ジュネスの家電売り場には人の姿が今日もない。見慣れた大型テレビの前で、陽介とりせがあぁでもないこうでもないと話し合っていた。
「でも、りせのナビでも変な反応はないわけだろ? クマきちも、人が入った感じはしないっつってたぜ?」
「それはそうなんだけど……見た、なんて聞いちゃったらほっとけないよ」
テレビに人を投げ込んでいた元凶の足立透は、十二月に捕まえた。以来、マヨナカテレビには人が映し出されることはなくなった――落とせる人間もいないのだから、当然のことだろう。足立透が今どのような状態にあるのか月森は知らないが、少なくとも拘束されているということは事実だ。生田目太郎についても拘束されているし、特別捜査隊の面々が落とすような真似はしない。マヨナカテレビに映像が映るはずはないのだ。
「ですが、久慈川さんのファンの方がそのように言っていた、と」
「うん……なんか、りせと男の人? が一緒だったから、怒ってたみたいで」
「アイドルも大変だな」
「それは慣れてるからいいけど」
んなことねぇだろ、と陽介はりせの頭をくしゃくしゃするように撫でた。誹謗中傷を知っているという点ではきっと、陽介も似たものなのだろう。直斗もそれなりには言われてきたようだが、それは、一般からの悪意よりむしろ、『大人からの悪意』の意味が大きい。陽介の手がわしゃわしゃと動くのを、直斗は黙って見ていた。そして、もっとも下手に言葉を掛けられないのが、月森である。他意がないことを知りながらも、それでも見ていた光景でもないと思う自分は、あまり好きではなかった。目を逸らすと、直斗と目が合った。ぱちぱちと、お互いに瞬きを重ねる。
「ともかく、りせは平気だけど、相手の子? もしかしたらって」
「相手、か……」
陽介は腕組みをした。元からのファンだったということもあり、陽介はりせに些か弱いように思う。否、彼ならば、女の子には全般的に弱いのかも知れない。それに対するりせも、「センパイ大好き!」と言いながらも、陽介にも行儀良く懐いていた。内緒だけど、と前に彼女は笑って、「りせちーのこと、好きって言ってくれた花村センパイの言葉、すごくうれしかったんだよ」と言っていたくらいだ。
「男ってくらいだよな、手掛かり。んで、失踪者はいないんだっけ、相棒?」
急に呼ばれてハッとした。
「あ、あぁ……叔父さんに聞いてみたから、間違いないと思う。稲羽市で、行方をくらました人間はいない」
「相手という子に心当たりは?」
「心当たり?」
りせはことりと首を傾げた。うーん、と目を瞑る。
「りせのマジな恋人、とかじゃねぇの?」
「いないよ、そんなの! りせは、センパイ一筋だもん」
人差し指を立てたりせは、片目を瞑って笑った。羨ましいの、と陽介には言われたが、気持ちに応えられないと思っている以上は、彼女の好意もどのように収めるべきか考えねばならないものだ。疎ましいとか迷惑だと思うわけではないが、仲間としての久慈川りせは、月森も大事に思っている分、余計に、傷付けずに断る術というものを探しかねている。その上、陽介にそうやって羨まれるということは、それなりに月森にとってもダメージなのだ。想い人からは、ちっとも返されてこないのだとすれば、それを見ていて傷付かないはずもない。
「一筋、ですか」
「どーした、チビッコ探偵」
「チビッコって言わないでください!」
直斗は条件反射のように言うと、眉間に皺を寄せた。相変わらずだ。
「そうだよ、センパイ。直斗くんはチビッコなんかじゃないもん。カッコイイ探偵なんだから」
りせはウインクする。マヨナカテレビのことを最初にりせが相談したのは、同い年の友人である直斗だった。どうしよう、と困惑した様子のりせに、直斗は家まで駆け付けたというのだから、中々どうしてこの二人の絆も深いようだ。
「……僕は、久慈川さんの言うような、カッコイイ探偵でもないですよ」
「へ?」
急に、ぽつんと直斗が零したので、りせと陽介の目が点になった。
