初恋は実らないと言う。
「菜々子、また振ったの?」
「……振ったのって言われても。人聞き悪いよ」
卒業式シーズンの八十神高校では、告白ラッシュ真っ盛りだった。菜々子も例に漏れず、そのターゲットにされている、というだけだ。見知らぬ男の人が、丸で昔から見ていたかの様な視線でこちらを見詰めるので、息が詰まる。菜々子は、人見知り気味なのだ。
「だって、もう10人でしょ?」
(兄さんだって、それ位はモテていたと思うし)
血縁上の兄ではない。親族関係的に言えば、確か、従兄弟に当たる人だ。けれど菜々子は、月森柚樹のことを兄だと認識している。銀糸の綺麗な、端正な顔の青年。
「まぁ、菜々子んトコは、あの人がいるもんなぁ……ほら、あの弁護士の」
「兄さんのこと?」
月森は弁護士業を営んでいる。詳しい動機は知らないが、八十稲羽で昔起こった、菜々子も被害者として関わった事件に因縁があってのことらしい。詳しいことは、余り話したがらないのだ。多くを語らない。けれど、昔から菜々子には優しかった。
「前に学校に来た時にさ、超カッコ良かったからさぁ。あれじゃ、菜々子ハードル高いよね」
そんな風に言われても、肩を竦めるしかない。以前に、菜々子が同級生の男に付き纏われたことがあって、月森が学校まで様子を見に来てくれたのだ。少し恥ずかしかったが、怖かったこともあり、助かったという感情の方が強い。
「お姫様を守るナイトみたいな? きゃーっ! ってか、菜々子、やっぱりあの人が好きなの? 確か、本当のお兄さんじゃないんでしょ?」
「従兄弟だよ。4親等だから、確かに結婚は出来るけど」
兄の受け売りの知識を披露する。彼は頭が良かった。菜々子も並べる様にと勉強しているが、丸で生き字引の様な知識には太刀打ち出来ない。
(それは、花村さんも言ってたっけ)
くす、と笑う。アイツの知識は、コンピュータレベルだから、と。
「だって、独身なんでしょ?」
「結婚はしてない」
「玉の輿じゃん! いいなぁ、菜々子」
菜々子は、はぁと溜息を吐く。良い等と軽く言われても、ちっとも嬉しくなかった。理由は幾つかある。
まず一つ目に、菜々子は兄に対して恋愛感情を抱いていない。歳の差が10程あるが、それが問題なのではなく、兄は兄なのである。菜々子は兄が好きだが、これはブラザーコンプレックスと言うべきもので、兄の恋人になりたい等とは思ったこともない。逆もまた然り。
二つ目に、兄には恋人がいる。結婚していないとは言ったが、想い人がいないとは、菜々子は一言も言っていない。しかも兄とその恋人とは10年来の愛を育んでおり、現在でも兄は恋人にベタ惚れなのである。
そして。
「もう、帰るね」
菜々子は席を立った。10年前に月森らが勉学に励んでいたという教室に、菜々子は今いるのだ。
「バイトあるから」
「またジュネス?」
「うん。私、ジュネス好きなんだ」
「……着メロまでジュネスだもんね」
流石に苦笑いされてしまった。
「あれは、特別」
じゃあね、と菜々子は手を振った。肩よりも長い、切り揃った黒髪が風に揺れる。
「今日は花村さん、シフトだったよね」
携帯電話を握り締めた。
「あ、菜々子ちゃん。学校お疲れ」
ジュネスの従業員室に入ると、既に先客がいた。
「こんばんは、花村さん」
ペコンと頭を下げると、ハニーブラウンの髪の青年は、にこっと笑った。ジュネスの赤と白のエプロンが細い身体に引っ付いている様に映る。
「今日シフトだったっけ?」
