「……こっちは大丈夫だ、相棒。そっちは?」
「あぁ、誰もいない」
「よっしゃ、行くぜ!」
陽介は助走をつけると、勢い良くジャンプした。そのまま塀に手を掛けて、腕の力だけで身体を押し上げる。右足まで掛けられれば、後は楽勝だ。よっと掛け声を出しながら、塀の上に座ると、月森は悠々と右手で塀を掴み、弾みをつけたと思えば、その上に乗った。
「手足が長いと有利だな」
「大して変わらないよ」
陽介は伸ばしても届かなかったから、助走をつけてジャンプしたのだ。その言い草は下手すれば嫌味にもなりかねないが、陽介の親友はそのような意図を持って発言したりはしない。事実をありのままに述べる。そういう相手だ。月森は長居は無用とばかりに塀から下りる。陽介はその姿を、頬杖をつきながら見ていた。一々の仕草がイケメンなのだ。すらりと長い手足は、まるで舞台にでも立っているかのように、爪の先までぴしりと整っている。量の多いアッシュブロンドの髪も鬱陶しさを感じさせず、爽やかに風に揺れる姿は正しく単なる美形。思わず繁々と眺めていると、振り返った月森は、はい、と右手を差し出した。
「平気だっつの」
人より転び易い気はするが、手を差し伸べて貰うほどではないつもりだ。そう言うと、月森は首を傾げる。
「下りないのか?」
陽介は首を横に振って、右手を支えに地面に着地した。足が少しだけジンとする。
「潜入かんりょーってか、ホント人いねぇな」
「休日は学校を閉めているんだから、当然だろう?」
そして、禁じられていることを守る行儀の良さからということではないが、休日にまで積極的に学校内に侵入したいと思う生徒もいない為だろう。
「んー、でも、誰もいないって思うとさ、ちょっと楽しいよな」
月森は頷くと、笑顔を見せた。
「秘密基地を思い出す」
「ははっ、なんかそれ、分かるかも」
二人でしか知らない秘密の共有。陽介も幼い頃、友人と探検ごっこだの秘密基地だので遊んだ記憶がある。しかし、そんな柔らかい記憶と重ねるような、ときめきのあるシチュエーションではない。単純に月森が携帯を家に忘れたから困って、二人で学校に忍んで入ったというだけだ。
八十神高校は厳しい校則を有しているような学校ではない。一般の公立校と比較しても余りある程度には、自由な校風だ。制服は一応着てさえいれば何でも構わないし(女子が男装しても構わないくらいだ!)、スカートの丈の長さが社会常識に沿えば可であるどころか、上からジャージをすっぽりと着てしまっていても校則違反にならない。学ランの下も、別にワイシャツを着るようにとは言われないし、アクセサリーを付けようが、ヘッドフォンを首から掛けていようが、咎められた試しがないのである。携帯電話だって、授業中に鳴らさなければ、基本的に所持していても構わない。非常に校則は緩い。けれど、休日の閉校だけは徹底していた。それと言うのも、連続殺人事件が起きて、実際に自校の生徒も被害に遭っている為なのだろう。普段から学校には不審人物が入らないように教師が目を光らせているだけではなく、休日はこれ以上の事件が起こらないように完全に閉め切っていた。尤も、一連の事件の犯人のことを考えれば、それら対策が意味を成していたとは言い難いかも知れないのは皮肉だが。
とかく休日は完全に閉校となっており、生徒が何を言っても、一切開けてくれたりはしないのである。忘れた物が携帯電話だとしても例外は認められない。しかし、健全な男子高生が携帯電話を一日(正確に言えば、二泊三日ほど)学校に置いたままにしておいて構わないとは思えない訳である。もし忘れた物が休日開けに提出せねばならない課題だったとしても、勉強道具ならば陽介はわざわざ取りに戻ろうとは思わないが、携帯電話なら話が別だ。
「でも、陽介が付き合うことはなかったんだぞ?」
「いーって。渡りに船って言うじゃん」
「……乗り掛かった船か?」
「そうそうそれ」
発端は、陽介が月森の携帯に電話をしたことにある。幾ら掛けても彼が出ないので、不思議に思って自宅の電話を掛けてみたところ、事が発覚した。本人も何故学校に忘れてきてしまったかは分からないと言っていたが、必ずポケットに忍ばせる、という習慣がないことが理由にあるのかも知れない。
月森は現代人としては稀に見る、携帯電話に依存しない若者である。メールは嫌いだと公言しているし、偶に聞くと充電が切れているなどと言い出すこともあった。だから、なくても本来的には困らないのかも知れない。しかし、今は話が別なのだ。彼の監護者たる叔父の堂島遼太郎、そして従姉妹――と言うか妹と言うべき存在の菜々子もまだ入院中。どちらも容態は安定しているが、何かあった時の為に、連絡手段としての携帯電話は、今彼に必須なのだ。そう思ったから、陽介は学校に取りに行った方が良いと促した。それに付いてきた理由は、閉められた学校に潜入するというシチュエイションの妙に心を踊らせたからと言うよりも、相棒が困っている時には力を貸すべきだと思った為である。月森は一人ならば、こんな大胆なことはしないだろう。
「一人より二人で、だろ! もし見付かって怒られちまっても、その方がいいじゃん」
「ありがとう」
