言葉の魔法

 夏休みは暇になるな、と月森は言った。
 設備の良い私立高校とは異なり、八十神高校にはクーラーの様な気の利いたものは存在せず、教室の中は暑い。月森は透明な下敷きでパタパタと顔を仰ぎながら、ほんの僅かに眉を下げていた。彼の机の上には白の携帯電話。つい先程まではそれを弄っていたのだが、夏のスケジュールでも見ていたのだろうかと陽介は考える。
「暇ったって、宿題とかもあんだろ」
 おまけに、自称特別捜査隊の活動もまだまだ絶賛継続中だ。月森は交友関係も広いみたいだし、ジュネスオンリーでバイトをする陽介とは違い、色々なバイトを掛け持ちでやっているとも聞いていた。暇だと言う程のことはない様に思われる。
「そうは言うけど、毎日学校に来てたのが、急になくなれば違うだろ」
「お前ってつくづく変わってるよなぁ。夏休みだぞ、夏休み! なんてったって、勉強しなくていいんだぜ?」
 陽介は一般の高校生がそうであるのと同じ様に、夏休みが来るのを心待ちにしていた。夏と言えば色々ある。青い空に青い海、若しくはプール。女子高生の水着には花があること請け合いだし、温暖化の所為か確かに暑いとは思うが、部屋もジュネスにもクーラーが良く利いているので快適だ。外になんて出なくても構わない。
「……こうしてさ、陽介と過ごしていられる期間って、短いんだよ?」
「なに、どしたの、突然」
 感傷? と尋ねると、そんなに大層なものじゃないけど、と月森は首を横に振る。
「来年はここにはいない。夏も楽しいけどさ、毎日教室で顔を合わせられるのって、良いだろ? 今だけの特権っぽい」
「よくわかんねーけど……」
 今はまだ、月森の感じる寂寞感は、陽介には実感出来ない。明日も明後日も月森とは顔を合わせるし、夏休みが終わってもまた、同じことが続くだけだ。月森は、再び、少しだけ眉を下げた。
「……必ず顔を合わせられるって、大人になれば難しいよ」
 月森はブツブツと何事か囁きながら、陽介の机に突っ伏した。その様子を、何となしに眺める。
(とりあえず、暇なんか、コイツも)
 少し考えられないけれど。
「な、月森。暇すんならさ、メールとかしねぇ?」
「良いな、それ」
 素早い動作で月森は顔を上げると、にこりと微笑んだ。動きが俊敏だったので、陽介も驚いた。
「えっとー……、んじゃ、暇な時とか、送っから」
「分かった。待ってるよ」
「って、お前は送んねぇの?」
「陽介が送ってよ」
 ね、とダメ押しする様に言われたので、思わずこっくりと頷いてしまった。

