DROWN

 空気が冷たいのが、雪が舞う所為だけではないことを鳴上は知っている。菜々子は死んでしまった。どんなに後悔しても戻らない。守れると思った手から、するりと抜けてしまった。その虚無と絶望は、最初、生田目への怒りに変換された。だから、生田目を落としてやろうと思ったのだ。否、今でも落とせば良かったのかも知れないと思っている。後悔とも怒りとも悲しみとも取れない涙が、頬を伝って落ちていくばかりだった。
「お前の言いたいこと、分かってる」
 ずっと黙っていた陽介は、ぽつりと呟いた。
「人としての正義って、大事だよな。でも、落としたかったんだろ? そっちのがもっと分かる。俺は今でも落とした方が良かったかも知れないって思うしな」
「落としても、菜々子は――戻らないんだ」
 そして、菜々子は望まない。大好きなお兄ちゃんの手が血で染まることを、決して喜んでくれたりしないだろう。思えば、生田目に操られていた時も、最後の一線を守ってくれたのは菜々子だった。きっと、喪われた尊いそれは、正義だったのだと思う。それは単なる理想論でも、儚い幻想でも、ただ一つ、そこにあると信じ続ける光だ。もしも生田目が死んで、それで菜々子が帰ってくるというのなら、幾らでも手を汚すだろう。けれどそんな、奇跡みたいなことを願っても仕方がない。奇跡も魔法もこの世にはない。呪うだけの価値もなくなってしまった。
「怒ってる方が楽なんだよ」
 陽介は空を仰ぎながら呟いた。
「悲しむのはつれぇんだ。いっそ、忘れたいって思うくらいに」
「お前も、……そうだったのか?」
 どうだろうな、と陽介は軽く笑った。
「わかんねーよ。テレビん中入ったら、忘れちった。忘れたかったんだ……ずっと。でも、足立刑事から話聞いて、菜々子ちゃんのことがあって、また……。埋み火って言葉あんだろ。埋もれてる火。燻ったものがずっと溜まってたんだ」
「珍しく、知的な発言だな」
「なんだよ」
 涙止まってんじゃん、と陽介は瞳を細めた。陽介もこんな風に、独りで泣いたことがあるのだろうかと思う。
「落としたいとは思う。でも、お前が真実を探すってんなら、ともかく付き合うさ。トコトンな」
「強いな、陽介は」
「どこが?」
「こんなに辛い想いを、独りで消化してきたんだ」
「……お前と菜々子ちゃんほどじゃねぇよ」
「想いに差はない」
 陽介が小西早紀のことを本当に想っていたことは知っている。好きな人が、亡くなってしまって、陽介の想いもまた、埋もれて残っているように思えた。
「もう、平気か」
「大丈夫だ」
「残ってくんだろ、病院」
「叔父さんも心配だから」
「ちゃんと、寝ろよ」
「眠るさ」
「嘘つけ。眠れそうに見えねぇっつの」
 陽介は腕を掴むと、そのまま鳴上を病院の中に引っ張った。夜の病院はしんと静まって、暗い。響くのは自分の革靴の音だけで、陽介のスニーカーの音は聞こえなかった。手を引かれるまま、菜々子のいたICUの前まで連れられる。遺体はもう霊安室に向かったのだろうか。見届けていないから分からない。ただ、そこも静かだった。陽介は鳴上を椅子に座らせると、自分も腰を下ろした。
「ここで、休んでろ」
「えっ、だが……」
「どうせ誰も見てねぇよ。俺らがうろうろしててもなんも言われねーんだから。ここなら、看護師も巡回するようなとこじゃなさそうだし」
「陽介は」
「適当に帰る。俺のことはいいから、寝てろ。お前がいないとなんも進まねぇんだよ」
 そう言われても、色々な感情が渦巻いている所為で、高揚している。とっくに日付を跨いでいるし、確認していないが、もう丑三つ時も近いだろう。それでも眠気はなかった。そもそも眠る気など最初からなかったのかも知れない。一晩中でも考えていようかと、そう思ったくらいだ。
 時折、自分の出した結論に挫けそうになるのだ。生田目を落とすべきだった。あの時、あのまま。そうやって、震える指先をずっと押さえつけている。
「お前が寝てくれないと帰れねぇ」
「眠く、ない……俺のことは構わず」
「そうもいかねぇんだよ。言っただろ、お前がいないとって」
 ったく、と陽介は呟くと、左手で鳴上の右手を掴んだ。
「人の体温って落ち着くだろ」
 じわりと熱が伝わってくる。
「クマきちがさ、怖い夢見たとか言って、良く布団に潜り込んでくるんだよ。んで、勝手にひっついて、手まで握ってきやがる。鬱陶しいったらないんだけど、あったかいと落ち着く、なんて言うし、蹴っ飛ばすわけにもいかねーし……」