月森はまた笑みを浮かべると、瞳を細めたまま、誰もいない空っぽの校舎に視線を投げた。もう見慣れた古めかしい建物は、平日と変わらないようにそこに在る。季節が過ぎて、いつの間にか冷えてしまった風が頬を撫でると、寒さが急に染み渡って感じられた。もう、一年も終わりの師走。師ではないけれども、陽介も月森も、忙しく駆け回った。危うい色の空を疾駆し、霧に埋まってしまいそうな街で、必死にもがいていた。漸く真犯人を捕まえて、平穏を取り戻したのだ。冷たい色の空だとしても、これは自分達が、自分の手で取り戻したもの。
走っていたあの頃、雪がどれだけ降っても寒さよりも重要なことばかりに目を向けていて気が付かなかった。意識すれば寒い。寒いな、と思わず陽介が言うと、寒いな、と月森も返した。
「お前は前閉めろっつの。見てる方がさみぃ……」
月森の学ランは、今日もボタンが全開となっている。雪が降ろうが変わらないのだから、これからの季節、目に悪そうだ。
「閉めると苦しいから苦手なんだ」
「前のガッコは?」
「ブレザー」
「あーなるほど……でもネクタイも結構、苦しくね? 俺も前はブレザーだったんだけど」
どうだろう、と月森は首を傾げた。
「陽介もブレザーだったのか。学ランを見慣れているから、違和感があるかも知れない」
「そりゃこっちもおんなじセリフで返すぜ?」
「陽介は少し童顔だから――ブレザーだと、締まって見える感じかな」
「なにそれ」
「似合うだろうなと思って」
自分の方が、ブレザーでも何でも着こなせます、というような済ました顔で、月森は言うのだ。お前も似合うだろうよ、とは言う間でもない。そもそも彼は、春には元の学校に戻って、制服もブレザーに戻るのだ。陽介に違和感があってもなくても。写真とか持ってないの、と聞かれたので、携帯電話の画像を検索してみたが、自分の写真は入っていなかった。
「あ、制服ってのは、これ」
自分のそれはなかったが、別れる前に友人を撮った写真が残っていたので、ほら、と画面を見せると、月森はじっと写真に見入っていた。
「ふっつうのブレザー」
「仲良かったの?」
「え、桂木? 仲は良かったと思うけど」
言われて咄嗟に画面を見ると、天然パーマだったという昔の友人が、瞳を光らせていた。キツイとか、冷たいとかいう友人ではなかったが、ややツリ目で、はっきりとした瞳を持っている。
(あれ、なんか月森と似た感じだな)
パーツが近いのかも知れない。どちらも整った美形であることだし、そういう造形の顔が好きだということもあるのだろうかと思った。選んで友人関係を構築しているつもりはないにしても。
月森は写真有難うと言うと、校舎の方に歩き出した。陽介も携帯電話を仕舞って、後を追いかける。
「ブレザーでもヘッドフォンしてた?」
「まっさか! 校則厳しかったから、そんなんムリムリ」
「あぁ、なるほど」
それに、音を遮断する必要性もなかった。今ではここでも必要性はないのだろうが、気に入っているのでそのままにしている。
「ピアスとか開けると、一発で停学になんの」
「言われてみれば、俺のところもそうだったかな。ここはそういうことないな」
「だな。りせとかもいっつもピアスしてっし」
「陽介は開けたりしない?」
「んー、別にそんなに興味は……ってか、痛そうだし」
「開けてあげようか?」
横を向いた月森は、にこりと笑う。
「だから、痛いのヤなんだって」
「痛くしない」
「……お前が言うと、マジで痛くなさそうなんだけど……」
身体の一部に穴が開くのだから、痛くない筈もないのだが、どうにも月森ならば何でも出来そうな気がするのだ。温和で温厚で、いつも優しい。我が強い訳でもないのに、彼の灰色の瞳は誰よりも強い意思を宿しているように見えた。言葉はキツくなくとも、厳しく響くことがあり、それに律されることも少なくはない。けれどやっぱり、恐い人でもないのだ。誰にも優しいから好かれているし、そこに分け隔てはない。傍で見ていても、彼は誰にでも優しい人だった。等しく優しく、そして、公平故に、誰か一人を特別にはしない。恋人がいないというのは、誰かにその優しさが特定されてはならぬと彼自身が定めているかのようにも見えた。
(つっても、特別捜査隊にはやっぱ違う気はすっけど)
誰についても月森は良く見ているなと思うことは多いが、やはり普段から過ごしている仲間達とが一番だ。そして、相棒だからか、やはり陽介とが一番距離が近いとも思う。
つらつらと会話をしながら昇降口まで辿り着いた。中の下駄箱が良く見える硝子製のドアを開けようとしたが、やはり施錠されている。それは十分に予想済みだったので、やっぱり鍵が掛かっていると月森に言い、渡り廊下の方に回り込んだ。実習棟を教室棟を結ぶ渡り廊下。校舎への出入口には全て鍵が掛けられているのだが、その、渡り廊下から教室棟への出入口の鍵が最近壊れて、施錠出来なくなっているという話を数日前に聞いていたのだ。そこからなら、校内に侵入出来るだろうと予め踏んでいた。
陽の光は明るく、ぽかぽかとした温かい光を背には受けているが、吹き付ける風は相反して冷たい。早く校内に入りたいと思ったが、校内にだって暖房はついていないから、寒いだろう。それでも風を凌げるのだから、全く違う。渡り廊下に向かうと、果たして陽介の予期していた通り、施錠されていないドアは簡単に押し開くことが出来た。流石に靴のまま廊下は歩けないので、取り敢えずスニーカーを脱いで、靴下で廊下に上がる。
