Effect of fog

 美術展のチケットがあるから一緒に行かないか、と月森に誘われた。そういうのは、女の子でも誘ってやった方が良いのではないかと返したのだが、その気もないのにデートする風に誘うのは問題だろうと逆に窘められてしまった。確かに、女の子ならば期待してしまうという危惧があるのに対し、陽介が相手なら気兼ねもいらないだろう。美術だの絵画だのには疎い方であるが、横で薀蓄を流されたとて疎ましいと思うでもない。逆に、豊かな知識と流暢な喋りを聞いていられるのは楽しいのではないかとすら思った。日曜日はバイトもないし、普段から遊ぶ相手に事欠かないということもない。ついでに沖奈で店に寄ったりも出来るので、悪い提案ではなかった。そういった積極的とも言えない理由で、陽介は彼の言葉に首肯したのだが、月森の方はと言えば、よしっとガッツポーズまで決めていたので、そんなに相手が見付からなかったのだろうかと首を傾げたものである。
 稲羽市には映画館がないのみならず、美術館や水族館に動物園といった、凡そ娯楽的な施設はない。それゆえ、ジュネスですら重宝されるのであるが、沖奈市まで出ればそこそこ施設は揃っていた。と言っても、都会にいた頃に陽介が知っていた上野の西洋美術館のような規模の美術館ではない。こじんまりとして、常設展もなく、稀にヨーロッパ辺りの美術館からの借り物が展示されているという程度だった。そのことすら、美術館に辿り着いて知ったに過ぎないのだが。チケットはある、と言っていた通り、チケット売り場を素通りすると、月森は、『高校生』と書かれたチケットを陽介に手渡した。下の部分が切り取り線になっていて、そこに区分を示す文字が書かれているという、ごく一般的な入場チケットである。
「叔父さんが貰ってきたんだけど、菜々子はさすがに興味ないだろうし」
「……ふうん」
 上部には観覧出来る絵が載せられていた。紅い色が印象的な絵ではあるが、モダンアートの類なのか、緻密に描かれた作品であるというよりむしろ、幼子の悪戯書きの方が近いような絵。例えばパブロ・ピカソの偉大性が分からないのと同等に、絵の価値というものはやはり詳しくないのである。中も同じ絵ばかりだったらどうしようかと思ったが、時代によって区分があるらしく、最初はルネッサンス時代だとかそういう文字が、展示室に入ってすぐの壁に書かれていた。ここから、現代に向かっていくのだろう。音声ガイドの貸し出しを見掛けたが、月森はいらないというので、陽介も特別に借りたりしなかった。
「陽介、好きに見てて良いよ」
 最初の絵の前で立ち止まると、右肩を叩いて月森が耳元で囁いた。私語厳禁でもなかろうが、煩くするのはマナー違反だ。展示室には日曜日であるにも拘わらず人が少なく、静謐な状況にあるから尚更そう思う。
「あーうん……さらっと見て」
 月森はじっくり見ていくのだろうかと思って、叩かれた肩の方を見ると、そこに彼の姿はなくなっていた。
「……へ?」
 順路は最初の絵の左の方へと続いている。先に進んだのかと思って左を見ると、歩いている月森の姿が見えた。
「ちょ、オイ、待てよ」
 左右の絵に視線を向けながら、月森は順路通りに歩いて行く。速い。
(絵画鑑賞ってレベルじゃねぇだろ!)
 すたすたすたすたと、散歩しているみたいな速さで月森は進む。陽介も左右の絵に目を向けてはみたが、ほとんど脳に入って来なかった。時代区分が二番目に入り、マリア様だとかキリストだとか、そういう宗教絵画的なものが(肌色がやたらと多いことは目に付く)多かったように思われた絵画から、やや印象の暗い絵が増えてきた。
「おい、月森!」
 その丁度真中くらいで、ようやく手を掴むことが出来た。月森は振り返ると、不思議そうに瞬きをする。
「好きに見てて良いって」
「あのな、二人で来てなんで別行動すんだよ」
「だって俺の見方、人と見るには向いてないよ」
「はぁ?」
「ついてくる?」
 月森はほんの少しだけ、唇の端を上げた。周りの絵画は一瞬で背景に変わり、端麗な顔だけが現実的に見える。時々、授業中にも黒板と教師だけに焦点が合い、周りがぼんやりとする感覚があるのだが、そういうものにも似ていた。
「……付いてく」
「じゃあ、行こうか」
 手首を軽く解いたと思えば、反対に月森は陽介の手首を掴んだ。スポットライトが絵画に向かうように暗くなった展示室で、手首を掴むくらいのことは奇異にも見られないかも知れない。月森はまた歩き出す。普通の人なら、驚いて止めてしまうようなスピードで。
 風景画が増えたように思っていると、三つ目の時代区分に移った。宗教的な色は相当、鳴りを潜め、風景や静物が増えている。
(全体を見る――って感じか?)