「携帯なんて買うから、ますます懐いたんじゃないか」
 小さく笑って、きつく結んでいた拳を解いて、触れた彼の手を握った。お前まで真似するなよ、と陽介がぼやいたが、たまにはいいだろ、と笑って封じ込めた。
 依存してしまっている。久保美津雄のシャドウに精神攻撃を食らった時もそうだ。あの時も陽介が助けてくれた。手を、握ってくれた。そんなことを思い出す。随分と遠い記憶だ。菜々子がまだ存命で、オムライスを食べて。
(これもシャドウの幻惑なら良いのに)
 現実だと、陽介の体温が示している。温かい、見失いようのない熱が。ただ、救いようもない絶望的な気持ちに寄り添ってくれる人がいるのだと思うだけでも安心出来た。
「クマきちもどこ行ったんだろうな」
 くらりと急に、眠気が襲ってきた。
「明日んなったら、雪、止んでっかな。寒くないといいな」
 声は遠ざかっていく。心地良い。
「クマのこと、気になっから、お前寝たら、家に一旦戻るぜ」
 この温かい手が、眠るまで離れないでいて欲しいと思った。
 叶うなら、目覚めた時にも傍にあって欲しい。意識はそこで急に落ちた。

 ざわざわとした気配に目を開くと、目の前で看護師が二人、こちらを見ていた。
「良かった、こんなところで寝てるからどうしようかと思って……」
 熟睡していたらしいと気付いて慌てて横を見ると、陽介は肩に凭れて瞳を閉じていた。大きめの毛布が、二つの身体を覆っている。その下で、手に、まだ温もりがあった。
「あなた、昨日の女の子の……ご家族、よね。辛いことがあったのは分かるけど、家に帰らないとダメよ」
「あ、すみません」
「でも良く眠っていたみたいだから、起こせなくて」
 いつの間に眠っていたのだろうかと思う程度には、昨晩の記憶は曖昧だった。
(毛布?)
 ふと見れば、陽介は私服を着ている。クマのことがあるから一度戻ると言っていたような気もするが、もしかしたら、本当に一度戻って、毛布でも抱えてきてくれたのかも知れない。バイブ音が聞こえたので周囲を見ると、陽介の携帯が振動していた。画面を見ると、陽介の自宅からの電話だと分かる。少し躊躇ったが、ぐっすりと眠っている陽介を起こすのも忍びないから、と通話ボタンを押した。
『陽介! 夜中に帰ってきてまたいなくなるってどういう――!』
「す、すみません。あの……」
『え? あら、陽介は?』
「と、隣で、寝ています」
 変な意味ではないんですが、と思わず弁解しそうになった。隣で寝ているのは事実だ。
「その、すみません、俺が」
 ますます台詞が誤解を招きそうだ。寝起きで頭が覚醒していない。言霊使い級の伝達力が生かせなくて焦った。
『もしかして、あなたが鳴上悠くんかしら?』
「え、あ、ハイ、鳴上悠、です」
『陽介から良く話は聞いているのだけど……そう、傍に、あの子はいるのね』
「ま、間違いを起こしたとかそういうことではありません」
 慌てて弁解すると、笑い声が響いた。女性なので陽介よりも高めだが、やはり親子だからだろう、響きが似ている。
『ふふ、あの子から聞いた通り、おもしろい子なのね』
 しかし面白いとは、一体どんな紹介をされているのだろう。起きたら陽介に問い詰めておく必要がありそうだ。
『あの子が、夜中に飛び出していくなんて初めてだわ。あぁ見えて真面目なのよ。でも、よっぽど、あなたのことが心配だったのね。あぁ、そうだわ。陽介に戻ってきたら言うように頼まれていたのだけど、熊田くんはまだ戻ってないのよ』
「そう、ですか。すみません、その、陽介、くん……お借りしてしまって」
 電話口で、また笑い声が聞こえた。
『返すのはいつでも構わないわ。出来たら、ずっとあの子の友達でいてくれるといいわね』
 頷きたいのは山々だったが、ずっと友達でいるという保証は、正直出来そうになかった。今でも、彼の手を離したくないと思っているのに。ずっとこうして、傍で寄り添っていて欲しいと願っている。そう想うことが、友達としての範疇は越えてしまっていることは分かっていた。
「まだ、……お借りしておきます」
 えぇどうぞ、と向こう側から声が聞こえる。クマが見つかったら連絡するということを言い残し、通話は切れた。ツーツーと切れた音だけを聞いて、鳴上は天井を仰いだ。
 まだ、もう少しだけ。独りでも平気になったら、必ず彼の手を離すから。
(離せるのか――?)