「いえ……探偵という職種とは無関係ですね、これは」
僕は、と呟いて、直斗は首を横に振った。りせが陽介に「センパイの所為で直斗くんがショック受けてるじゃん!」と怒り、ぽかぽか胸の辺りを殴っている。
「男だったら良かった」
その言葉を聞いたのは恐らく二度目だ。彼女は、男装しているがどうしようもなく女の子で、それは、白鐘家の探偵として、望ましいことではなかった。ハードボイルドな、カッコイイ探偵に彼女は憧れていた。どうしようもなく。遼太郎のことを羨ましいとも言っていたことがある。それでも、彼女はシャドウを受け入れて乗り越えたはずだ。
「白鐘、それは」
「僕では、花村先輩のようにはなれない」
向こうのりせと陽介は、騒いでいるのか楽しんでいるのか、どちらとも取れぬ様子で言い合っている。
「……それを言ったら同じだ」
「月森先輩?」
「だったら、俺だって、女の方が良かった」
無駄なことだと思いながら呟くと、直斗が丸い紺の目でこちらを見て、そうして、笑った。
(同じだ)
そう、思った瞬間に、足を何者かに掴まれた。ギョッとして振り返ると、黒い腕が、月森と、直斗の足を掴んでいる。
「な、なにコレッ! センパイ! 直斗くん!」
「落ち着けりせ! 騒ぐと人が集まる!」
陽介がりせの口を押さえているのを見た。蛍光灯の真白い灯りが照らす、フロアー。黒い画面。内側から意思を持つように畝る、腕。
「あ、相棒……どういう」
答えようとしたが、腕に引き摺られて、直斗ともにテレビの中に吸い込まれていく。
「待ってろよ、相棒、直斗! 助けに行くから!」
最後に陽介の声だけが聞こえた。
*
目を開けると、古いクリーム色の蛍光灯の光の元にあった。周囲を見ると、少し離れた場所で直斗が倒れている。
「白鐘! 大丈夫か」
「う、……せ、先輩……ここ、は」
「前に来たラボのようだが」
手術台に無影灯、白衣を着た直斗のシャドウこそいなかったが、そこは、彼女の影と対峙した場所だった。見渡してみれば、薬品棚に瓶がいくつも陳列し、怪しげな医療機器らしき機材が周囲を埋め尽くしている。その中で、薄暗い蛍光灯が明滅しているのは、不気味だった。
直斗はぼうっとしたように顔を上げて、あぁ、と頷いた。それきり、静かになってしまう。
「怪我は?」
「特には。先輩もご無事のようですね」
「ジュネスのテレビから入ったのに、直接ここに来たのか……?」
テレビから繋がっている場所は、点と点で決められている。原理こそ知らないが、あそこからは、バックヤードに着くようになっているのだ。
「分かりません。もしかすると、自分の意思で入った場合とは違うのでは? 僕らは『引き摺り込まれた』ようですし」
「なるほど」
妙な目に遭っても、若しくは妙な目には慣れているからかも知れないが、直斗の推理力は衰えていないようだった。とりあえず月森は出口の扉に手を掛けてみたが、開かない。鍵でも掛かっているようだった。
「そうすれば、部屋に閉じ込められたという現状にも納得が行く」
いずれにせよ陽介は助けに行くと言っていたのだ。傍にはりせもいるし、居場所を特定出来ないこともないだろう。ドジも多いし、不運ではあるが、陽介は頼れる相棒だ。必ずここに来るだろう、と月森は信じていた。一応と思って、スラオシャを喚んでみたが、物理攻撃は効かず、スルトらを喚んで火炎に氷、雷撃を加えてみたが、効果はなかった。見ていた直斗が、疾風属性は常備していないんですね、と笑う。
「恐らく、巻き込んだのは僕です」
「どういう意味だ?」
ここに来る前から直斗は、憂鬱そうに俯いていた。理由を知っているのかと思って振り返ると、今度は、悲しげに笑っている。
「あまり、聞いていて快い話ではないと思いますが、……先輩なら」
それはまたどういう意味だろうかと、月森は肩を上げた。眼鏡も持ってきていないので、見通しは悪い。それなのに、悲しげな直斗の様子だけははっきりと見えているようだった。立ち上がった直斗は、古びた手術台に腰掛けると足をぶらつかせた。
