席に座って、他愛もない話をしていた時だった。次の授業で当てられるかどうかとか、放課後はテレビに行こうかとか、そんなことを話している最中。前に座っている月森は、いつも椅子を半分だけ動かして、横向きで陽介と会話している。熱中してくると、陽介の机に頬杖をついていることもあった。距離は近いが、不快はない。そんな彼の様子に慣れ親しんでいた。そんな感じで、いつも通り、月森は身体をこちらに向けていたのである。
「陽介」
もうそろそろ予鈴が鳴るかと思って、黒板の上の時計に目を向けた。携帯を見れば十分だから、と、腕時計はつけていない。呼ばれたので彼の方を見ると、穏やかな目で陽介を見詰めながら、先程まで頬杖をついていた右手の指先をちょいちょいと動かした。どうしたのだろうかと顔を近付けると、すっと二つの瞳の距離が縮まる。ゼロ距離になったところで、唇が重なった。
(――へ?)
重なったそれは直ぐに離れる。月森は穏やかな表情のまま、唇の前に人差し指を立てた。
(……え? 今の、なに?)
きょとんとしているところに、予鈴が鳴り響いた。陽介が問い質そうとするより先に、月森は背を向ける。
(キス、された?)
「う、うわぁぁぁっ!?」
意識した途端、引っ繰り返りそうになってしまった。
「あらぁ、花村クン、元気がいいのはいいけどぉ、もう授業が始まるわよぉ?」
「う、えっ、あ――」
「花村? なにやってんの?」
千枝が振り返って呆れた様にこちらを見ていたが、月森は振り返らなかった。教科書とノートを机に出して、授業の用意をしている。取り立てて何も変わった様子がなかったので、陽介は自分の身に起きたことが現実ではなかったのだろうかという錯覚に陥り掛けてしまった。白昼夢か何か、と思っても、意識はきちんと覚醒している。
(か、感触もあった……)
一応、手の甲を抓ってみたが、痛いだけで、取り立てて睡眠中ということもない。花村クンのことは置いといてぇ、と柏木が何やら板書を始めたが、思考を整理するのに精一杯で、周囲の動きが何も目に入ってこなかった。
(あの、人差し指の動き)
穏和な表情に覗かせた人の悪そうな笑み。唇の動き。
『内緒だよ?』
*
滅裂な思考を立て直そうと努力したのだが、その甲斐も虚しく、眠っていた時と同じ様に真っ白なノートのページ。惚けて授業も頭に入ってこない。柏木に当てられて、何を聞かれたかすら分からないでいたら、前から正答が降ってきた。いつもみたいに。月森は答えだけを的確にぼそりと呟き、陽介の耳は、彼の声を迷うことなく捕らえる。習い性だ。いつも聞いていたから、月森の声は聞き逃さない。言われた通りに言葉をなぞると、柏木が満足そうに頷いた。そんな、いつも通り。
(か、変わんねぇ……!)
眼前の背中を睨み付ける。涼しげにしているが、白昼堂々、しかも授業の始まりも近い人の集まった教室内で、あんなことを仕掛けてきたのだ。幸い、さり気なく月森の手の影になっていた様だし、誰かが騒ぐ声も聞こえなかったことから、誰かに見られたという訳ではなかった様だが、そういう問題ではない。
「陽介、弁当作ってきたから上で食べよう」
声を掛ける様子も変わらなかった。呼ばれて反射的にびくりと肩が上がった陽介とは大違いである。
(なんか、頬も熱いんですケド)
顔が紅くなっている様な気がしたが、確認するだけの勇気がない。月森は平然と、二つの弁当箱を手に、席を立ち上がった。陽介が頷かなくても、共に来ることが当然という様に、そのまま廊下の方へと向かう。
(いやいや待て。オカシイだろ!)