「それにしても、簡単に侵入出来たな」
些かセキュリティに不安を残す結果となってしまった。月森が眉間に皺を寄せていたので、陽介は右手を軽く振って、何となくフォローしてしまった。
「まぁ、そこの鍵は来週業者が来るっつってたし、そもそもこんな面倒なことするヤツは早々いねぇだろ。言ってみりゃ、俺らだけの、ちょっとした秘密の抜け道って感じで」
「秘密――」
「バレたら怒られんだから、秘密に決まってんだろ。誰にも言うなよ」
陽介が人差し指を唇に当てると、月森は笑みを浮かべて頷いた。
突き当りの階段を上って2-2の教室に向かうつもりでそちらに向かっていると、ふと見えた掲示板に、白い模造紙が貼られていた。その上に、写真が何枚も貼ってある。前には机が出ていて、枠線の書かれている紙と鉛筆、そして投書箱のような物が置かれてあった。
「あれ、これって……」
「写真だな」
月森も掲示板の前で立ち止まると、視線を上下左右に移しながら、ずらりと並ぶ写真に視線を送っている。
「体育祭の時のか! うっわ、なんか随分前のことに感じんだけど……」
「一枚百円?」
模造紙の上方には、月森が言った通りの文字が書かれていた。
「ほらここ、番号付けてあんだろ? 欲しいのこっちの紙に書いてさ、焼き増ししてもらえんの」
「文化祭や修学旅行では見なかったけど」
「体育祭は、カメラ持ってくるヤツいないだろ? そういう需要」
「なるほど」
「土曜の夕方にでも貼ったんかな。まだそんな話聞いてねぇし……」
ざっと見た感じ、写真は一年生から三年生まで万遍なく撮られているようだった。ピンの写真は少ない。大概、競技中の物だ。カメラマンらしき人物がいたような記憶もないが、卒業アルバムのように、いつのまにか写真が撮られていることは知っている。流石に綺麗に撮られている写真ばかりだ。
こういうものを、一番乗りで見られる機会は滅多にない。タイミング良いなぁとか思いながらざっと写真を見渡した。
「ま、じっくり見んのは後でもいいか。先、携帯取ってこようぜ」
声と共に視線を向けると、月森は写真が並ぶ模造紙の、左端に視線を傾けてぼんやりとしていた。
「なんかあったか?」
そのまま呼び掛けても動かないので、陽介は首を傾げた。
「相棒? おーい、月森?」
トントンと右肩を叩くと、月森は肩を跳ねさせて陽介の方を向いた。
「ケータイ。写真は後でもいいだろって」
「あ、あぁ、そう……だな。携帯、取ってくる」
「どうしたんだよ、急に。あ、カワイー子の写真でもあったか?」
あはは、と月森は誤魔化すように笑って、陽介の脇をすり抜けて階段に向かった。
「欲しい写真なら、番号控えといた方がいいぜ。さっきさ、俺らが写ってるのもあったし」
「俺と陽介?」
「里中とか完二も写ってた。記念になるから、買っとけよ」
三段上ったところで、あぁいうのって、と月森は唐突に振り返った。
「結構、皆買うのかな」
彼はいなかったから知らないが、去年も同じように写真が掲示されていて、焼き増しを頼めるようになっていた。陽介自身も自分と、知り合ったクラスメイトたちと撮った写真を数枚だけ頼んでいるが、周りを見ても、頼んでいる人は多いようだったと記憶している。そんな去年の光景を思い出しながら頷いた。確か、同じ場所に貼られていた筈だ。
「買うと思うけど。自分写ってたりしたら、一応」
「自分が写ってなくても?」
月森はまた背を向けて、階段を上っていく。陽介もそれを追って、掲示板に背を向けた。
「別に制限はないだろ。好きな子とか写ってたらさ、買っちゃうかもよ? 集めるときに、教師にバレんの覚悟なら」
月森は、そっか、と生返事をしながら、階段を上っていく。完二だったら、直斗の写真は頼めないかも知れないが、りせならば月森が入っている写真を全部という勢いで買うのではないだろうか。そしてその論理の下でならば、月森の写真は相当に売れるだろうことも予想出来る。
「欲しいモンあった?」
「いや、ただ――」
何かを言い掛けた彼の声を遮るように、急にポケットから音が鳴り響いた。陽介が慌てて自分の携帯電話を取り出すと、着信はクマ。どうせ碌な用事じゃないのだろうなと思って、眉間に皺を寄せつつ、悪い、と断って通話ボタンを押す。
『ヨースケェ! 大変クマァァ!』
携帯電話を耳に当てた瞬間、クマの高めの声が響いてきた。
「うるっせぇ、クマきち! 耳がおかしくなるだろが!」
クマは加減を知らずに喋るので、耳がキンキンと響いて痛い。思わず携帯を離して少し睨む。電話口からは、まだ騒ぎ立てる声が響いていた。
「ワリィ、相棒。俺さ、下で待ってっから」
騒音の元を連れたまま教室に付いていくのも煩わしいだろう。既に二階に着いていた月森にそう言って軽く手を振ると、上からは「分かった」と手が振り返された。
「うるせぇからボリューム落とせっつってんだろ!」
階段の丁度真ん中辺りで反転して、上がってきたところを下る。そして電話に向かって思いっ切り怒鳴り付けてやると、漸く大人しくなった。何もかもが一々大袈裟なのだ、この同居人は。
『ヨヨヨ、ヨースケ……クマは、クマはダメなクマクマ……』