シフト表を見ながら、陽介は頭を掻いた。彼が自分と同じ高校生の頃は気付かなかったが、どうやら少し、童顔らしい。未だにジャニーズばりの可愛い顔立ちをしている。そう言うと、きっと陽介は心外な顔をするのだろうな、と思う。月森なら、成熟した青年らしい格好良さが滲んでいるのだ、と言うのだ。惚気だろうかと思うが、兄のことを褒められるのも素直に嬉しいので、今の所は菜々子も頷いている。
「あ、代わったんです」
手提げ鞄をロッカーに入れる。代わりに、Tシャツとジーンズを中から取り出した。
「菜々子ちゃん、昨日も一昨日もいたよな? 疲れてない? テスト終わったんだっけ?」
「はい。無事に終わったので、もう終業式を待つだけです」
「菜々子ちゃんの頭なら、テストは心配はしてないんだけど。なんか、俺が入ってる時にいつも見掛けるからさ、もしかして、誰かに押し付けられたりとか、してない?」
「ありませんよ。でも、花村さんの勘、正しいです」
「どゆこと?」
「私が、積極的に代わっているんです。花村さんのいる時に」
陽介はきょとんとした。
「花村さんと過ごしたかったんです。だって、花村さんは私の初恋の人なんですから」
「へ? はつ、こい?」
「実らないって、本当なんですよね」
口をぱくぱくとさせている陽介を尻目に、菜々子は更衣室へと向かう。良くない理由、その三。兄の恋人が、菜々子の初恋の人で、その恋が実ることは決してないから。
「私、花村さんがずっと、好きだったんです」
部屋に戻ると陽介がソファで体操座りをしていた。電気は点いていたが、どこか虚空を見詰める様子は普通ではない。
「どうかしたの、陽介」
「へっ? あ、お帰り、柚樹。ワリ、ボーッとしてた」
熱でもあるのだろうかと思って額に手を当ててみたが、特に異常はない様だった。なんでもねぇよ、と陽介は手を引き離す。
「食事なら出来てるから、食おうぜ」
そのまま立ち上がろうとする細い手首を掴んだ。
「……何かあったんだろ、陽介」
「なにかって、なにが」
「挙動不審。俺を騙せると思ってるんだ? 陽介は相変わらず甘いなぁ」
にこにこと笑顔で言うと、陽介はうっと詰まった。彼が自分の笑顔に弱いことを、月森は良く良く知っている。
「今日の夕御飯はカレー? ぼーっと考え事をしていても大丈夫な料理にする辺りは、進歩だと思う。ほら、俺に隠し事なんてどうせ無理な癖に。言った方が楽だよ」
ダメ押しでチュッと口付けた。
「またお尻でもぶつけた? あ、まさか変な客にナンパされたとか? 大丈夫だって、俺、昔より寛容力更に上がってるから、半殺し程度で済ませられるし」
「半殺しとか言うな。コエーよ……」
陽介はガクリと項垂れた。そのまま月森の胸に身体を預けたので、腕を回して抱き留めてあげる。
「どっちかってーと……俺の方が心配?」
「えっ……ま、まさか、浮気? それは、御免……俺」
「謝んな。コエーんだって」
「心中ルートしか選択肢が」
思わず腕の力を強くすると、陽介が叫んだ。
「だからコエーんだって! ちげぇよ! バカ、誰が浮気とかするか」
「だって、俺が陽介を怒るなんて、それ位しか」
浮気しない宣言はかれこれ数十回位は聞いている気がするが、何度聞いても心が温かくなる。月森にとって陽介しかいない様に、陽介にとっても自分しかいなければ良い。いつまでも、そうあって欲しい。
「菜々子ちゃん」
しかし陽介の口から出た単語は、意外なものだった。
「菜々子がどうしたの?」
愛しの妹の成長して尚も可憐な姿を頭に思い浮かべながら、月森は少し警戒を解いて尋ねた。初めて菜々子と会った年齢と同じにまで成長した菜々子は、もう女子高生だ。いけ好かない野郎が近付くならば、ぶっ飛ばしてやるより前に、思いっ切り好青年ヅラして菜々子と腕でも組んでやろうと思っている。大抵はそれで裸足で逃げていくから安心だ。