 一つ一つの絵を見ても、本当は分からない。立ち止まってじっと見ている人を見ても、陽介には分からないのだ。一般的な男子高校生に絵画の知識を求められても困る。月森ならと思ったけれど、彼も詳しくないのだろうか。言葉がないので、何も分からない。
「印象派ってなに?」
「絵画運動の意味だったり、印象主義の画家の総称だったりする。分かり易く言えば、今までの宗教画は写真のように緻密だっただろ? その緻密な絵から、もっとイメージと色彩に重きを置いた描き方になった――と、俺は感じてるけど」
「ピカソみたいなの?」
「それはキュビスムだからまた別だよ」
「……月森の知識が豊富なことだけわかったわ」
 絵を見る見ないに拘わらず、知っていることは知っているらしい。
「あーこの、ぼんやりした絵みたいな?」
「細密ではないが、イメージとしては分かるだろ?」
 うん、と陽介は頷いた。
「きれいな絵だな」
「それで良いと思う」
 月森は軽く笑ったが足を止めることはなく、更に歩く。陽介が指差した絵を左に見ながら角を曲がったところで、月森は足を止めた。
「あった」
 手を離した彼の目の前には、一つの絵が飾られている。
「――霧のウォータールー橋」
 イメージだ、と先に月森が言った通りの絵だった。ひどく曖昧で、ぼんやりとしている。絵はパープルで全体を覆われていて、絵よりも右端のサインらしきものの方がくっきりと描かれているかのように見えた。
「橋と、船……?」
 近付いてみようとすると、腕を掴まれた。
「近付いてもはっきりとは見えないよ。遠くからの方が分かる」
「……よく、見えねぇんだけど」
「霧だから」
 あぁなるほど、と思った。
(見えないんだ)
 輪郭はぼやけていて、本当は何が描かれているのかということも分からない。ただ、色彩の美しさと、イメージだけを頭に刻んでいく。見入っていると、横から視線を感じたので見ると、月森が眉を少し下げていた。
「もしかして、気分悪かった? 霧のっていうイメージだから、嫌かとも思ったんだけど」
「んにゃ。キレーな絵だなって思って」
 吸い込まれて、霧の中に飛び込んでいきそうだと思った。本当は何があるか分からない、テレビの中みたいな世界に。絵の霧も、眼鏡で晴らせたらおもしろいだろうなと少しだけ思う。
「見たかったのってこれだったのか?」
「モネの絵が好きで」
 灰色の視線がまっすぐに、淡色の紫色を見ている。
「美術展とかであるって聞くと、必ず観に行ってるんだ。これは初めて見た。本でもあまり見掛けない」
「これだけが目当てってこと?」
「だから、俺の見方は人と見るには向いてないんだって」
 また月森の眉の角度が下がった。他の絵も一応見ているよ、と月森は軽く首を振った。
「他に気に入りの絵があるかも知れないからね。死の天使は好きだったし。でも、これを見るとやっぱり他は違うなって思うんだよ」
「芸術家気質だなー……」
「絵には明るくない。審美眼もない」
「審美眼て。普通ねぇだろ」
「だから芸術家でもないんだって話」
 月森のまなこは、ただじっと絵を見ていた。
「好悪の問題だ」
「ふーん」
「審美眼は陽介にこそある気がしてる」
「俺に!?」
 響かないように月森は笑った。そしてふと顔を背けると、行こうか、と呟く。
「戻って見る?」
「いいよ。これ見ただけでも十分って気ぃしたから」
 彼が好きだというその絵は、陽介も綺麗だと思えた。綺麗な絵を見たことも、価値観が共有出来たということも、どこか――彼の心の中を見たような感覚も、どれにも満足している。
「付き合わせて悪かった」
「ははっ、別に悪くはねぇよ」
 じっくりと絵画を見ているよりも退屈しなかったし、何となく、時代と共に絵の感じが異なってくるということも掴めた。
「マイペースだ、って良く言われるから」
「付き合いにくいって?」
 こくりと月森は頷いた。そうして歩き始める。4番目の区分こそが現代美術、ポストモダンであるらしく、ピカソの絵だろうなと思って見た絵がやっぱりピカソだったりしたが、やはり陽介にはその良さはまだ分かりそうにもない。月森もやっぱり素通りしていく。
「俺はそういうの気になんないけど。つか、お前といるとおもしれぇし」
「それは……良かった」
 前を行く彼の顔は見えないけれど、声だけで笑っているような感じがあった。
「俺も、陽介といられるのが嬉しいよ」
「マジ? サンキュな、相棒!」
 月森は喜怒哀楽が激しい方ではないので、楽しいとか嬉しいとか、そう思っているかどうか分かりにくい。声を掛けてくれることが多いから、嫌われていないだろうという消極的な肯定はあったけれども、はっきりと言葉に出して言われると嬉しいし安心する。来て良かったなと思っていると、展示室の出口に到着した。薄暗いライトが一変して、白い壁紙には煌々と明るく白色蛍光灯が輝いている。展示室はそのまま、ミュージアムショップに繋がっていた。
