コール・マイ・ネイム

 真犯人を無事に捕まえて、事件は収束した――八十稲羽を覆っていた霧は晴れて、曇りのない空が広がっている。
「ここまで来られたのは、全員の力があってからだ。千枝、雪子、完二、りせ、クマ、直斗……そして、花村」
 ありがとう、と桜は笑った。
(あれ?)
 その時、陽介の胸には違和感がふっと現れた。

「なぁ、桜!」
 円陣を組んで、その日はお開きとなった。後日、今度こそ慰労会でも開こうかなどと話しながら、各々が帰路に着く中で、陽介は親友を呼び止めた。桜は振り返り、グレーの瞳をぱちぱちと瞬きさせている。
「どうかした、花村?」
「えーと……とりあえず、その、お疲れさん」
「花村もお疲れ」
 歩みを止めない桜の隣に並んで、陽介はまずは労をねぎらった。無事に事件が解決出来たのは、この親友のお陰だ。陽介はそれを一番良く分かっている。
「お前がいたからさ、事件解決出来たんだよな」
 えへへ、と笑って言うと、桜はこちらを見て瞳をゆっくりと細めた。
「そんなことないよ。俺は、花村がいてくれたからここまでやれたと思っているよ」
「ありがとな、相棒」
「わざわざ、それを言いに?」
 にこにこと桜は笑っている。少し前までは、菜々子や遼太郎のこともあり、沈んでいた様子だったが、事件も解決して晴れやかだ。良かった、と心から思う。
「えーっと、あのさ、桜」
「何?」
「さっき聞いてて、いまさら、すげぇ気になったんだけど……」
 うん、と桜は首を傾げる。
「あのさ……俺だけ、なんで花村っていうの?」

 翌日は良く晴れた快晴だった。空から振る眩しいばかりの陽光は久々で、思わず陽介も早く起きてしまった。そういう意味での目覚めは非常に良かったと言える。早めに支度を済ませて、急いで学校までの道を走る。
「桜ー!」
「あれ、早いね。花村。おはよう」
「だっから、名前!」
 昨晩、思い切って尋ねてみたものの、桜は何のことだか分からない、というような顔で「何言ってるんだ、花村」と笑った。そしてそのまま流されて別れてしまったのだ。
「もしかして俺の名前、覚えてねぇの?」
「花村陽介」
「覚えてんじゃん! だからさ、名前で――」
「花村、課題やってきた?」
 桜は爽やかな笑みを浮かべると、話を簡単に逸らした。咄嗟に、課題と言われて頭をサーチしてみたが、何も出てこない。
「え、課題なんてあったっけ?」
「忘れてるんじゃないかと思った。写しても良いから、早く行かないと」
 提出は一限だよ、なんて言われたら、急がずにはいられない。桜が急かすのもあって、慌てて学校へ向かうことが先決になってしまった。
「ほら、花村。急いで」
(やっぱ、また)
 どうしても、桜は呼称を変えてくれたりしない。

 ノートを無事に写させて貰って、朝はそれで終了。休憩時間にでも尋ねてやろうと思うと、隣のクラスから長瀬と一条が来たので、タイミングを逸してしまった。用件は、放課後愛家でラーメンを食べていこう、というだけだったので、一分とかからなかった。
「というか桜、たまにはサッカー部に出ろ。ラーメン相手もいないんだ」
「ごめんって、大輔。忙しかったんだ。でも康がいるから良いだろ」
「俺は今、家が忙しいんだよなぁ」
(ん?)
 陽介があれっと思っていると、桜はこちらを振り返った。
「どうかした、花村。花村も放課後はラーメン平気だろ?」
 ラーメンは平気だ。バイトも今日はないし、予定は空いている。でも、問題はそこではない。
(大輔に康……)
 まただ。
「花村?」
(……つーか、俺だけ?)
 そんなことに、思い至ってしまったのだ。

 気になってしまったら止まらない。陽介は注意深く桜の言動を聞いていた。部のマネージャーはあいと呼び、部活の後輩には綾音と呼ぶ。それどころか、バイト先の家庭教師の生徒から知り合いのおばあさんに至るまで、全員、名前で呼んでいる。
(やっぱり俺だけだ……!)
 今まで全く気にならなかった。花村と皆も呼んでいるし、名前で呼ぶのはクマか両親くらいだ。桜がそうであっても違和感はない。思わず呻くと、前の席の桜が振り返った。どうした花村、と。そう呼ぶのでまた頭を悩ませる。
「だから、なんで俺は花村なんだよ!」
「なんでって……花村は花村じゃないか。どうしたんだ?」
 ロミオとジュリエットじゃあるまいし、と桜は笑う。違う。全く違うのだ。
(俺、コイツに嫌われてたのか?)
 そんな風にも思えてしまう。胸がきりりと痛んだ。相棒だと親友だと思っていたのに、それが自分だけだったなんて悲しすぎる。陽介は机に顔を伏せた。ペシミスティックなことを思っていると、桜はぽんと軽く頭を叩く。
「花村、今日は肉じゃが作ってきたよ」
「え……?」
 顔を上げると、桜はにこりと笑っている。
「好きだって言ってただろ?」
 こくりと頷く。
「次の英語、当たるんだったよな? 昨日予習しておいたから、花村もノート見て良いよ」
(そんなこと……ないよな)
 それどころか、桜は陽介に優しい。弁当も作ってくれるし、ノートも見せてくれる。困っていたら助言してくれるし、放課後だって、陽介がどこかに誘うと二つ返事で頷くくらいだ。むしろ、大概は桜が帰ろうと言ってくるくらいなのである。これでもし相手を嫌っているのだとしたら、偏屈とかそういう話ではない。異常な人だ。