「……ら、れた」
「何? 何があったって?」
「菜々子ちゃんに、告られた」
「へぇ、菜々子に……ってえぇぇ!?」
「や、正確には、告られたってか、初恋の人だとか言われた……? おーい、柚樹、大丈夫か?」
システムがダウンしてしまった。再起動まで時間が掛かる。月森は頭の片隅でそんなことを考えながら、情報処理を懸命に行なっていた。何てことはない。クライアントの事案解決に向けての情報の方が少ないほぼ世間話を普段からいつも捌いているのだ。たった数行の言葉で脳がショートする様な造りにはなっていない。
「御免、陽介。処理落ち」
「おーおー、回復するまで待ってっから。俺もそうだったし」
菜々子が陽介を好きだと言う。
(俺は陽介が好きで、俺は菜々子が大切なんだけど)
菜々子は月森に恋をしない。逆も然り。これは理だ。何故なら彼女と月森は、本当の兄と妹ではないが故に、そう在りたいと強く望んでいたから。血が繋がらなくとも確かな絆が生まれるのだと、叔父である堂島遼太郎についても同じ。
(叔父さんが、再婚して)
あれは5年程前の話だっただろうか。
(いつから? 初恋?)
真犯人には、司法の裁きを下すことが困難だと知って、それならばと司法の道を進むことを決意した。菜々子や遼太郎を傷付けたことは許せなかったし、何人もの被害者を出してのうのうと暮らすなんて、許せなかった。陽介はそれを応援してくれたし、気付いたら司法試験に合格して、弁護士になっていた。裁判官にとも誘われたけれど、蹴って。その頃に、あの男はもう死んでいた。裁きを下す必要は、なくなっていたのだ。
思考が取り留めない。自分ではなく、菜々子のことだ。
堂島の叔父は、再婚することを躊躇っていた。当然それは、菜々子のことがあってだ。菜々子のことが気になって、月森自身も相手の女性とも接触してみたが、叔父が愛したというだけあって、気立ての良い人だった。菜々子のことも、我が子の様に愛してくれる、そんな人。菜々子は何も言わなかった。良かったね、お父さん、と。たったそれだけ。
『大丈夫だよ、あのね、陽介お兄ちゃんが、遊びに来てくれるの!』
電話越しに聞いた、少女の喜色を湛えた声。
「女の子って、年上に弱いって言うよね」
「あーまぁ、らしいな」
月森が八十稲羽を離れて、再び父と子二人になった堂島家を案じてくれたのは、陽介だった。赤の他人でも、お節介でも、と一人留守番をする菜々子の元に、良く、クマを連れて遊びに来てくれたらしい。陽介は何かをしてあげたという偽善的な感情もなくて、本人からよりも菜々子の口から、良く話を聞いていた。菜々子を介しても陽介の近況が知れることは嬉しかったし、微笑ましいと思っていた。自分の愛した者達が、仲睦まじくしているのだという状況を。
「……距離って大きいね」
菜々子に愛されたいと思っているのではない。彼女が好いたのが陽介だと言うならば、見る目があると言うだろう。自分がいなければ、陽介にも菜々子を勧めただろう。歳の差なんて、と。
「難しく考え過ぎて、ちょっと駄目かも」
「だから、お前に言いたくなかったんだって……疲れてんだろ」
陽介が背を撫でた。
「御免。俺、陽介を手放せない」
「いや、なんかお前、考え過ぎてんだろ、ホント。まさか、俺が菜々子ちゃんと――とか考えてねぇだろうな? ありえねぇぞ! 菜々子ちゃんは、俺にとっても妹だ! 恋人とか、ぜってぇない!」
「生足魅惑の女子高生……」
「わー、ヤメロ!」
陽介いなかったら主菜々の歳の差萌えだったろうなぁと思っていたら、
菜々子ちゃんの好きな人は陽介にチェンジしてました不思議。10年後も天使!