「夢を見るんです」
「夢?」
「えぇ。僕が、男だったという夢」
思わず月森は、手術台の背後を見た。また、彼女のシャドウがどこかにいるような、そんな錯覚に陥る。
「そして、久慈川さんを守ってあげる夢です。いえ、もしくは」
迫っている、と彼女は笑った。
*
バックヤードに月森と直斗の気配はなかった。陽介と一緒に入ってきたりせは、泣きそうな声で「センパーイ! 直斗くーん!」と叫んでいる。
「っぐす……ッ、どこ、行っちゃったのぉ……直斗くん……」
「泣くなよ、りせ。気配は探せるはずだろ、ナビゲーター?」
うん、とりせは涙目になりながら頷くと、ヒミコ、と絞るように声を出した。ピンク色の華やかな光がりせを包んで、日本最古の女王卑弥呼の姿をした彼女のペルソナが現れた。りせにどのような世界が見えているのだろうかと時折陽介も思うことがある。そういえばと慌ててオレンジの眼鏡を掛けて、改めてバックヤードを見渡してみた。
「けほっ……ん、ヒミコ、ありがとう」
「大丈夫か?」
ヒミコを消したりせは数度咳き込むと、軽く首を振った。涙は消えているようで安心する。眼鏡、と言うと、笑ってりせはピンクの眼鏡を掛けた。
「うん。あのね、あっちの方……えーと、直斗くんのラボの方みたい」
「あの秘密基地みてーなとこか。ってことは、さっきの、直斗くん絡みだったのか?」
「わかんない……」
りせはしゅんとしたように俯いた。
「行こ、センパイ」
陽介の学ランの裾を掴むと、りせは促すように引っ張った。仕草の可愛らしさは、さすがアイドルと言うべきなのかとも思うが、りせは多分に、常からそうなのだろう。きっと、可愛いと言われて、そうしてアイドルになった。普通に。
「りせ、ここで待ってなくて平気か?」
「だいじょーぶ。ちゃーんと、シャドウが出てきたら隠れてるから。それに、りせが危なくないように、花村センパイがなんとかしてくれるんだよねっ!」
「はは、こりゃ責任重大だな」
元の調子を取り戻したりせに安堵して、陽介も片目を瞑った。いつも明るいりせが、しょげている様子は出来れば見ていたくない。大事な後輩で、仲間なのだ。もちろん、しっかりと守ってあげる必要もある。
「そうは言っても、一人だからな……りせ、ナビは頼むぜ?」
「まかせて!」
んじゃ行くぞ、と陽介は走り出した。りせも文句を言わずに走って追い掛ける。アイドルは体力勝負だと聞いたこともあるし、彼女もそれなりに体力はあるのだろう。
いつも直斗が案内してくれていた道を、りせの声に従って走る。テレビの中の空はどこまで行っても暗く、仰ぎ見ても憂鬱な気持ちになるばかりだ。
「そういや、ペルソナの通信、届かねぇの?」
「断線状態みたい……位置が特定出来ないと、上手く行かないの」
「そっか」
せめて、向こうの状態がどうなっているかを知りたかった。怪我をしていないか、そもそも、無事なのか。入れ違いになったりはしないのだろうか。懸念すべきことは多い。本当なら、千枝、雪子、完二を連れてくるべきなのだということも分かっている。けれど、今にも泣きそうなりせを前に、どうなっているか知れない相棒と仲間を前に、悠長なことを言う気もなかった。慢心しているわけではないが、ラボのシャドウの強さは知っているし、十分に力をつけた今ならば、一人でも何とか切り抜けられるだろう。もしも一人では無理だと判断したら、戻れば良い話。多少ロスはあるが、安全の為にはやむを得ないだろう。
「ね、花村センパイ」
「どうした? 疲れたか?」
平気だよ、とりせは後ろで笑っている。
「直斗くんたちの話、聞いてた?」
「……あの距離で、聞こえないわけねぇだろ」
「だよね」
直斗は男だったら良かったと言った。月森は逆に、女だったら、と言っている。
「どういう意味かな」
「俺に聞いても」