「だからなんだってんだよ。最初から説明しろ」
靴下でずっと歩いていたので足が冷えていた。上履きでも履こうかと思い、昇降口の方へと手持ち無沙汰のように足を向ける。また、掲示板の写真に目が止まった。ふと、先程は月森が前にいて見辛かった左の方を見ると、珍しく陽介が一人で写っている写真が目に入った。いつ撮られたのか分からない、手の甲で額の汗を拭っている。体育祭は、秋ではあったが、流石に運動量が多くて汗をかいた記憶がある。そして面倒だったけれど、結局は楽しかったことも徐々に思い出してきた。
月森と過ごす行事というのは、一度きりしかない。林間学校も、修学旅行も、文化祭も、何もかも全て、今年度限り。なればこそ、特別として、写真に切り取って残して置きたいとも思うのだ。
『えーっとー、ヨースケェ、怒ったりしないクマ?』
「……場合による」
感傷に近い思いに浸ろうとしても、クマの言葉による嫌な予感で掻き消されてしまう。電話しながらではゆっくりしていられそうにもないし、やっぱりまた後でと思いながら掲示板を後にした。こうして見ると、相棒に劣らず、自分も中々に爽やかで決まっているな、と密かに自画自賛してみる。
(一応、自分の写真も頼むかな)
そんなことを思いながら。
*
クマの電話は、それから十分超にも及んだ。昇降口の前であぁでもないこうでもないと会話していたが、結局、後で返すのも手間でしかないから、上履きは履かずに靴下のまま。冷えた廊下にうんざりして階段に腰を掛ければ、臀部が冷える。
「ったく、あんのバカグマ」
要約すれば、陽介の使っていたマグカップを落として割ってしまったというだけなのだが、そこに行き着くまでに何分も掛かっている。たったそれだけなら、一言で謝ってくれれば無駄に怒られることもないというのに。そもそも、通話代は全て陽介持ちなのだ。長々と電話するのは勘弁して欲しい。ただでさえ陽介は金欠なのである。漸くクマから解放されて携帯電話の画面を取り敢えず睨み付けてみたが、無意味な行動だったので、諦めて肩を上げた。こうやってクマに無意味に振り回されるのにも、慣れてきていることも実感している。
「あれ、そういや、アイツまだ……」
きょろりと左右を見回し、背後も振り返ってみたが、月森の姿はない。教室棟の中央階段から降りてきたという気配も感じてはいなかった。そもそも、降りてきたのならば、声を掛けずに去っていくということもないだろう。
(携帯、見付かんなかったのか?)
昨晩聞いたところでは、多分机に入れっぱなしにしたんだと思う、と月森は話していた。どうして携帯電話を机に入れるのだろうかとは思ったが、深くは追及しいていない。まぁそういうこともあるのではないか、と漠然と思っただけだった。しかし、もしかしたら、彼が予期していた場所に携帯電話はなく、未だその所在を探しているのかも知れない。
陽介が着信を鳴らして気付かないのだから、家にはなかった。もう今は彼もバイトをしていないから、バイト先という選択肢もない。そして、昨日は寄り道せずに家に戻ったので、他で落としたということも考えられない。即ち、校内にある可能性が極めて高い――だから、教室を探し、なければ別の場所を、と至ったとも考えられるだろう。だとしたら、一声掛けていって欲しいとは思った。あの月森が、電話を終えた陽介と入れ違いになってしまうことを考えなかったのだろうか。らしくない。
(携帯が見付かったら連絡すりゃいいって思ったとか)
うーん、と陽介は腕組みして首を捻った。二階から実習棟に抜けたとも考えられる。連絡が取れないから直ぐには合流出来ないとしても、所詮は校内だ。迷うこともないし、いずれは出会える。しかも、階下からはクマとの通話が聞こえていたとも考えられるし、それなら邪魔するのも悪いだろうと思ったのかも知れない。一応、新着メールを確認してみたが、新しいものはなかった。連絡がないのならばやはり、携帯電話はまだ見付かっていないのだろう。
月森は基本的に優しいし、どことなく心配性のような気がするのだ。陽介は不運が多いということを気にしてくれているのかも知れないが、何かと心配してくれているし、テレビの中でも、はぐれないようにと常に後ろを確認しているように見えた。陽介が連絡を後回しにするのならば不思議はないけれども、そういう月森が、というのは若干引っ掛かる。とは言え、絶対に有り得ないことでもないだろう。
「とりあえず、教室行ってみっか」
まだ携帯電話を探していたらどうしようかと思いながら、陽介は振り返って中央階段に足を乗せる。一人きりになってしまった校内では、先程よりも更に濃密な静寂が周囲に滞留しているように思えた。息をするだけでも、重い。音を立てたら咎められてしまいそうな気がして、気配を押し殺すように、そっと階段を上っていく。靴を履いていないので、元より音は響かないのだが、更にそっと、静かに。彼の他には誰もいないことは知っていたけれど。
