After Light

 青空の向こうには、好きだった人がいる。時折、届くのではないかと思って、陽介は屋上で手を伸ばす。もはや癖だった。冷たくなってきた風に吐く息は白くなって、指先も冷えていく。
「陽介、またここにいた」
「……相棒」
「良くいるよな」
「お前も、よく見付けるよな」
 フェンスに背を凭れかけて、また空を仰ぐ。今日は天気が良いな、と月森は笑った。
「陽介のことだから」
「そりゃ、どーも」
 うんと伸びを一つして、こちらを注視するような視線を窺い見た。灰色の眼差しは、どこか、霧がかった街並みにも似て見える。
「何が見えるの?」
「別になんも。しいて言うなら、八十稲羽の全景?」
 見下ろす街並みは初めて来たときに見た、田舎の風景と変わらない。都会の光に溢れる生活を送っていた陽介を驚かせ、そして落胆させた街並みだ。
「小西先輩のこと?」
「お前って、訳知り顔って感じだよなぁ、いつも」
「不快にしたのなら謝るけど」
「ちげぇよ。ただ、すげーなって。よく見てんだなってこと」
「陽介だけだよ」
 けったいな科白に陽介は肩を上げた。それは、女の子になら殺し文句だろうが、友人相手に使うのはどうかと思う。何と返したものかと考え倦ねていると、月森は陽介の隣で同じようにフェンスに凭れ掛かった。青空を仰ぎ、溜息を吐く。
「女の子に言ってやれば? そんで、俺が守ってあげたいとでも――」
「俺は、陽介を、守ってあげたいんです」
 何を言っているのだ、この友人は。陽介が胡乱な目で隣の友人を見ると、月森は灰色の眼差しをじっと傾けた。
「俺は、陽介が好きなんだよ」
 思いの外、さらりと、言われたので、そっかぁ、と流してしまいそうになった。
「……ちょっと待て」
「好きです。付き合って――ください」
 何の冗談か、それとも罰ゲームの一種だろうか。ぎょっとして顔を見詰めていると、月森は瞬きを数回して、右手で顔を軽く覆った。隠れ切れていない耳元が紅い。
(……本気、で?)
「帰る」
「は? ちょ、ちょっと待て!」
 言うだけ言って、言い逃げする気だろうか。軽やかな動きで扉に走っていく長身の背を追い、陽介も慌てた。今ここでスクカジャが使えたら楽なのに、と思いながら、頭の中でジライヤをイメージする。何となく身体が軽くなったような、プラシーボ的な効果を感じつつ、月森が扉を開けた瞬間に左手を掴んだ。
「逃げるなよ! てか、逃げるなら、なんで言った!」
「勢いで」
「それ、ただの無謀なバカじゃね!?」
 勢いが良すぎる。告白した相手をどうして自分が引き止めなければならないのかと思うと、頭が混乱してきた。
「俺は、陽介が好きなんだ」
「なんで二回言ったの!?」
「付き合って」
 声は急に真剣味を纏った。うわ、と思う内に、耳にするりと入り込んでくる。さっきまで照れていたのが演技だったみたいに、月森は急に腕を伸ばすと、陽介の頭を引き寄せた。そのまま額に口付けを落とす。変わり身の早さに戸惑って、同時に、頬を撫でる震えた指先にも胸がつまされた。
(本気だ)
 冗談なんかじゃない。目が合わせられなくて、少し俯いた。
「いーよ」
「本当に!? あ、どこかに付き合うんじゃなくて、恋人にだぞ?」
「んな間違いすっか」
「や、ちゃんと意思確認をしないと……」
 言質を取っておかないととか何とか、陽介の右手首を軽く掴んで、月森はぶつぶつ呟いている。
 好かれているというのは安心だ。
(俺はここにいていいんだっていう、感覚)
