fall into this smell

「里中、枝毛」
 背後から声が掛けられたと思うと、陽介がじっと千枝の髪先を見ている。ぎょっとして慌てて蹴りを入れようとすると、ささっと躱された。身のこなしだけは良いのだが、花村陽介である。
「アンタね……いきなり近付いてきて、なにしてんのよ! 変態!」
 触られたということもないが、ジロジロと見られたのでは気味が悪い。咄嗟に叫ぶと、陽介は眉を顰めた。
「髪見てただけだろーが! 誰が変態だ! つか、すぐに足出すんじゃねーよ!」
「うるさーい!」
「ってか里中、お前、髪、ちゃんと手入れしてんのか?」
 腕組みをした陽介は、はぁと溜息を吐いた。行成言われた言葉に、千枝はきょとんとして、今直ぐにでも蹴り出そうとした足が止まる。
「パサパサって程じゃねぇけど、毛先、すげー荒れてんぞ」
「う、……な、なんでそんなこと」
 触るから蹴るなよ、と前置きがあって、陽介は千枝の髪に触れた。いつもガサツだとばかり思っていた指先は、異様なまでに優しくて、ゆっくりと、息を詰めて、陽介は千枝の栗色の髪を触る。顔が近付いてドギマギする。触るなとか言って跳ね除けることも出来たのかも知れないが、声が出てこなかった。ひえ、と震えそうになる身体を抑えつけて、瞳を閉じる。
「やっぱな。里中、枝毛が多いっつーことは、栄養足りてないんじゃねぇの?」
「ど、どこのよ」
「どこって、髪に決まってんだろ」
 まぁそこも発育足りてねぇみたいだけど、と胸を指さされたので、今度こそセクハラだと右足を蹴り出した。見事にクリーンヒットして、陽介の身体が廊下の壁に激突する。
「おま……手加減しろ……テレビで鍛えた脚力、学校で活かすんじゃねーよ!」
「うるさいうるさいうるさーい!」
 こんな男に一瞬でもドキリとした自分が許せない。千枝が叫ぶと、分かったから落ち着け、と、リーダーの口癖の様なことを陽介は口にした。
「トリートメントとか、ちゃんとしてんの?」
「……コンディショナーは使ってるけど」
 ジュネスで買った、コマーシャルをしているシャンプーとコンディショナーの特売セットを使っている。どれが良いとかブランドを決めてはいないが、良く使っていると言えば良く使っている、オレンジのボトルだ。
「ちゃんとカラーヘア用の使ってっか? それと、トリートメントかヘアマスクは週一で使った方がいいぜ」
 トリートメントやヘアマスクは、高いから買っていない。家にも置いていなかった。
「それと、ドライヤーでちゃんと乾かして寝ろ。あ、ドライヤーする前は、オイル系のトリートメントつけといた方が――」
「アンタ、キモイ」
「うわひっで!」
 陽介は大袈裟に飛び上がった。
「俺は、里中の為を思って言ってんのに!」
「そういうのやってるわけ?」
 横ハネのハニーブラウンの髪に徐に触れると、「里中のエッチ!」と意味不明なことを言われた。無視して髪を光に透かして見ると、自分と同じく染めているとは思えない位に、艶がある。ワックスで固めているので、指通りは分からないが、綺麗な髪をしている。毛先も細くなっていない。整髪料の匂いは嫌味ではなく、爽やかイケメン等と言われているのに似合った、清涼感のある香りがする。
(花村らしい、匂い……)
「……悔しいけど、アンタの髪、綺麗だわ」
「だろ? ちゃんと手入れすりゃ、里中の髪だって……」
 誇らしげなのが、何となく癪に障った。思わず腹に膝蹴りを入れると、不意を衝かれた陽介が呻く。
「とにかく……トリートメントくらい……しとけよ……」
 無理に搾り出された言葉を無視して、千枝は背を向けた。
「うるさいなぁ。アタシの髪なんだから、どうなったっていいでしょ」
 そんな物を買うお金があるのなら、肉丼の一杯でも食べたい。お洒落に関心がないとは言わないが、スペシャルケアまで考えていては、お金が持たない。学生は貧乏なのだ。だったら、染めるのを止めれば良いかとも思う。