思えば、校内で一人になるなんて、考えたことはなかった。一人は淋しいと、嘗て見た陽介の影はそう言っていた。一人は、淋しい。誰かと繋がっていたい。目が覚めた瞬間に世界に誰もいなかったら、それはきっと、死ぬことよりも恐いことなのだ。息が詰められるような感覚は、孤独というほんの少しの恐怖で、けれどもそれを振り切っていられるのは、この校内にいるはずの、親友の存在があるからだろう。見えなくても一人ではないのだと思える。そう思いながらも潜めるように動いてしまう自分に苦笑しながら、陽介は二階に到達した。とん、と軽い音が僅かに響く。
今になって、上履きを履かないでおいたことを後悔した。携帯電話さえ見付かれば直ぐにでも戻るつもりだったのだし、校内で鬼ごっこも隠れんぼもしないのだから、不要だと思ったのだ。けれどこうして彼を探さねばならないのだとしたら、履き替えれば良かったのだろう。中央階段から右手に二つ目、2-2の教室のドアを開けても、彼が不在だった為に、陽介はそんなことを思った。閉め忘れたらしい窓が開いていて、そこからひやりとした風が吹き込んでくる。陽介は思わず身体を震わせて、月森の机の中を覗き込んでみたが、何も入っていなかった。そもそも彼は置き勉をしないらしいし、携帯電話を探すのに苦労するとは思えない。では、ここになかったのだろうか。陽介は教室を出て腕組みし、ことんと首を傾げた。
(先に帰るんなら、絶対に連絡するよな。ケータイが見付からなきゃ、帰るわけもねぇし……もしかして、あっちの階段使ったとか? んで、入れ違い……)
そちらの方から昇降しているのだ、陽介はこの下にいると考えて、実習棟側の階段を使った可能性もある。そもそも、通ってきた出入り口はそちらの方にあるのだから。
「とりあえず、下りてみっか」
うんと一人頷いて、陽介は廊下を蹴った。今なら走っても咎められることはないだろう。
(月森が見てたら、怒られるかもしんねぇな)
廊下を走ってはいけないのだという倫理規範ではなくて、滑り易い靴下なんかで走って転んでは危険だから、と。一瞬つんのめった時に、そんなことを思った。
そうは言っても、また入れ違ってしまうのは困る。彼が携帯電話を持っているならば良いけれど――と考えて、入れ違いになっただけならば、既に彼の手にそれがある可能性にも今更思い至った。何だ、電話すれば良かったんだ。階段まで辿り着いたところでハタとそう思ったのだが、どうせもうここまで来ているのだし、もし月森が真下にいたら、電話を鳴らす方が間抜けだろう。下りてみていなければ電話すればいいか、と結論付け、陽介は階段を下りてしまうことにした。靴下なので音は響かないが、やっぱり落ち着いて階段を下っていく。あ、相棒がいた、なんてそちらに気を取られて階段から転んで落ちたら、彼の心配性が悪化しかねない、と陽介も懸念したのだ。
一階と二階の中間で曲がって階下を見ると、人影が見える。
(やっぱ、こっちから下りてたのか!)
他に人がいようはずもない。見付かって良かったと陽介が声を掛けようとすると、影が動いた。彼の視線の先、掲示板には写真が所狭しと貼られている。一月も前の写真だが、期末試験も終わって一段落ついた今だからやっと、貼り出されたのだろう。月森は左手に携帯電話を持っていた。そうして空いている右手で、写真に触れる。
(さっきも見てたよな。なんか欲しい写真でも――)
月森はそのまま写真に顔を近付けた。きょとんと見詰めている陽介の前で、唇が写真に軽く触れる。
「――ッ!」
触れた唇は直ぐに離れて、彼はじっと写真の中の人を見詰めると、ふっと息を吐いた。そして身体を掲示板から離すと、右手で先程触れた写真を剥がし取った。接着していたのはセロハンテープだったようで、丸く輪になった物だけが残っていた。月森は長い指先でそれをも剥がして取ると、その痕をそろりとなぞる。
(な、に……して)
声が出そうになったが、それを押し込めて、陽介は彼から隠れるように階段の影に身を潜めた。身体中の血が、血管の中で逆流しているように感じた。
そこに『在る』ものが何か、陽介は知っている。二度も通って見ている。存外、綺麗に撮れているじゃないかと自分で思った――陽介の写った写真。
「陽介、どこで電話してるんだ?」
声が大きく響いて聞こえたので、陽介は目を見張る。心臓がバクバクと鳴っていて、些細な呟きにでも飛び上がってしまいそうだった。ただ、見付かってはいけないということだけが頭をぐるぐると回っている。その頭だけで、慌てて逃げ込むように二階に上った。
(ッ、あん……なの……)
鼓動が乱れている。上手く息が吸えない。足音が上がってこないことだけをただずっと注意深く確認しながら、身体は力を保てずに、重力に従いずるずると壁に沿って下がっていく。
(知らない……ほう、が)
その方が精神衛生上、良かったのに。
*
いつだったか、完二に言われたことがある。陽介が月森に甘え過ぎだったか、それとも、月森が陽介に甘過ぎるだったか。
「陽介、指、切ってる」
ほらディア、と月森はカードを砕き、サラスヴァティを喚び出した。淡い碧色の光が右手の人差し指をふわりと包み込み、傷がみるみる消えていく。
「サンキュ、相棒」
どこで切ったのかも覚えていないような傷を目敏く見付ける『頼れるリーダー』に、陽介は感謝していたし、感心もしていた。
「……センパイ、過保護っスよね」