ペルソナの通信を使えば問題ないのだろうが、さすがに女の子と二人きりでいるという状況では、音を遮るヘッドフォンも付けていられない。出来れば、考えたくないことに気を取られたくないと思いつつ、りせに言われれば気になってしまう。
「直斗くんはさ、やっぱり、男の子の方がよかったんだなぁって」
「シャドウも言ってたしな。探偵ならやっぱ、ってことか?」
白鐘家の探偵として生きるためには、男であれば良かった。それが、彼女の抱いていた複雑すぎる感情。
「……私ってさ、あんまり、友達いないんだ」
「りせ?」
声が震えていたので、思わず立ち止まった。振り返ると、りせはまた、俯いている。
「花村センパイは、学校でもいっぱい人に囲まれてて……そういうの、羨ましいって思ってたわけじゃないんだよ。アイドルだし、全部が全部、おんなじにはできないもん。『りせちー』はやっぱり、女子高生にウケない」
「んなことないだろ」
分かってるからいいよ、とりせは首を横に振った。
「皆に好かれなきゃいけないわけでもない。りせちーを好きだって言ってくれる人がいればそれでいい。認めてくれれば――友達だって……別になくてもいいって。あはは、強がりなのは分かってたんだけど。でも、そうやって、ずっと生きてきたの」
(逆だな)
好かれなければならない。疎まれたくない。たとえ、たった一人に死ぬまで好かれたとしたって、それでは意味がない。一人は怖い。それが、陽介の本音だった。
「でも、ホントはね? 一番の友達と、遊びたかった。辛いことがあったら、泣き付いて、愚痴を言って……そういう相手が欲しかったの。ありのままの私を見てくれる、親友。それって、誰でもいいってわけじゃないよね? 私は、そういうの……おと……んが、……かった」
最後のりせの声は掠れてしまっていた。顔を見ても、泣いているようではなかったが、声が詰まっているようだったので、陽介はりせの背をぽんぽんと軽く叩いてやった。
「直斗くんがよかったぁ……」
「りせ、泣くなよ」
「でも直斗くんはそうじゃないんだ……」
りせの頬はしっとりと濡れていた。一瞬、月森が泣いている陽介にしてくれたみたいに、胸を貸すのが正解だろうかと思ったが、りせは喜ばないだろうと思い直す。彼女の涙を本当の意味で止めてやれるのは、恐らく、直斗一人だ。どうしようかと迷ったが、陽介はポケットから使っていないオレンジのハンカチを取り出して、りせに手渡した。りせは、涙に濡れた目で瞬きしながら、そろりとハンカチを受け取る。
「直斗がそんな風に思ってるわけねーだろ。りせみたいのが友達で、役得って」
「花村センパイには、わかんないもん」
ハンカチを見詰めたまま、りせは涙を引っ込めていた。
「花村センパイと月森センパイは、相棒で……親友だから」
確かに、陽介と月森は親友だ。恐らく一方的にそうなのではなくて、月森もそう思ってくれている。だからこそ、相棒と呼べば頷いてくれるのだ。あれで結構バッサリした淡白なところのある月森だ。嫌ならば嫌だとそう、言わないはずがない。
「あのなぁ、りせだって、聞いてなかったわけじゃないだろ」
そう思っていた。疑ったこともない。先ほどまでは。
「センパイは優しいから、直斗くんの気持ちを汲んであげただけだよぅ」
「えー……汲んで女がよかったって……?」
そんな馬鹿な、と陽介は首を左右に振った。
「んなこと言われたら、俺の気持ちはどうなるんだっつー……」
「アハハ……そ、それは……」
心情的に言えば、陽介だってりせと同じだ。むしろ、直斗のときよりも仰天させられたと言えるだろう。何をどうしたらそういう願望に繋がるのか、文化祭の女装が原因だろうかとか、色々と思ってしまう。女装は意外とノリノリだったし。
「えっとぉ、りせは、月森センパイのはなんとなーくわかっちゃったんだけど」
「えっ、マジで?」
「でも悔しいから言わない!」
「なにが!?」
「花村センパイは、女の子にやさしすぎだよ」