*

(って、どうすりゃいいんだか……)
 夏休みに入って今日で5日目。つい先日、ボイドクエストなる謎のダンジョンで、ドラクエ気分を味わいながら、久保美津雄を捕まえたばかりだ。その後の打ち上げでは、散々なオムライスを食べた。
(あん時にメールすりゃよかったんだよな)
 オレンジの携帯を手に、画面との睨めっこが続いている。あの夜に、酷い目に遭ったな、とか、何てことのない一行メールを送れば良かったのだ。そうすれば、タイミングを逸脱することなく、すんなりとメール交換出来たに違いない。
 マヨナカテレビが映る時は、いつも電話していた所為もあって、どうにもこうにも月森と陽介とは余りメールを交わしていなかったのだ。月森の言う様に、毎日教室で顔を合わせていた時には、態々メールを送る必要性等は微塵もなかった。何かあっても、あぁ明日学校で会うからそれで良いや、と思う。メールは気楽で気軽だけれど、対面する会話に勝るものはない。陽介は月森を特別な友人だと考えているから尚更に、メールでの有り勝ちな会話は要らないと思っていた。
(だからって、電話するってのもちげぇし)
 待ち受け画面のライトが消えた。黒い画面に、眉間に皺を寄せる自分の顔だけが映っている。不格好で笑えてしまったので、陽介は携帯をぱたりと思わず閉じた。馬鹿みたいだ、相当に。
 メールしないかと言ったのは、半分位、気紛れだった。月森が言う様に、対面しなくなる長期休暇のことを考えて、それってもしかして寂しいことなんじゃないか、とは一瞬、思った。思ったけれど、少しして、そういう仲じゃないだろう、と首を横に振った。会話していなければ、とか、会わなければ、とか、そういうのは違う。彼女だったら甲斐甲斐しくメールを送るべきだろうし、毎日だってデートすべきかも知れないが、普遍的な友人関係に於いてのそれは、恐らく異なる筈だ。陽介はまた、うーんと唸る。メールするなんて陽介が気紛れで言ったこと、月森は心得ているだろう。陽介は分かり易いから、と月森は良く笑う。単純で直ぐに顔や言動に出る性質は、自身も承知している。どうせ単純ですよ、と陽介がむくれて言えば、裏表がないのは美点だよ、と月森は更に笑みを深めるのだが。
「美点、ねぇ」
 言葉のチョイスが一々古めかしい様な気がするのは、気の所為だろうか。美しい日本語を使いましょう、なんて、新聞やニュースで見たことがある気はするが、残念ながら、今時都会っ子(自称)の陽介には、ちょっとついていけない。序に言えば、古典の文章にもついていけていない。
『月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老を迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす』
 期末試験の前に、月森から古典を教わった所、張りのある深い声で、奥の細道の冒頭を朗々と音読してくれた。その時に聞いた彼の喋る文章は流麗で、成程綺麗な言葉とは正に、と思ったのだが、教科書で見ると、ただの記号の羅列に見えてくるので、実に残念な限りである。ちなみに、件の期末試験では赤点ギリギリの成績だった為、陽介が本気で家をエスケープしようかと検討したところ、親友は気前良く、帰りたくないなら家に来なよ、と言ってくれた。流石に、遼太郎や菜々子に迷惑が掛かるから遠慮したが、学年首席として実力も備わっている月森には、一度みっちりと教わった方が良いかも知れない。あの声は記憶に残る声なのだ。
「声か……」
 やっぱり電話だろうかと思わずリダイヤルしそうになって、今はメールの問題なのだ、と首を横に振る。電話したいからした、と言うのも、悪いことではないのだが、根本解決にならないというか、意味がないのである。そもそも、メールしようと陽介が話したことが主題なのだ。
(とりあえず、文面だけ考えてみるか)
 考え付かなければ、送ることはそもそも出来ない。陽介はベッドに寝転がって天井を見詰めながら、友人に送るべき言葉を考えてみた。
(夏休みだからバイト入れって言われて、今日はこき使われてきたから疲れた)
「……って、わざわざメールで愚痴言っても仕方ねぇか」
(また勉強教えてくれよ)
 甘え過ぎだと完二に言われたことを思い出す。
(お前、夏休みホントに暇なの?)
 実は密かに彼女とかいて、頻繁に会ってたりして。
(今、なにしてんの?)
 ボランティアでやっているという、折り鶴とかを折っていそうだ。
「……ウザイ彼女みたいになってんじゃねーか……」
 駄目だこりゃ、と思って陽介は横を向いた。今まで、友人にはどんなメールを送っていただろうか。思い出そうにも思い出せない。下らないことをメールしていた気だけはする。考えるのに疲れてきたので、陽介は携帯をぽいと枕元に投げ捨てた。面倒臭い。と言うか、上述の通り、疲れているので眠い。
『陽介が送ってよ』
 耳の奥で、彼の言葉が響いている様な気がした。陽介はむくりと起き上がる。
 言霊について、以前に月森は話していた。言葉には力がある。大切な言葉は口にすべきだし、そうしなければならないのだ、と。陽介も、この春にそれを痛感していた。仮令、望みの薄い恋だったとしても、言えば良かったのだ。先輩が好きです――と。言えずに言葉は宙に浮いた。もう見えない。永遠に伝わることもないのだ。言葉に力があるということを知っている月森は、だから、陽介にそう言ったのだろう。そう考えると、無碍には出来ない。陽介はまた携帯を掴んだ。
(まぁ、ちょっと愚痴るくらいならいいよな)
 序に夏休みの宿題を一緒にやろうとか、そう言って誘ってみれば良いのだ。多分、疎まれはしない筈だろう。
「今日はバイト入れられて疲れた。っと……この調子だと、宿題心配なんだけど、一緒にやんねぇ? ――よし、こんな感じか」
 ふぅ、と一息吐いた陽介は、額を流れた汗を手の甲で拭った。いつの間にか部屋の温度が上昇してきている気がしたので、起き上がって、壁に据え付けてあるエアコンのリモコンに手を伸ばした。28度以下にはするな、とテレビでは言うけれど、暑いのでは致し方がないだろう。設定温度を2度程、下げてしまった。
「……いつもならシフト入ってないのに、って入れた方が分かりやすいか?」
 文面を見ながら首を捻る。やっぱり送るのを止めようかとも思う。人付き合いはこんなに面倒なことだっただろうかと考えて、けれどそれが、嫌だという訳でもないことに気付く。悩むのも青春の内かも知れない。あはは、と陽介は一人で笑った。彼と出会ってからきっと、こうやって、青春の頁は何枚も何枚も重ねられている。
 目を瞑って、指先だけで探り、送信ボタンを押した。押してみて、返事が来なかったらどうしようかと思う。ここまで来たら、電話ででも催促するしかない。疲れているから、寝てしまおうか。そんなことを思って、画面を見ないで携帯を閉じて机に置いた。部屋の電気を一つずつ落としていく。最後に残った常夜灯のベージュの色だけが、柔らかく室内を染め上げた。目を瞑ると、カチカチと時計の音だけが響いて聞こえる。とくんと鼓動の音も聞こえた。数分経った頃、静かな部屋に、着信音がぴりぴりと響いた。陽介は目を開けて、手探りの状態で机上に手を伸ばす。着信を知らせるランプが断続的に光っている。携帯を開くと、暗さに慣れた目には、画面が些か眩しかった。直ぐに、新着のメールを確認。
『お疲れ様。忙しいようだったら、俺も手伝うよ。宿題の件も了解。明日とか空いてる? もしかして、もう寝た? ……メール、ありがとう』
 殆ど息つく暇もなく、陽介は返信ボタンを押した。酷く声が聞きたいと思ったが、そうではないと戒める。時間的にも、電話は遠慮した方が良いだろう。
(ありがとう、とか、こっちこそ)
 話したいことはやっぱりメールの文面には収まり切らない。『明日なら空いてる。うち来る?』とだけ打って、そのまま返信した。また着信音が静かな部屋に響くまで、今度はどの位だろうか。

つくづく可愛い話書くの向いてないですね。

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