「っ、月森!」
「ん? どうかした?」
振り返った月森は、呼び止められた理由が分からない様に、首を傾げた。思わず陽介が固まる。
「今日は肉じゃがだよ。陽介の好物」
「さ、サンキュ……」
「早く行かないと、場所が取られちゃうぞ」
そう言って笑うと、またすたすたと歩き出す。
「あ、ちょっ、待て」
追い掛けて、いつもみたいに手を引っ張ろうと思ったが、触れる一瞬に躊躇した。なにこれどうしよう、と頭の中でぐるぐる回っている。月森は平然と歩いている。
(ひ、人を、食ったようなことばっかするんだ、コイツは)
冗談だよとか、サラリと言う。
(だから、別に、意味とかない)
平常心平常心と言い聞かせる。どういうつもりであんなことをしたのかは分からないが、大した意味はないのだ。だって、月森は、あんなに普通と変わらないでいる。サイボーグみたいだ、とむっとしながら思った。
*
おふくろの味とか家庭の味とか、そんな肉じゃがが好きだと言ったところ、任せろ、と月森は自信満々に言って、翌日、肉じゃがの弁当を作ってきてくれた。
『この味なら、他に負けないだろ』
誰と対抗するんだか、と思ったが、本当に美味しかった。プロの味ではないし、陽介の慣れ親しんだ味でもない。温かい家庭を思い出すとか、そういうことでもなかった。ただ只管にそれは、陽介の好みに合致していたのだ。だから、向かうところ敵なしだな、と陽介は賞賛した。
(今日もおんなじ味だよなぁ)
いつのことだったか判然とはしないが、変わらぬ出来栄えが、今は何だか恨めしい。
「陽介、その卵焼き、自信作なんだ。食べてみてよ」
「……おう」
乱暴に箸で突き刺して、口の中に放り込む。
(卵焼きに自信作も、なにも)
そう思ったのだけれど、噛んでみて、あれっと思う。
「いつもより……甘い?」
「うん。陽介って、甘めにしてるの好きだろ? 煮付けとかでも。だから、卵焼きも甘くしてみたんだけど」
月森は二つに割って、半分を口に入れた。上々だな、と頷く。
「さっすが、月森マジック――」
甘い卵焼きは、デザートの様だった。プリンをそのまま焼いたみたいに。ちらりと見ても、隣で機嫌良く箸を進める月森は、相変わらずの様子だ。
(悩んでんの、俺だけか)
月森の行動はどこかしら突拍子もない。深い意味なんてないのだ。
(内緒って、じゃあ、なんだよ)
問い詰めるだけの勇気もなく、ふりかけの掛かったご飯を掻っ込むと、ゆっくり食べろよ、と月森が呆れた様に言った。もう何だか訳が分からず、今直ぐにでも昼食を終えて、屋上から叫んでやりたいと思った。そんな思いで弁当を完食する。月森は箸が早い方ではないので、三分の一は残っている様だった。作ってきて貰っておいて、先に食べたから帰るのも薄情だし、普段は月森の方が早いから待っていてくれる。どこか逃げ出してしまいたい衝動と格闘しながら、陽介は空の弁当箱を包んで腹に乗せて、フェンスに倒れこんだ。空が青い。秋風は心地良く頬を撫ぜる。何となしに右手を空に伸ばすと、どうかした、と月森は尋ねた。
(どうかしたのは、そっちだろ)
変なのに変じゃない。陽介は目を閉じた。ひゅうっと風の音が響く。箸がカチャカチャと鳴っているのが聞こえた。
『内緒だ――』
ハッとして目を開いた。青い空はどこまでも同じ色を漂わせている。抜ける様な。
「陽介、眠いの?」
横を向くと、月森も食べ終えた様で、弁当箱が既に包まれていた。ランチバッグに入れると、ん、と手を出す。ご馳走様、と言いながら、陽介は食べ終えた弁当箱を手に乗せた。二つ分がランチバッグの中に収められる。
「や、そういうワケじゃ……」
いつもの昼食は、どんな会話をしていただろうか、と考える。
「風、冷たくなってきたな」
「そ……だな」
「戻ろうか」
立ち上がったのに呼応して、陽介も腰を上げる。影が近付いてきた。
「ねぇ、陽介」
唇が弧を描く。あっと思った瞬間に、重なった。離れて笑みが深くなる。
「なっ、……っの、」
また人差し指を唇に当てて、月森は背を向けた。咄嗟に陽介は手の甲を触れられた唇に押し当てて、周囲を見回した。誰もいないことを確認する。
(俺の、小心者……っ!)
小市民根性が恨めしい。迷っている内に月森は姿を消していた。
「あ、の、ヤロ――」
*
昨晩は寝付けなかった。何度寝ようと目を閉じても、脳裏を過るのは同じことばかりで、目が冴え冴えしていた。
(ねみぃ……)
欠伸を噛み殺しながら、席で伸びをしていると、眠そうだなとクラスメイトに笑われた。
屋上でキスした後も、月森は普通だった。午後の授業を姿勢正しく受けて、放課後は部活に出るから、とさっさと出て行ってしまう。状況にも月森にも取り残された陽介だけ、ずっと、ぽかんとしている。
「おはよ、陽介。早いんだな」
(誰の所為だと思ってんだ……!)
ぷいっと顔を背けると「朝の挨拶も出来なかったっけ、陽介は」と馬鹿にした様に言われた。
「……ハヨ」
「機嫌悪い? 今日、どっか当たる?」
「べっつに!」
月森は平然と笑う。それが堪らない気持ちにさせるのだ。
(なんで、俺ばっか!)