 じゃあ何で、と最初の疑問に戻る。
(もしかして、一方的に呼ぶのが恥ずかしいとか?)
 一理あるようなないような。少なくとも陽介は、桜としか呼んだことがない。桜誠司が彼の本名なのだから、これは、彼が花村と呼ぶことと変わらないだろう。相手に名前を問うならば、先に自分の名を名乗れ、ということとは微妙に違うが、相手に呼んで欲しいなら、先にこちらが名前で呼ぶ必要があるかも知れない。
「はい、お弁当」
 思い立ったが吉日。陽介は出来るだけ違和感のないように、努めて笑顔を浮かべた。
「ありがとな――誠司!」
 反応がない。桜はぴったりと固まってこちらを見ているが、瞬きすらしていないようだった。
「誠……司?」
 もう一度呼ぶなり、急にガシャーンと桜がフェンスに倒れた。
「さく、あ、違った。誠司! どうしたんだよ!」
 思い切り背中を打ったらしく、いたた、と桜は背中を摩っている。
 桜は桜であって、他の呼び方ではしっくりこないかも知れない、と思ったが、思いの外、誠司という彼の名前は口に馴染んだ。そもそも桜は、桜花の如く可愛らしい苗字ではあるが、本体はそんな儚くて美しいというイメージではなく、しっかりしたカッコイイ系男子なのである。そういう意味でも、かっちりとして真面目そうな名前は良く似合っていた。
「だ、大丈夫か、誠司」
 背を摩っていた桜は、突然立ち上がった。
「ちょっと……湿布でも貰ってくるから、先に食べててよ、花村」
 言うなりささっと扉の方へ小走りで向かってしまった。呼び止める隙もない。
(上手くいかないもんだな)
 独りきりになった屋上で、陽介は腕を組んだ。こちらが名前で呼べば、上手いこと向こうからも返ってくるのではないかと期待したが、やはり、呼称は変わらない。

 桜の弁当はいつも通り美味しかったが、本人は食べ終わってからやっと戻ってきた。時間もあまり残っていなかったので、桜はささっと昼食を済ませて、その間に陽介は次の授業のノートを拝見し、終わったところで慌てて教室に二人して戻る。
(ちゃんと聞いてみた方がいいのか?)
 はっきり、名前で呼ばないのはなぜか、また、名前で呼んで欲しいと言うべきなのかも知れない。長年の癖になっているからという返答だったとしても、直すことは難しいことではないはずだ。花村も陽介も、文字数的な意味での呼ぶ手間は変わらないくらいだし。けれど、わざわざそんなことを、と自分でも思ってしまうのだ。
(呼びたくないなら……仕方ないし)
 どういう理由があるのかは分からない。嫌われてるとも思わない。けれど、呼びたくない事情でもあるのだとしたら、陽介が彼に強要することは出来ないのだ。強要罪は刑法典にも乗る犯罪なのだから。
「千枝、どこ行ってたんだ? もう授業始まるぞ」
「やー、ちょっとお昼の運動にカンフーやってたらさ、ノってきちゃって」
「だから時間ないよって言ったのに」
「雪子にもあまり迷惑をかけるなよ?」
「わーかってますって!」
 あれ花村、と千枝が机に突っ伏しているこちらを見た。
「どったの?」
 何となく淋しい気持ちになる。皆、同じように名前で呼んでいるのに、陽介だけなのだ。
「桜くん、花村の耳が下がってる」
「犬かぁ!」
 ガバッと起き上がったが、何だか虚しくなってしまったので再び机に伏せる。
「あ、あのさ、花村……」
「なんだよ、桜」
 ぴく、と桜の肩が跳ねた。
「喧嘩でもしたの?」
 雪子の心配そうな声が聞こえたところで、英語教師なのか体育教師なのか良く分からない近藤が「グダフタヌーン」と決して英語らしくもない昼の挨拶と共に入ってきた。