 彼のことを相棒だと呼んで、隣に立っているような気がしていたけれども、本当は違う。彼はいつだって独りで前に立っていた。生田目を前にしても動じず、揺らがずに。そして、真犯人だった足立を前にしても、やはり同じ。冷徹な視線で静かに「罪は罪だ」と言い切って断罪した。誰よりも頼れる背中を陽介は知っている。いつだって前にあるばかりの。
「陽介」
 ささめく声に、顔を上げた。
「本当に、俺でも良い?」
 男だよ、といまさら、月森は笑う。それを言うなら「お前こそ」だ。
(俺なんかのなにを買ってんだよ)
 いくつも告白されているのを知っている。いつだって声援を浴びているのを知っている。陽介では決して敵わない、手が届かないようなところにいるのに。
(もったいないだろ。オカシイだろ)
(俺なんて、まだ――)
 まだずっと、空を見上げてばかりなのに。
 胸の隅に、無残に奪われてしまった人の影が残っている。白い影が、レントゲンを撮ったら見えるのかも知れない。下らないことが頭を去来する。
「いいよ」
 また頷くと、握る力が強くなった。



 誰が情報を流したのか知らないが、月森と陽介が付き合うようになったらしい、と翌日には学校中に広まっていた。誰が、と言っても、月森以外に該当しそうな人物はいないだろう。もちろん、陽介が好き好んでそのような噂を流布させるはずもない。しかし本人に聞いてみたが、さぁ、と笑うだけだった。昨晩は珍しく彼からメールが来ていた。
 お昼には弁当が用意されていて、帰りは一緒に帰るとジュネスで奢ってくれる。月森柚樹は彼氏らしい彼氏であった。家まで送ってくれるし、寒いと言えばマフラーを貸してくれる。月が出ていれば、月が綺麗だと笑い、可愛い女の子を見ても、陽介の方が可愛いよ、と言う。ほんの数日を過ごしただけでも、陽介は、彼がなぜモテるのかというものの片鱗を見た気がした。逆に言えば、これでモテないわけがない。優しいし気が利くし、なんでも出来る。その上で頭も顔も運動神経も良ければ、もうどうにもならない。正直、恋人としてよりむしろ、同性の立場として、嫉妬したくなってしまうほどだった。けれど、月森がそれを傾けるのが自分にだから、嫉妬も対象を失って困惑したまま果ててしまうのだ。
 お手をどうぞ、と月森は良く右手を差し出す。男二人で手を繋ぐなんて寒いから絶対に嫌だ、と陽介が言うと、恋人なのに、とじっと灰色の目が陽介を見詰める。逃したりしない、という鋭い眼差しに、最終的に陽介が折れて手を繋ぐものだから、八十稲羽ではだいぶ、この光景が普通だと受け取られるようになってきてしまっていた。
「陽介、手」
 ん、と差し出されるのは温かい指先だった。陽介の手が冷えてるから、と最初は口実のように言っていたような気もする。それが口実として機能していたのかどうかも分からない。月森はあまり、好きだとか愛してるとかは言わなかった。それに安心して、陽介も口には出さずにいる。付き合っているのだから、当然、相手のことを好いているのだと分かってくれていれば、それで十分だ。ただ、空を見るのは止めた。屋上にも、昼ご飯でしか行かないようにしている。いつまでも未練をそこに置いてはいけないのだ。



 雨の日は憂鬱になる。
 かつては、長雨が続けばテレビの画面を食い入るように見ていた。そこに、彼女と同じ、苦しむ姿が映し出されるのではないかと。
 真夜中に雨音で目覚めることがある。呼ばれるようにテレビの画面を見ても、何も見えない。小西先輩、と呼んでみても、そこにはもはや、誰もいない。テレビに落とされるよりもずっと前に、陽介は早紀を誘ったことがある。八十稲羽は退屈だから、沖奈で遊びませんか、と。ちょうどその頃、雨が続いていて、誘ったその日も雨だった。廊下に佇んでいた早紀は、雨で煙る窓の向こうをじっと見つめて、窓を濡らす結露を指で拭って、花ちゃん、と文字を書いた。その仕草も気怠げな視線も覚えている。