加害者は月森で、陽介は被害者の筈なのに、自分ばかりが悩まされている。
(急にキスすんの、強制わいせつ罪に当たることがあるって、ネットで見たんだからな)
ぎりぎりと睨み付ける。事案は男が女に無理矢理、ということではあったが、一応、そういう風に言われることもあるのだ。問題行動であることを自覚しておいて欲しい。ネットで思わず検索している場合ではないのだが。
「弁当作ってきた。ヴィシソワーズだよ。ってかヴィシソワーズが好物とか、陽介気取りすぎじゃない?」
「う、うるせぇ。つか、なんで好きで文句言われんだよ……」
「文句は言ってない。何を作っても美味しいって言ってくれるから、そういうとこ、俺は好きだけど」
「は……はぁっ!? す、好きとか、お前なッ」
そういうのこそ、女の子に言ってやれ。そう言葉を紡ぐより前に、顔が近付いた。まさか、と思いながらも目を瞑ってしまった。唇はふわりと重なって、直ぐに感覚はなくなる。目を開ければ、月森は笑ってまた、人差し指を立てていた。
(キス魔なだけだったりして)
考えるのが面倒になってくる。それでも陽介が悩ませながら頭を左右に振っていると、何してるの、と手首を掴まれた。
「早いからって、のんびりしてると、遅れるよ」
「わ、わかったから……、手ぇ離せ」
衆人環視の状況で良くも手を掴む気になるものだと呆れて言っても、月森は拘束したまま歩き出す。言っても聞きそうにないので、諦めた。
*
好物がどうとかいう問題もそうだが、弁当にヴィシソワーズを詰めてくるのが、そもそも可笑しいのである。正確に言えば、魔法瓶に入れてあるので、弁当箱に詰めているという訳ではないが。月森はプラスチックコップに冷えたじゃがいものスープを注ぎ込むと、陽介に手渡した。クリーム色とベージュの中間色の様な、他のスープでは見ない色が、透明なコップから見える。これは所謂汁物で、メインディッシュはサンドイッチだ。
「どう? 美味しい?」
「うめぇけど……なんでヴィシソワーズだったんだ?」
「テレビでやってたの見たから」
月森は平生通りの済ました表情で、ずずっとヴィシソワーズを啜った。端整過ぎる横顔をじっと見ながら、陽介は溜息を吐く。
「何、俺の顔見て溜息って……ははぁ、イケメン過ぎるって?」
「あーハイハイそうです。月森さんはイケメン過ぎ」
卵サンドを齧りながら、正面の屋上扉に視線を向ける。これでも顔は良いと言われてきていたのに、月森がいると、さっぱり目立たない。
(まぁ、別に、んなことはどうでもいいけど)
どちらにしてもガッカリと呼ばれるのだから、もう、モテないのは仕方ないと思っているし、月森をそれで疎んじたこともない。寧ろ、友人が美形なのは誇らしいことに分類されるだろう。溜息を吐いたのは別の理由に因る。
(モテるんだから、キスなんて女の子と――)
月森が黙ったので、どうしたかと横を向くと、まるでタイミングを計ったかの様に、顔が近付いてきた。えっと声を上げる間もなく、また、唇が重なる。いつも一瞬触れるだけのそれが、今に限って長い。思わず目を閉じると、唇を割って舌が入り込んできた。
「ん、ぅっ……」
(なに、考えて)
隣に立つ相棒として、彼のことは分かっていると思っていた。それが揺らいでいる。指先が頬に触れた。そのまま髪を掻き上げる様に、首筋をなぞっていく。あっと気付くと、身体は倒されていた。倒された衝撃でも、手に持っていたコップの中身をぶち撒けなかったのは、褒めて欲しい。
口内が解放されるまで数十秒。離れた唇が糸引いているのを見て、思わず身体が跳ねた。
「つき、もりッ……!」
息を止めてしまっていたので、慌てて喘ぐ様に酸素を補給していると、月森は顔を俯けていた。前髪が長くて、表情が窺えない。
「お、お、お前なぁ、なに考えてんだよ!」
「今のは陽介が悪かったと思うんだけど」
「は?」
月森は顔を上げたと思うと、至近距離まで迫って、陽介の瞳を見詰めた。鼻先が触れる。また、唇が重なっても可笑しくない様な距離。
「何って言われても。多分、陽介のことだと思う。陽介も、俺のこと考えてくれた?」
「あんなことされて、他になに考えるっつぅんだよ」
視線を逸らしても、月森が笑ったのが微かな息遣いで分かった。
「……内緒って、なんだよ」
「誰にも言わないでねって意味じゃない?」
「辞書的な意味は聞いてねっつの、この生き字引めが」
「内緒、内証に同じ。表向きにせず、内々にしておくこと。外部には隠しておくこと。また、そういう意向。内密。ないしょ。大辞泉より」
「り、リアル生き字引!」
思わず手を叩くと、月森は噴出した。ばんばんと冷たいコンクリートの床を叩いている。
「……じゃなくて、マジでなんなの」
「あれ、吹聴されたかった?」
「ちげぇ! 言われなくても、誰にも言わねぇよ!」
「あぁ、そうなんだ。二人だけの秘密って結構ヤらしい響きじゃない?」
今度は陽介が、思わずぶはっと噴き出した。そのまま咽てゲホゲホしていると、隣の月森は烏龍茶のパックを啜っている。
「まぁ、秘密だよ。墓場まで持っていくべき秘密」
「墓て」
「心中です」
「あれっ、そういう話……?」
頷くと、月森はまた、人差し指を唇に当てた。今度は陽介の唇に直接触れる。
「この秘密と心中してよ」
そう言って近付く唇を、どうしてだか拒めなかった。
世間の主花ってこんなじゃないかと思ったんですけどそうでもないんですかね??
いまだに世界標準の主花が分からないでいます!!
題名はHEROの再放送見てたからとかそういう理由です。