ハンカチとか、とりせは使わずにハンカチを突き返した。
「んなこと言うなら、俺だって、直斗くんの気持ちわかっちゃうかもしんねぇぜ?」
「うそっ!」
りせはぴょんと跳ねた。教えてよぅ、と腕を掴んで揺すられたが、彼女が言わないのでは、こちらからも言うつもりはないのだ。
「ま、きっと、りせが可愛いからだな」
直斗は決して、りせが嫌いなのではない。強引な手段に些か戸惑っていることは戸惑っているようだが、頬を赤らめながらもそれを受け入れている。直斗は恐らく、りせのような愛らしい女の子のことが好きなのではないかと思うのだ。戸惑いながらもりせと友情を深めていこうという意識は分かる。結局、直斗の抱く『可愛らしい女の子』というものへの感情はきっと、憧れとか憧憬とか、一言で括ってしまうのは難しいものなのだ。同じようになりたいというのではない。白鐘直斗は決して、白鐘家の誇る名探偵としての自分を否定しないし、そうでありたいと望む。ならばその、可愛いものへの憧憬というのはどこへ昇華されるのだろうか。
陽介にすべてが分かるということはない。直斗にも「花村先輩は見た目よりもずっと切れる人だ」と微妙な褒められ方をしたこともあるが、推量は答えに近接しても、答えにはならない。彼女自身の言葉でなければ、意味がないのだ。ただ、時折、千枝のようにしたいと思うのではないかと陽介には思われたのである。大事な親友を守れる、強い人として。
(チビッコなんつって悪かったか)
少しだけ反省したものの、小さくて可愛い後輩の位置にいるのは、やはり直斗なのだ。これは先輩的には譲れないところである。押し並べて、完二ですらも、陽介にとっては等しく可愛い後輩なのだ。
「なにそれー! ぜんぜん、わかんない!」
更にぴょんぴょんと兎のようにりせは跳ねる。ツインテールがまるで、長い耳のように揺れていた。
「ほら、止まってないで、さっさと行こうぜ? アイツら、きっと、俺ら来んの待ってっからさ」
「……うん」
ラボはもう目と鼻の先だ。これまではりせのナビゲーションもあって、シャドウとは遭遇しないルートを辿ってこれているが、中に入ればシャドウからの逃げ場もほとんどないし、陽介が倒していくほかもないのだ。気を引き締めていかなくてはならないだろう。
「よし、気合入れてこー!」
りせが右の拳を上げた。おう、と陽介も呼応するように右手を軽く上げた。
*
「で、男の姿で久慈川に迫っていたと……」
「恐らく、それが原因でマヨナカテレビが映ったのではないかと」
直斗は自分の両肩を押さえて震えている。
「僕は、そんなつもりではなかったんです! ただ、彼女と過ごしているのが楽しくて……友達もいなかった僕に、久慈川さんはあんなに良くしてくれる。それを……」
道理で同調するわけだ、と月森は額を押さえながら思った。
「彼女を可愛いと思ったことはあります。女の子として胸を張って生きている――そして、まるで夢見がちなのに彼女は、地に足を着けている。それを、羨ましいと思っていました。なりたいとは思わないけれど、彼女のその姿は、理想だった」
しょげた様子の直斗に、どう声を掛けたものだろうかと月森も悩んだ。
(……そんなに悩むことだったのか)
夢の中でくらい自由なものを見ても良いのではないかと月森は思うのだが、彼女にそれを説くのも無意味だろう。陽介ほどに女の子に優しくせねばと思っているわけではないが、月森とて、気落ちしている女の子をそのままにしておきたいとは思わない。まして、大切な仲間であれば尚更だ。
「その上でこのような迷惑まで! 僕はもう……どんな顔をして久慈川さんと会えば良いんだ」
「あまり考えすぎるな、白鐘」
手術台の隣に座ると、直斗の肩が跳ねた。
「俺も思うところがあるから、ここに連れてこられたんだろう。敏い探偵王子なら分かってると思うけど」
にこりと微笑み掛けた。
「……やっぱり、先輩は、花村先輩のことが」
皆まで言わずに、直斗は顔を赤らめた。
