいる。彼は陽介を気にして、見ているのだ。ふとした時にそれを感じる。それは、なんだろうと思う。
「泳ぐの得意?」
「苦手ではないよ」
「そっか。なんか、得意そうな気ぃする」
「水は好きかな」
「へえ。あ、でもなんか、お前って水みたいだよな。掴みどころねぇし」
そうかな、と月森は灰色の目でじっと陽介を見た。
「悪い意味じゃねぇよ」
また、冷たい水に手を浸す。とぷんと、揺れる音がした。背後から太陽の熱と、彼のいる感覚だけを受ける。
「人って、六割くらい水って言うじゃん?」
「人体構成の話? 構成元素は水素が六割、酸素が二割五分、炭素が一割、残りは窒素、リン、硫黄」
「詳しすぎんだろ」
高校生とは思えない知識量にもすっかり慣れている。けれど嫌味にはならないし、彼が学年一位を取っても、ただ素直に賞賛出来た。月森はきっと、賞賛するに値する人なのだと思う。むしろそうされるべきだ、と。
「そういうんじゃなくて、アレだよ。水、ないと生きていけないじゃん」
揺らぐ水面にぼんやりと自分の顔が見えた。陽介、と背後から呼ばれたので立ち上がると、瞬間、いきなり背中に衝撃。
(――えっ?)
ぐらりと身体が傾く。スローモーションで景色が転回するのを見たような気がするが、一瞬の知覚だったのかも知れない。陽介は飛沫を上げてプールに落ちた。まるで林間学校の日のように、突き落とされたのだ、と、頭はすぐに認識してはくれなかった。戸惑ったまま、ゴボゴボと二酸化炭素を吐き出す音が耳に響く。冷たい。
溺れると思った。学校のプールで。足も付くような水深で、本気で、そんなことを危惧した――それくらいに、濡れて水を吸った衣服は重くて、ただ細いばかりの自分の腕は頼りない。目が痛くて前も見えないでいると、腕を掴まれた。あぁ何だ、月森までこんなところにいると、気付いて目を開けると、間近に彼の睫毛が揺れていた。水の中で、とても鮮明に彼の顔が見えるように思えた。綺麗な灰色の瞳が。色素の薄い日本人離れした髪が。そっと近付いてくるので反射のように目を閉じると、大方の予想通り、しかし予想を激しく裏切るように、唇が重なった。
(息、くるし……)
右手の指先がなぞられる。このまま溺れて死ぬかと思えば、急にまた手首を引っ張られた。水面から顔を出して、思い切り噎せる。
「っは……おま、……はー、くる……し……」
水も滴るとは言うが、濡れてもやっぱり顔立ちが綺麗だと決まっている。張り付いた髪もほとんど変わらない表情も、ただひたすらに端正なままなので腹立たしい。こちらは死ぬような思いをしていると言うのに。
「水ん中でするヤツがあるか」
「おぼれたらいいと思って」
「はぁ!?」
眼差しは真剣だった。平生と変わらない灰の色、端から端まで透過していそうな瞳。
「死んだら」
背中がぞくりとした。
困る、と月森はささめく。
死んだら困るのか、それとも困るのは別のことで。
(死んだらいいと思ったのかと)
間違いでもないような気がする。
「水の中なら見えないから」
「そもそも誰も見てねーし」
「太陽しか見ていない?」
「そうそう見てない見てない。見てないから……、変なこと言うな」
時折心配になる。好きだと言ってくれる彼の愛を疑ったことはない。彼の持つ多くの事柄よりも優先してくれていることを知っているし、彼の視線の先に自分がいることも分かっている。出会って数ヶ月で全幅の信頼を陽介が寄せたのと表裏ではないけれど、それと同じような速度で、好きだと言う感情を、おかしいと思っているわけでもない。
(もしかして、溺れたらって言うのは、俺もってことか)
濡れた頭をぽんと撫でると、月森はにこりと笑った。
「つか、どうやって帰んだよ、これ。完全に濡れちまって」
「すぐに乾くよ。今日はこんなに暑いんだから」
「だったらもう、このまま泳ぐっきゃねーな」
「着衣水泳?」
「おうよ。競争しようぜ、相棒。どうせどっちも、んなの慣れてねぇだろ?」
「勝ったらどうする?」
「負けた方がリボンシトロン奢り」
「ホームランバーも追加で」
「っしゃ! 負けらんねぇな」
地に足が着かないような心地がしている。好きだと言われるたびに、空気をそっと奪われていくような。
(水――だしなぁ)
背を向けるとまた腕を引っ張られた。あっと思う間に背中からまた、水の中に落ちていく。落ちていく水の中で、水中まで追い掛けてきた月森が笑っているのが見えた。水は完全に透明ではないし、目はほとんど開けられないし、錯覚だったかも知れない。