完二は傷とサラスヴァティが消えてしまってから、陽介と月森を交互に見て、溜息混じりにそう呟いた。陽介の記憶が正しければ、まだ初夏の頃の話。どんなに些細な傷でも、月森は見付けると、必ず自分のペルソナを喚んで傷を癒してくれていた。
「たかが指じゃねっスか」
僅かな傷だと思ったことも少なくはないが、彼がそういう人だと知っていたから、陽介に不思議はなかった。
「傷を侮るものじゃない、巽。小さな傷が化膿して重大な傷病に繋がることもある」
「それが過保護ってんスよ。なんでしたっけ、たしか、ジュネスのバイトも手伝ってるとかって聞きますけど」
「臨時で、偶に入っているだけだよ」
「人手足んないときとかにな」
陽介が笑って頷くと、だからそれが、と完二は頭を掻いた。
「なんつか……花村センパイ、甘えすぎじゃねっスか?」
言っている意味が分からずに、陽介がはぁっと首を傾げると、月森は陽介の肩に手を乗せて、静かに首を横に振る。
「俺が好きでやっているだけのことだから」
「んじゃ、センパイが甘すぎるんスよ」
「良いんだよ、それは」
――陽介は特別だから。
月森はそう、囁いた。自分も同じ言葉を彼に告げたことがあるから、陽介は彼の友情を疑わなかった。特別な親友であると。その頃も、今も、月森は優しい。
(そっか。誰にでもってんじゃなかったのか――)
いつだって、月森は陽介に優しかった。陽介にばかり優しかったのだ。それをきっと、知らない訳ではない。完二が過保護だと言ったのは、それを薄く感じ取っていた為なのだろう。陽介の小さな傷にまで気を留めてしまう彼を見て。
足音も響かず、携帯も鳴らない。月森は何を考えているのだろうかと思う。
『自分が写ってなくても?』
好きな子の写真が欲しいとか、知らない人が自分の写真を買うのが嫌だとか、そういう意味での発言だと思っていた。違う。彼が陽介の写真を剥がして取ってしまう理由が、陽介には推測出来てしまった。
頼もうと思えば、月森にだって友人の写真を頼むことは出来る。一年限りの思い出だからと言えば、不審に思う人もいないだろう。お金が掛かるからなどと、それだけの理由で倫理的でない手段を用いたりもしない。
自分が写っていなくても、あの写真を頼むことは出来る。そう、月森でなくとも、八十神高校の生徒であれば誰でも、という意味で。
(あの写真を、誰かに、買われたくなかった……から)
彼のことは分かっている。こうやって思考をトレースすることすら不可能ではないのだ。それくらいに傍にいたと自負しているのに、気付かなかった。優しいことの理由なんて、そういう人だからという以外にないだろうと思っていた。実際、誰にも優しいということだって嘘ではない。月森は困っている人を放っておけないし、手を貸してくれる。だから、女の子からも人気が高いのだ。そんな彼を誇らしいとすら陽介は思っていた。
思考が纏まらずに、携帯電話を握り締めたまま、陽介は体育座りで膝に額を当てていた。時間の経過も分からない。けれどこのままでいれば、いずれは月森と鉢合わせてしまう筈だ。そう思いながら、のろのろと顔を上げて携帯電話を見る。このままにしておけないが、顔を合わせるだけの勇気もずっと出てこない。だから、複雑過ぎる気持ちでアドレス帳を呼び出し、月森宛てにメールを作成した。
『ちょっと気分悪いから、休んで帰る。先に帰っててくれ』
顔文字も何もない簡素な文面。そんなメールを彼に送信してほんの十秒程度で、自分の思考が鈍っていたということを陽介は痛感する羽目になった。急に携帯が振動したと思えば、電話の着信。先程クマが煩く掛けてきたこともあり、マナーモードに変更していたので、幸いにも着信音が響かずに済んだが、相手は勿論、月森。彼は大のメール嫌いで、陽介がメールをしても通話で返してくることすらあった。
(そうだった……そういうヤツだ)
メールした手前、出ないのも不審がられる。陽介は躊躇いながらも、通話ボタンを押した。
『陽介、気分が悪いって平気なのか!』
「あ、あぁ……えと、ちょっと疲れたってだけ」
『俺は一階で待っていたんだけど、今どこにいるんだ? 一階じゃないよな? 二階? もしかして、教室?』
月森は心配性かと思われるほどに優しい。気分が悪いなどと聞いて、陽介を置いて帰れるような人ではなかったのだ。普段ならば忘れないそういうことが、陽介の頭から抜け落ちていた。混乱の極みにあって、冷静な判断力を失っている。顔を見たくないと思うのに、月森はそれを許さない。陽介が居所を言わなければ、学校中でも走り回るだろう。見付けるまで、彼に『帰る』という選択肢は出てこない。分かるから、どうにもならないのだ。
「二階の階段上……教室の近く」
自分の失態に苦々しくなりながら呟く。
『直ぐに行くから、動かないで待ってろ』
「や、だから、ヘーキだって」
無駄だと思いながら一応言ってみたが、やはり全く効果はない。
『そんな覇気のない声で説得力がある訳ないだろう。急に体調が、なんて、風邪でも引いたんじゃ……こんなことなら、付き合わせなければ良かった』
声と共に、階段を上る足音が響く。段々と近付いてくる音に、陽介は思わず身を竦めた。覇気がないのは具合の所為ではない。けれど、この校内で、最初からどこにも逃げ場なんてありやしないのだ。無論、逃げてどうなるという類のことでもない。引き伸ばしても伸ばすだけに過ぎないだろう。今後も彼と付き合って行きたいというのであれば。