「残念ながら、俺はもっと深刻だと思うよ。認めてる分は気が楽だけど、陽介はあぁだし」
女の子が大好きで、いつも優しくて、周りには人も多い。それに、ホモは怖いと来ている。月森には、全く勝算がない。
「だったら俺も、女の子の方が良かったのかな、と少しね」
「似合いません」
「俺も思うけどその即答はどうだろう、白鐘」
「似合いませんよ、そういうの。先輩ならもっと勇気があると思っていた」
「ごめんね、意気地なしで」
「僕に謝ってどうするんですか」
月森が笑うと、直斗は怒ったように紺色の目をキッと上げた。
「それでリーダーですか! もっとこう強引にですね……大体、他の誰ならばともかくとしてあの花村先輩が相手なんですよ? 先輩以上にアドバンテージがある人が他にいますか!」
「俺は、久慈川と白鐘も似たものだと思うけど」
直斗の目が丸くなる。
「久慈川が心を許してるってのは、白鐘と、後は巽くらいじゃないか? それと、白鐘は陽介を若干、見縊っている」
容易そうに見えて、侵入するのは難しい。相棒だ、親友だ、特別だと陽介は言うけれども、まだ、足りていないような気がする。底には触れられていない。見えているようで触れない蜃気楼のような感情に、触れてみたいと思ったから視線が追い掛けている。それが続いたら、もう、後は止まらない。坂道を転がっていくだけ。
「見縊っているのは先輩でしょう? あの人、見た目以上にタフですし、寛容ですよ」
「それを言うなら、久慈川は傷付きやすいけれど、すぐに立ち直れると俺は思う」
一瞬、視線に火花が散った。しかしすぐに争いの無意味さに二人で気付いて、溜息を落とす。畢竟、問題の所在などそこにはないのだ。誰が太鼓判を押しても押さなくても、変わらない。要は自分自身がケリを付けなければならない問題なのだ。
「いずれにせよ二人を巻き込んだのは僕達の落ち度です」
自分だけの、と言わないだけ、直斗は立ち直ってくれたらしい。けれども、そうだなと月森が頷くと、自嘲的な笑みが返された。直斗は手術台から下りると、ぐるりと部屋の中を見る。
「内側なのに鍵が開かないというのは部屋として妙です」
「外鍵しかないものも、あることはあるんじゃないのか?」
「えぇ。ですが、ここは心象を照らし出す場所ですからね……僕が望めばきっと鍵は開く。そんな気がしませんか?」
「乱暴な発想だな」
緻密な推理を売りとする、名探偵らしくない。月森も台を下りると、棚の抽斗を開けてみたが、空っぽだった。続けて隣を開けてみても同じ。
「発想は大胆なくらいが良いんですよ。皆さんが教えてくれたことじゃないですか」
直斗は部屋の奥にある書棚を漁っているようだった。本の中には何が書かれているのだろうかと思われる、奇怪なタイトルばかりが並んでいる。手術室なのに書棚とはこれ如何にと思うが、そもそもここに合理的な説明などは期待出来ないし、或いは直斗の趣味――読書が関係しているのかも知れない。タイトルも若干、おどろおどろしい。
「……結局、逃げを打っただけなんでしょうね」
紅い本を掴んで、直斗はぽつりとつぶやいた。
「いっそここで、改造されてしまった方が最初から」
「そんなのダメー!」
突然扉が開いたと思えば、りせが弾丸のように飛んできた。そのまま直斗に駆け寄って、抱き着く。
「くっ、久慈川さん……ッ」
直斗の目が丸く開き、持っていた本がバサリと床に落ちる。
「りせ……俺、疲れてヘトヘトなんだって」
「陽介!」
遅れて部屋に入ってきた陽介は、身体をくの字に折り曲げていた。言葉の通りに疲れているらしい。名前に反応したのか顔を上げたが、特に何かを言うことはなかった。スイ、と視線が逸らされて、直斗とりせの方へと向かう。
「直斗くんの……」
りせが息を吸い込んだ。
「ばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかッ、ばかぁっ! ばか! 心配したんだからねっ! ばかぁっ!」