「ん、んん……れ、もう、朝か……」
「おはよう、陽介」
 こちらを見た陽介は、諦めたように少し笑った。寝る前までは、まだ怒ってるんだぞというアピールのようにツンツンとしていたが、寝て覚めると大分違うのだろう。
「おはよーさん。良く寝てたっぽいけど、眠れてっか?」
「ぐっすりと」
「そりゃ良かった」
「陽介も良く眠ってたみたいだな」
「疲れてたんだからトーゼンだろ」
 二度目に重なった手は、鳴上がしたみたいに手を握っていたのではなかった。最初、陽介がしたように、上から掌が重なっただけ。それでも温かった。だから陽介も熟睡したのだと思いたい。言うなり陽介は手を離すと、ガバリと毛布から上半身を出した。
「っあー、身体イテェ……お前、学ランで寝て身体平気か?」
「学ラン関係あるのか?」
 さぁ、と陽介は肩を上げた。彼にしては珍しく、ビビッドカラーを着ていない。暗い色は、菜々子への配慮かも知れないと思って、また胸が痛んだ。
(菜々子……)
「クマのヤツ、家に戻ってなかった」
「それならさっき、陽介のお袋さんから聞いた」
「は? え? おふくろ?」
「陽介の家から電話が鳴っていて」
「勝手に出んなよ!」
「良く寝てたから」
「相っ変わらずのマイペースだな……! あーったく……」
 陽介はスマートフォンの画面を弄りながら、眉根を寄せた。
「電話するのか?」
「クマきちにな。どこほっつき歩いてんだ……あのクマ!」
 近くに窓がないので、外の風景は見えない。菜々子を喪っても、世界は、日常は変わらずに続いていく。新しい朝はまたやってくるだろう。何度でも訪れる。優しく。そして無慈悲に。考えるしかない。推理する他はない。幸いにも、寝て、頭は冴えている。身体の調子も良さそうだった。傍にはちゃんと、陽介もいてくれている。
「……帰らなかったのか」
「帰ったぜ。服、変えてんだろ」
 陽介はスマートフォンを耳に当てたまま返答する。クマはやはり電話に出ないのだろうか。
「違う。戻ってきた理由だ」
「さむそーだったからでいいだろ」
「あぁ、寒かった」
 じっと手を見詰めると、陽介は通話を諦めたようだった。
「クマきちは分かんねーけど、アイツらにも連絡して、昼前にゃ集まろう。まだ、考え足りねぇからな」
「今でも生田目を落としたいと思うか?」
 自分はどうだろうか。菜々子を落とした憎い男だ。放っておいても凶行が繰り返されるというのならばいっそ、という気持ちが残っていないだろうか――自問自答してみたところ、否だと答えが出た。現実の殺人で多いのは、感情的な犯行、衝動殺人だ、と何かの折に遼太郎が言っていた気がする。怒りは風化してしまうのか。それとも、どこかに残っているのだろうか。
「それを考えるんだろ、今から」
 陽介の目は、ICUを見ていた。菜々子の声が耳に蘇る。
「生田目が真犯人なら、落とすかも知れない」
「そしたら、俺はお前と同じ道を選ぶ」
 そうだ、と陽介は急にこちらを向いた。
「ここに泊まったってこと、アイツらには内緒な。俺は、帰ったんだ。いいな?」
「陽介、それは」
「リーダーなんだから、しゃんとしてたいだろ? お前がその方が、みんな安心すっし、俺もその方がいい」
 鳴上ならば大丈夫だから、とばかりに、いの一番に去っていったのは、パフォーマンスだったのだろう。他の仲間たちに涙を見せたくないという『リーダー』の心情を立ててくれた。泣いていなかったら、そのまま陽介も家に戻ったかも知れない。
(駄目だ、陽介)
 心が弱っているのだ。そんな時に、優しくされてしまったら、困る。息が詰まって、溺れてしまう。これ以上好きになったら、離せなくなる。
「だいじょーぶだって、んな顔すんな。つか、大丈夫じゃねぇと困るって言ってんだろ」
(――駄目だ)
 しっかりしなければならない。依存するような恋に展望は見えない。独りで歩けなければ、恋愛も出来ない。鳴上は頬を両手で叩いた。一度目を瞑り、壁を見据える。
「……ありがとう、陽介。皆に連絡して、集まろう」
「ん、了解。顔付きも良くなったみたいだしな。んじゃ、俺は先に合流したってことにしとくから、お前は完二とりせに連絡してくれ」
(大丈夫だ)
 気合を込めて、もう一度だけ頬を叩いた。

23話のCM暗転はこんな感じでどうでしょうか!!!!
昔からDROWNという言葉が大好きです…(厨二病的な笑)

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