(でもそれじゃ、雪子と同じだし)
 雪子は旅館を継ぐことを意識しているので、服装や佇まい、身嗜みを整えている。女の子同士だし、シャンプーの話位はしたこともあるのだ。けれど、彼女は取り寄せた物しか使ったことがないと言った。ジュネスか若しくはドラッグストアで安価な物を購入する千枝とは違う。だから、あれだけ指通りの良い、サラサラとした、艶のある黒髪のロングヘアーが維持出来るのだ。羨ましい。やっぱり、雪子は女子として、羨ましかった。そんな彼女と同じ黒髪にしても、惨めなだけだろう。
「よくねぇよ。あのな、里中の髪は、結構、綺麗だと思ってんだぜ?」
「へ?」
 驚いて振り向くと、陽介は肩を上げていた。
「だから、毛先が荒れてんの見ると、もったいないんだっての」
「な、によ……それ」
 不意打ちだ。思わず心臓が音を立てた。陽介は、こういう時ばかり女の子みたいに扱って、こういう時だけ褒める。
(なんで、欲しい言葉くれんのよ――)
 雪子には敵わない髪。そんな卑屈な心を、たった一言で打ち破ってくれる。
「ではお客様、ジュネスには、ヘアケア製品も大量にご用意がございます。価格帯や用途に応じて充実しておりますし、お客様のお好みの商品が見付けられると思いますが?」
 陽介は態とらしく恭しいお辞儀をして、片目を瞑った。
「っばっかじゃないの! このジュネス!」
「って、どんな罵倒語だよ! ジュネスdisんな! っとまぁ、ともかく、だ。どうせ里中じゃわかんねーだろうから、見に行こうぜ。高けりゃいいってもんじゃねぇから、安心しろよな」
「……行く」
 乗せられた様で癪だったが、そうまで言われては無視出来ない。千枝が小さく頷くと、陽介はぱっと明るい笑顔を見せた。そうと決まれば早速、と歩き始めるのを、何も言えずに付いていく。
「ねぇ、なんでそんなこと、詳しいワケ? ……ちょっとキモイ」
「ん? あぁ……小西先輩がさ、染めてるなら髪の手入れはちゃんとした方がいいって」
 その名前を聞いて、背が小さく跳ねた。
「あの人も、パーマ掛けてたからさ、そういうの敏感だったみたい。『花ちゃん、面倒だから、ドライヤーとかしないで寝ちゃうでしょ? そういうの、良くないよ』って」
「律儀に守ってんだ」
 声が少しだけ震えた。陽介の心の中には、いつまでも、彼女が映っている。死んでしまった人はずっと心に留めておけるのはきっと、優しさだと思う。死んだから、と忘れられてしまうのでは淋しいし、いつまでも覚えていてくれるのならば、二度目の死はないとも聞いたことはあった。
(ばかみたい)
 忘れられない陽介が、ではなくて、自分自身が。
「まーな。それどころか、ジュネスの売上の為にも、結構いろんなヤツに声かけてんだぜ。お陰で、ジュネスのシャンプーコーナー、超充実! みたいな?」
「……あっそ」
 きっと、同じ様な言葉は、何人もの女の子に掛けているのだ。髪が綺麗なのに勿体ない、とか。陽介にとってはその程度のことで、他意はない。以前からずっと、陽介は千枝を女子だと思ってくれても、そういう意識しかない。
「な、里中、最近新しく出たヤツで、すっげーいい匂いのシャンプーがあんだよ。それ、使ってみろって。思わずドキッとしちゃう、恋の香り! とか書いてあったぜ。すれ違った時にふわっとああいうのが香るのがいいんだよなー」
「高い?」
「んー、肉丼3杯分くらい?」
「……考えとく」
「ははっ、それつけてたら、俺もドキーッとしちゃうかもしれねーな!」
 それは絶対嘘だと思ったが、それなら、陽介の言うシャンプーを買っても良いかも知れないと思った。ドキッとすれば良いのだ。乗せられて、恋に落ちろ。その先で、ガッカリな王子に飛び蹴りを食らわしてやりたいと思った。

こないだ読んだ花千枝の千枝凾セったのでもう千枝花でもいいかなって思いました。

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