言いながらりせはぎゅうっと直斗に抱き着いていた。
「く、久慈川さん……その、……す、すみません」
「ホントだよぉ! 直斗くんのばか! っ……わ、私はぁ……『今の』直斗くんが好きなのに……なんで……」
「泣かないでください、久慈川さん! あぁ僕の所為で……」
りせよりも直斗の方が小柄なはずなのに、この時ばかりは、りせの方が小さく見えた。顔は隠れて見えないが、恐らく泣いているのだろう。りせも感情表現が素直だ。ホントだっつの、と気付くと二人の傍にいた陽介が、直斗のキャスケット帽をぽんと叩いた。
「こーんな可愛い友達泣かせちゃって、どーすんの。りせ、直斗くんが自分のこと嫌だからあんなこと言い出したーって思ってんだぜ?」
「えぇぇっ!? ど、どうしてそんな結論に……!」
「だってだって、直斗くん、私と一緒が嫌なんでしょ? だから、女の子なんて、嫌なんだ……」
「違います!」
小柄な外見よりは少し低めの少年にも似た声が手術室に響いた。驚いたのか、りせも顔を上げる。陽介も瞳を丸くしていた。
「違います……僕は」
ここに留まっているべきではなさそうだ、と月森は慌てて判断し、陽介の手首を掴んだ。きょとんとしていた陽介の茶色い目が、こちらを見る。ようやく目が合ったと思えば、またすぐにパッと逸らされてしまった。
(……怒ってる)
今更に確信した。それでも手が解かれなかっただけマシだ。ともかく直斗とりせの邪魔をするまいと、陽介を室外に連れていこうとすれば、彼は至って大人しく引き摺られてくれる。そういうところは、やっぱり、彼らしい。
「ッ、花村センパイだって、そーなんだからね、センパイッ!」
分厚いアルミ扉の前に立ったときに、急にりせが声を上げた。
「うえぇっ!」
振り返ってみると、陽介の肩がびくりとしている。
「りせだけじゃないもん! 花村センパイだって、センパイに、嫌われ」
「うわあああ! な、直斗! りせの口、黙らせとけ!」
「えっ、あ、ハイ」
「むぐっ」
今度は逆に、陽介に外に引っ張り出されてしまったために、直斗が本当にりせの口を塞いだのかどうかは良く分からなかったが、機械的に頷いたまま、口を手で押さえるくらいはしたのかも知れない。
「りせのヤツ……なに考えてんだ」
陽介は不満気にぶつぶつと呟いている。通ってきたアルミの扉には、鍵なんてどこにもついていなかった。やはり直斗の言うように、キーは、己の内側だったのか。
(それを久慈川になら、破られても構わないと思ったのか)
そしてその心情は、月森にも理解出来るところである。
「陽介、その」
手は掴まれたままだが、陽介は一向にこちらを向いてくれない。
「怒ってる?」
「怒らいでか!」
ぴしゃりと言われたので、思わず肩が竦んでしまった。
「直斗もお前も、自己完結型すぎんだよ! あークソ……わかってたのに」
陽介は額に手を当てて、天井を仰いだ。
「わかってたのに、なんもしてやれなかった。たぶん、俺らにも問題あったんだろ? あんなこと言わせるだけの、なんか……」
「違う」
「別にいーよ。力不足なことくらい、最初っからわかってんだし」
「だから、違う!」
思うに自己完結するのは陽介ではないか、と月森は思うのだ。やけに冷静に陽介の両手首を掴んで至近距離で茶色の瞳が陰っているのを見て、――そうして、矢も楯もたまらなくなる。
扉の向こうではきっと、直斗も素直な感情を吐露しているはずだ。
「俺は、そういう意味で言ったんじゃない。ただ、」
瞬きが繰り返される。
(言ったら軽蔑される? 陽介が傷付く? ――全部、欺瞞だ)
逃げる方が余計に傷付けている。
「嫌いじゃないんだ。好きなだけ。陽介が好きなんだ」
逃げずに始めなければ、道は開けない。
「恋人になりたい、という意味で」
「え……?」
全部が知りたい。全部が欲しい。強引に、という直斗の言葉を思い出して、ここまで来たらどうせ後に引けないのだとばかりに抱き締めた。