『雨が止んだらね』
 彼女はそう言って、あっさりと誘いを断った。雨はそれからしばらく続き、陽介は陰鬱な気持ちで来る日も来る日も晴れぬ暗い空を眺めていた。曇天と、土砂降りの雨。思えばその時から、雨天に良い思い出なんてなかったのだ。数日も経って、突然止んだ雨の元、晴れた青空に太陽を見ている最中に、早紀が帰り道を歩いているのを見たけれど、もう、声は掛けられなかった。きっとあの言葉はただの断り文句だ、と、陽介にも分かっていた。それでも、雨が降っているのを見ると思い出す。雨が止んだらという言葉も、続いた雨の後に見付かった、最後の姿も。
(雨だ)
 昇降口を出ようとすると、雨がぽつぽつとおりてきていた。そろりと手を伸ばすと、雨粒が掌に落ちる。予報では降水確率は高くなかったし、傘を持ってきていなかった。ふう、と溜息を落とす。仕方ない。濡れて帰ろう。幸いにして雨が小降りだったこともあり、陽介はそのまま足を踏み出した。ぽつ、と落下する水滴が、鼻先に当たる。思わず空を仰いだ。曇天は深く、空の色は灰に染まり、暗い。ふと、月森の髪の色や、その重苦しい量を思い起こす。空を見て別のことを考えたのは久しいことだったように思うし、同時にまた、雲の先にならば或いは、とも思った。そうだ、あの人は決して、青い空の向こうに、綺麗に輝いている人ではない。マヨナカテレビの中で見たように、苦悩していたし、きっと、疲れ果てていたはずだ。彼女と出会った頃の陽介のように。
(いまさら気付くとかおっせぇの)
 脇を女の子たちが、学生鞄で頭を庇うようにして走り去っていく。陽介の鞄は気に入ったものではあるが、こういうときに不便だ。むしろ、本人よりも濡らしたくないとすら思うのだから厄介である。とりあえず、ヘッドホンだけは外して、鞄の中にあるビニール袋に、ウォークマンとともに詰めて口を結んでおいた。電化製品に水気はNGだろう。そうやって困るから、陽介は傘を用意していることが多い。持っていれば、傘を忘れた女の子に、はいどうぞと相合い傘なんか誘ったりも出来るし、少々嵩張ることを除けば携帯するメリットは大きいだろう。どうして今日に限って忘れたのかと思いながら、前へと足を進める。走っても濡れる面積は変わらないとか、どうでも良い話を聞いたことを思い出した。それを信じたわけでもないが、走るような気分にもならず、いくぶんか早足にはなったが、走り出すことはしなかった。肩が段々と濡れていく。整えた髪も、ズボンも、スニーカーも、どんどん濡れていく。身体中が重くなっていく。
 はっと気付いて空を見上げても、水滴が流れ落ちてくるばかりだった。足元を見ると、黒い、自分の影がまた笑っているような気がする。
『独り法師は淋しいもんなぁ』
 淋しいから、伸ばされた手を掴んだのだ。好きだと、特別だと言ってくれるから、それを甘受した。本当は愛なんてどこにもない。遠く離れた空の上にまだ残っているような気がしているばかり。呼んでも帰ってこないのに。
「小西先輩」
 彼女を想って泣いたことなどなかった。テレビの中、助けなければならない人たちがいる。自分たちにしか出来ない。だから。相棒が行こうと呼んでいた。いつだって「陽介」と、優しい声で。
「小西先輩――!」
 叫んだら聞こえるだろうか。雨と霧が深くて、前が見えない。ふと気付くと、雨粒は先程よりもずっと量を増していた。曇天と、土砂降りの雨。中のシャツが肌に張り付いている感覚が気持ち悪かった。まだ家までは遠いのに、すっかり濡れ鼠と化している。母親に見られたら叱られるだろう。この雨が止んだら、と思って顔を上げた。