(でも、今くらいそっとしといてくれよ……)
そっとしておこう、と口癖のように言うのに。
「陽介! 動けないのか!」
通話口からは切れた音だけが響いていて、月森の声は、直接、上から降ってきた。どんなに望んでも、彼は、陽介だけは放って置かないのだろう。
「や、これは違う……んだけど」
恐る恐る顔を上げると、いつもと同じ、色素の薄い瞳がこちらをじっと見ている。曇りの一つもない冴えた眼差しに、陽介の方の心拍数だけが上昇していた。
「立てるか?」
また、手を差し出されたので、平気だと首を振ったが、アッシュグレイの眼差しは変わらずに注がれて、陽介を甚く困惑させる。抗えるでもなくおずおずと右手を差し出すと、月森は安堵したように小さく笑みを浮かべた。手なんて借りなくても立てるのに、と、前から思っていたのは確かなのだ。でもその優しさを無碍にすることもないだろうし、受け取っておく方が彼にとっても快いことなのだろうなと思っていた。そうした推測は、強ち間違いでもなかったのだろうけれど。
「顔色が悪い。熱はありそう?」
「……大袈裟なんだよ」
顔が近付いてきたのでふいと目を逸らす。
「風邪は万病の元と言うだろう。倦怠感は初期症状だし、用心するに越したことはない。保健室に寄ってみよう。いつも開けたままだし、開いてるかもしれない」
保健医が不在気味の保健室は、平日の日中なら薬品の棚を除いて解放されているが、休日の今まではどうだか分からない。はぁと陽介が溜息を吐くと、辛いのかとまた心配気な目が向けられた。そうして、やっぱり休んだ方が良いから、と腕を引かれる。
(熱い……)
掴まれた部分が、意味を持っているように思えた。
保健室は物騒なことに開いていたが、そもそも普段から開いている方が妙なのかも知れない。教室も施錠されていなかったし、校内に侵入し難い仕組みが逆に、内部ではどこへでも動き易いという環境を作っているらしかった。陽介をベッドに座らせた月森は、薬品棚が開けられないことに不満を抱いていたが、常備薬を持っているから、と、グレージャケットのポケットから白い錠剤を取り出して見せた。
「参考までに聞くけど、なんでんなモン持ってんの」
「具合が悪くなったら困るだろう?」
それでは本格的に心配性ではないかと思って苦笑すると、流石にそれは冗談だけど、と月森は瞳を細めた。
「鞄に入れているだけだよ、普段は。これは、前に飲んだ時にポケットに仕舞ったのがそのままになってただけ。役立って良かったけど」
パリッと殻を破る音も、静かな室内に響く。静かだと思って、急に、今、二人きりだということに気付いてしまった。
(あれ……ちょっと待てよ)
「陽介」
「ひぃっ! なに!?」
「どうかしたか? ほら、手出して」
「あ、うん……、ハイ」
素直に手を出すと、白い錠剤が二錠、掌の上に乗せられた。一緒に渡されたグラスの水と共に嚥下し、直ぐに横になろうとすると、月森に制される。寝るのは薬を飲んで数分置いてからにしないといけない、と。
「見てるから、ゆっくり休んでて」
もう良いよと言われて身体を横たえる。
「み、見てるって……」
「人は来ないと思うけど、ないとは言い切れないから、見張っている」
月森はベッドの端に座って、確かに扉の方に視線を向けていた。
「人がいると眠れないんだったら、離れてるけど」
そうか、と思った。月森は写真にしか、ああやって触れたりしない。二人きりだからとて、それが変わることはないのだ。ただひたすらに優しくて、それだけ。だから危険はない。悪意は存在しないのだ。陽介が目を閉じたまま首を横に振ると、良かった、と息が漏れて聞こえた。さっきまでずっと心臓の音が煩くて、眠れる筈もないと思っていたのに、とろりと眠気が襲い掛かってくる。薬を飲んだとは言え、直ぐに効き目が表れる訳ではない。
もしかしたら、月森が傍にいるから眠れるのかも知れないと思った。
*
時間の経過は分からない。陽介が目覚めて起き上がると、月森はじっとこちらを見ていた。
「具合はもう、平気?」
「……ずっといたのか」
「見てる、って言っただろ?」
「あの……さ」
「何?」
「その、前から、思ってたんだけど。俺も別に、んなに気にされるほど、ヤワじゃないってか……」
見た感じは細身だ華奢だと言われるが、殆ど風邪も引かないし、病気らしい病気もしていない。勿論、心配してくれるのを疎んでいるのではないし、そういう優しさを他人に向けられるのは善いことだとも思う。だから傷付けないように気を付けて、言葉を選びながら言うと、月森は眉を下げた。
「迷惑?」
「そういうんじゃなくて! だから……頼りすぎてるかもってか」
「陽介は、もっと人に寄り掛かって良いんだよ」
急に月森は、ぽんと陽介の頭の上に手を乗せた。
「う、え、っと……?」
「優しくされて良いんだ。それで相殺されるくらい」
「なにを」
月森は直ぐには答えなかった。黙して頭を撫ぜている。
「空気を読み過ぎるし、無理ばかりしてる。嫌なことも結構言われてるのに、いつも笑顔で」
「そんなん、……シャドウも言ってただろ。嫌われたくないってだけで」
「そういう謙遜も気になる」
(だから?)