 悶々としたままラーメンを食べても美味しくないだろう。そう判断した陽介は、無駄にお金を使うのも得策ではない、と放課後、一条と長瀬の元に先に向かって今日は行かない、と告げた。
「え、行かないのか、花村」
「なんか食欲ねぇからさ」
「もしかして……昨日まですごかった霧の所為とかじゃないよな」
 少し心配そうに一条が言うので、慌てて陽介は首を振った。
「ちげーって! つか、霧なんてもうないだろ」
 今日は本当に良く晴れている。もう、霧で体調を崩す人も出ないはずだ。
「そりゃ、そうだけど」
「食欲がない? そんなことがあるのか?」
「長瀬にはわかんないと思うぜ」
 悩みの少なそうな長瀬には、確かに食欲不振という状態は似合わないだろう。少し調子が良くないだけだから、と二人には言って、陽介は背を向けた。
「あ、桜にも言っといて」
「言っといてって――おい、花村!」
 別に、どうってことないはずなのだ。桜にだってきっと、悪意はない。だから、と、でも、が同居している。だから仕方ない。でも、ひどいじゃないか。冷たいじゃないか。
 廊下を走ると、ぱたぱたと自分の足音だけが響いている。無機質でとても冷たい。音にも、言葉にも、何の意味もないのに。それなのに淋しいと思うのだ。たった独りにされてしまったみたいだと思う。
「ま……待って、花村!」
 突然、追い掛けてくる同じ音が聞こえた。それが誰だか分からないではないが、陽介は振り向かずに走って行く。階段を降りて、捕まってしまわないように急いで靴を履き替えて、そのまま校舎を出る。
「待って、お願いだから、待って。大輔と康から話を、聞いて」
 校門を出てからは全速力になった所為か、息が上がってきた。バイトをしていても、運動らしい運動は体育のときくらいで、持久力はそれほどない。息が切れてきた。
「待って!」
 それに対して桜は、サッカー部に入っているし、陽介よりもずっと体力がある。追われ続ければ捕まってしまうのは必然だった。分かっていても、逃げていたかった。
 手首を掴まれて、息も上がっていて、これ以上は走れそうにない。河原が見える。あそこで彼と話していたのはいつ頃のことだっただろうか。
「捕まえた……花村」
「離せよ」
 振り返らずに言うと、掴んでいた指先が小さく震えた。
「は……花村、あの」
「あのさ、桜。俺、今、お前と話したくないから、離せっつってんの」
 出来るだけ穏当になるように努めて言ったが、上手く出来ていたかは分からない。背後で息を呑んだ声だけが聞こえた。
(怒るようなことじゃない)
 声を荒げたいのではないのだ。詰りたいのでもない。ただ、喋っていたくないのだ。考えたくない。声を聞きたくない。つまらないことで悩みたくないし、そんなことで彼と距離を置きたくもない。明日から笑って肯ければそれで良いのだから、今だけ。
「ちが、う」
「だーから、話したくないんだって……それだけ。怒ってるとかじゃ、ねぇから」
 心の整理にはまだ時間がかかってしまう。簡単には出来ない。けれど一日、ダメでも三日もすればきっと、慣れて、忘れてしまえる。
「違うんだ……! あぁどうしよう。傷付けたいわけなんかじゃなかったのに」
 いつの間にか錯乱している風の友人に、陽介の頭にも俄にクエスチョンマークが浮かんだ。
「はな、むらが……名前で呼んでくれて嬉しかったんだ。黙って座っていられないくらいに。だけど――」
 何気なくまた呼ばれたことに、また胸がツキリとした。
「もういいから、手、離せって。怒ってるわけじゃねぇから」
「待って! 十秒……いや、十五秒だけ待って!」
 律儀に付き合う必要もないのかも知れないが、無理に手を振り解こうとしても、恐ろしいくらいに強い力で握られているので、それも叶いそうにない。
「はぁ……。いーち、にーい、さーん」
 仕方なく数え始めると、桜は何事かぶつぶつと呟いている。
「他の人なら簡単に出来るのに、どうしてダメなんだろう……花村には、出来ない」
「じゅーさん、じゅーし」
 十五、と唱えて振り向いた。グレーの瞳が丸く開いている。
「よ……よ、よう、す、……け」
 音が意味内容を即座に認識出来なかった。
「……? それ、名前?」
 まるで、言葉を覚えたての子供みたいな発音だ。咄嗟に、呼ばれているとすら思えなかった。パッと陽介の手首から手が離れたと思えば、桜はしゃがみ込んだ。
「ダメだ……あんなに他の人で練習しているのに」
 耳が紅い。何故彼がしゃがみ込んでいるのか分からず、手が解かれたのに、その場を立ち去ろうとも思えなかった。そのことを、忘れていたのかも知れない。困惑したまま、桜の銀髪を見ている。
「好きな子の名前一つ呼べない……!」
 桜がその時死にそうな声で呻いた理由を陽介が知ることになるのは、もっと後のことである。

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