「陽介……?」
 白い傘が視界にふわっと入り込んだ。傘の持ち主は瞬きを重ね、じっと灰色の目をこちらに傾ける。
「なに、してるんだ」
「傘忘れちゃって」
 周囲をきょろりと見回したと思うと、月森は陽介の腕を掴んだ。そのまま真っ直ぐに突き進んでいく。
「あ、相棒?」
「なにその格好」
 声が苛立ちを含んでいる。
(珍し……)
 付き合うようになってから、彼が声を荒げたことはなかった。強引ではあるけれど、いつも、甘めの声で笑っている。
「もしかして誘ってるの?」
「へ……? なにが?」
 引っ張られて、引っ張られて、住宅街を抜け、鮫川の河川敷付近まで連行された。ここなら屋根があるなぁ、と屋根を陽介がぼんやりと見ていると、両肩を掴まれた。
「まだ気にしてる」
 今まで、月森と帰ったことはほとんどない。最初の一、二回、慣れない彼に付き合って道を歩いたこともあるが、後は、忙しそうにしているのを見ているだけだった。ぼんやりしていても忙しく日々は過ぎていくし、捜査も進んで、事件も解決した。それで終わり。彼は三月になれば帰ってしまうし、また、陽介にも元通りが返ってくるだけのことだった。
「陽介はいっぺん、泣いてみればいいんだ」
「泣けって言われても」
「前後不覚になるくらい、なにもかも忘れてしまうくらいに、泣いて喚け」
 じゃないと、と月森は灰色の目で睨んだ。
「ひどいことしたくなる」
 雨音が鼓膜に突き刺さる。
(なにも知らないくせに)
 頷いたのは自分なのに、責めるのはお門違いだ。普通、恋人が未練を残しているとしたら、それを許す必要なんてないだろう。
(この街での俺のことも、……小西先輩のことも)
 並んで帰ったことすらほとんどなかったのに、どうして。
(好きだなんて言ったんだ)
 テレビの中、新しい場所に向かうときはいつでも呼ばれていた。後ろを任せるから、と言われて、いつも背中を見ていた。
「陽介は気付いていなかったかも知れないけど、俺はずっと、陽介のことばかり見ていたんだよ」
 ただ、と月森は首を横に振った。
「近付きすぎるのが、怖かったんだ――と、思う」
 全部見てたし、知ってる、と月森は言う。肩を掴んでいた手が離れて、そろりと目尻に触れた。涙で濡れてなどはいない。先ほどまで雨に降られていたから、それで冷えているという程度だ。泣けと言われて泣けるほど器用ではないし、逆に、泣くなと言われても泣くときは泣いてしまうのだろう。
「泣かせていい?」
「……ヤだよ」
 手を振り払って、空を見る。雨が止んでも、もう彼女には会えない。話したかったことも、伝えたかったこともあったのに。
「もっと、話したかった、だけなんだ」
 嘘つきと言いたそうな目で月森はじっと見ていた。嘘でも本当でもない。時折差し出される手が、掴む指先が、心地良いと感じている自分もいる。空を見上げてはならないと律し、その温度に奪われてはいけないとも律している。感情の向ける先が分からない。どちらに天秤が傾いても、きっと、不義理だと思うのだ。
 嫌だな。泣きたい。と、その時、ふと思った。けれど泣くのは、いつまでもずっと、空ばかりだった。

わりとざらっと終わってるのは、フォロワさんと話していたときに
全裸待機してますね!!! って言われちゃったんで、
待たせて風邪を引かれては困る(笑)と急いで仕上げたためですw
練ったら長くなりそう。
うちの主人公は陽介に甘いので、ひどいこととかたぶんできない。
イメソンは雨と夢のあとにで。

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