「ちょっと買ってくるから、待ってて」
 そう言われて、あまり混雑しているでもないキーホルダーだの栞だのを少しだけ見て、ふと振り向くと、複製画が大量に置いてあった。値段も相当なものだ。
(誰が買うんだ、こういうの)
 ぱっと全体を見てみたが、どうしても先ほど見た絵に目が行ってしまう。明るい色彩も目立っているので、尚更に目に付くのだ。
(霧の、中)
 英語では『Effect of fog』と書かれている。
「ウォータールーはドイツ読みでワーテルロー。ワーテルローの戦いは覚えてる?」
「うっわ! いきなり出てきてなに言い出した」
 月森は陽介の頭を叩いた紙を手渡した。
「記念にポストカード、どうぞ」
「うお、なんかワリィな……」
 ポストカードの絵はやっぱり、霧のウォータールー橋だ。
「聞いたことはある、と思う」
「家に帰ったら復習だな」
 目的は果たしたらしく、月森はミュージアムショップの出口に向かう。これで、完全に展覧会は終わりだ。月森が手にしているビニールの大きな袋には、飾られていた絵の総覧が入っているようだった。入場料よりも高そうな分厚い本。
 展示室を出ても館内は涼しい。けれど、外の日差しは容赦なく地面に浴びせられていて、雲の少ない青空は、遠目で見ていても暑さを感じてしまう。
「冷たいモンでも食いたくなるなー……」
「アイスならそこで売ってるんじゃないか?」
 ちまっとした簡素な売店が、月森の指差したところにあった。飲み物や軽食、それからどこでも売ってるアイスクリームくらいならば置いてありそうだ。その売店の前を見れば、黒いソファー椅子が休憩用に設えてある。館内と言っても、飲食禁止されるような場所ではない。お前も食うか、と尋ねたが、月森はふるりと首を横に振り、座って待ってる、と椅子に向かって歩き出す。そう言われては逆に買わない方がおかしいだろうかと、とりあえず陽介は売店に足を向けた。量が多めのバニラアイスクリームを選んで、それと、喉が渇いたので後光ティーを一緒にレジに出した。
 ぱたぱたと走って月森の元に戻ると、彼は先ほど買った入場料より高い本を開いていた。ページはやっぱり同じ絵。
「アイス半分食う? 大きいのにしといたけど」
 昼食はまだなので、今食べ過ぎると困るだろう。月森はこっくりと頷いた。陽介は蓋を開けて、小さな木ベラでアイスクリームを掬って口に放り込む。
「中学の時の美術の資料でモネの睡蓮を見て、それからずっと気に入ってるんだ」
「睡蓮……なんか聞いたことある気がすっけど」
 見るのに夢中そうな月森の口に、食べられそうな大きさで掬ったアイスクリームを乗せた木ベラを近付けると、ぱかっと口が開いた。
「いつかパリに観に行きたい」
「パリかー、いいなー」
「陽介も一緒に行かない?」
「また好きな絵だけ見るの?」
「そう。陽介なら付き合ってくれるかなって」
「いいぜ。どこまでも付き合ってやるよ、相棒」
 ウインクすると、こちらを見ていた月森はさっと目を逸らした。どうかしたかなと思いながら、またアイスクリームを掬って口元に差し出すと、ぱかりと口が開く。
「そういやさ、ここのチケット貰ったとか言ってたけど、お前が買ったんだろ」
「……どうして?」
「絵があるって聞いたら観に行くっつってただろ? 自分で買っても行きそう。んでチケットも、招待券とか書いてなかったし、だいたい、貰ったチケットが高校生用だと変だろ? だから、普通に買ったっぽいヤツかなーって」
「なるほど、やっぱり審美眼みたいなものなんだな」
 ふう、と月森は息を吐いた。
「まだ言ってんの?」
 概ね合ってるよ、と月森は呟く。
「ただ、俺は、こういうのに付き合ってくれそうだなって理由では相手を選んでない」
「なんだそりゃ」
「そっちの方が重要だったんだけど」
 月森はふと陽介の右手首を掴むと、掬ったまま口に入れそびれていたアイスクリームを自分の口に運んだ。
「そう言えば、パリには『霧を貫く陽光』という絵もあるらしいよ、陽介」
『陽介って太陽みたいで良い名前だな』
 過去に聞いた言葉の残滓が、頭の中に残っている。
(それは、つまり)
 大した意味はないのだろうけれど、彼が言うなら、太陽みたいになりたいと思った。前を歩く彼を照らしてあげられるような、そんな。
(――不ッ遜!)
 月森は多くを語らない。多弁ではないが、一つの言葉にいくつもの意味を絡めている。それを掬い上げるのは陽介の密かな楽しみであったけれど、履き違えてしまったら絶対に困るところでは裏側を覗いたりしない。暴こうとしない。
「アイス、溶けるよ?」
「へっ?」
 言われて手元を見ると、固形を埋めるように、周囲が液状化していた。
「うおわっ、やば……!」

back