頭を撫ぜる手の温かさの理由は何だというのだろう。
(だから、優しい――ってワケじゃないのか?)
今までずっと、彼はそういう人なのだと陽介は思っていた。誰に対しても優しく、誰かのことばかりを考えている。実際、月森が優しい人だとか頼れる人だとかは噂に聞いていたし、皆、こうやって慮って貰っているのだと思っていた。自分にばかり優しいのだなんて、自惚れて思ったこともない。でもやっぱり、違ったのだろう。完二の言葉は正しい。月森は甘いのだ。過ぎてしまうくらい、過剰に。
もう平気だから行こうと言うと、月森は頭頂に置いていた手を離して、また、こちらに手を差し出した。あぁそうか、と思う。
(やっぱ、甘すぎなんだ)
悩んだが手を取らずに立ち上がると、月森は心なしか残念そうにしているように見えた。
「帰る前に、写真、見てかないか?」
保健室から出ると、窓からの光が眩しかった。まだ日は高いらしい。長居することにならなくて良かったと思いながら提案すると、月森は、早く帰った方が良いのではないかと心配そうに言った。
「だから、平気だっつの。結局、ゆっくり見てられなかったんだから」
「……構わないけど」
それとも彼はもう十分に見たから不要なのだろうか。先を歩きながら、色々と思いを巡らせる。
「――なぁ、月森」
「何?」
「俺のこと、どう思ってる?」
「どう……って」
ちらりと振り返ってみると、月森は思案するように人差し指を顎に当てて、目を軽く閉じていた。
「陽介の言葉を借りるなら、『特別』だって思ってる、かな」
(上手い切り返しだな)
知ってしまったら、知らないでいた頃には戻れない。無邪気に相棒とは呼べないし、普通では過ごせない。そもそも、隠し事と嘘が苦手なのだ。月森はそれを、素直で良いと思うと前に言っていた。
掲示板にはずっと同じように写真が飾られている。確認して見ると、やっぱり、その、一枚だけが欠けていた。端の方だから、なくなっても、誰にも気に留められることはないだろう。元より、写真を見たのは掲示を貼り出した者と、月森と陽介の二人しかいない。だから、誰にも知りようがない。
「どれも良く撮れてるな。陽介も何か買う?」
月森がそれについて言及しないことは分かっていたので、あぁ、と生返事しながら頭を働かせる。
(どこにある?)
まさか捨てたりはしていないはずだ。そして、彼の性格からして、ズボンのポケットには仕舞わないように思う。
「陽介……俺も」
右利きだから、ふと仕舞うならば右にではないだろうか。左には先程、薬が入っていたのを見たが、その際にも何か入っているような音はしなかった。
「なぁ、月森。写真が一枚足りないんだよ」
当たりをつけると、陽介は躊躇せずに、彼のジャケットの右ポケットに手を突っ込んだ。突然のことに月森は怯んで、身体を離そうとしたが、予期した通りに紙片が入っていたので、陽介はそれを掴んで、離れる前に引っ張り出した。
「これ」
目の前に突き付けると、アッシュグレイの目は一瞬丸くなったが、直ぐに元通りに戻って眉を下げた。
「落ちていたから拾ったんだ」
「見てたっつったら?」
月森は答えなかった。
「お前がこの写真を持ってるって知ってたのはなんでか。考えたらわかんだろ」
階段の上にいた、と言うと、月森はそう、と穏やかに頷いただけだった。その淡白とも思える反応に、逆に、陽介の方に狼狽が復活する。詳しくは省いたが、経緯を見ていたと陽介は言ったのだ。普通、想いを寄せる相手にそれと知られる行動を見られたとすれば、もっと、動揺するものではないだろうか。少なくとも陽介なら、小西早紀に知られたら、テンパッて会話も上手く出来なくなってしまっただろうと思う。
「な、なんであんなこと……」
頬が熱くなってきた。動揺も狼狽も混乱も、今ですら陽介だけのもののようだ。寒い筈なのに、じりじりと暑い。喉も乾いている。
「写真一枚だけ、独占したかったから」
月森は陽介の手から写真を取り返すと、そこに写った陽介をじっと見詰めた。何も言えずに黙って見ていると、突然こちらを見た月森の顔が近付いてきたので、陽介は肩を跳ねさせた。
「陽介、俺は」
「や、やめ!」
続く言葉が予想出来たので、慌てて陽介は月森から距離を取った。自分から話を振っておいて、止めておけば良かったと後悔している。近付いてくる足音に後退りした。
「いい! 言わなくていい!」
両手をブンブンと振ると、月森は首を傾げた。
「聞きたいから行動に出たんじゃないのか?」
「むむ、ムリ! ハート的にムリでした!」
「……陽介」
声の感じで察して、咄嗟に陽介は階段を駆け上がって、その場を逃げ出した。足音が追い掛けてくるのに鼓動を早めながら、二階に上がり、そのまま2-2の教室に駆け込んだ。ドアに鍵を掛ける。そのまま背を当てて息を吐くと、ゆっくりと近付いてきた足音は、逃げ込んだ場所などお見通しだと言わんばかりにピタリとドアの前で止まった。ドンドンと外から叩く音が聞こえてくる。
「陽介、俺は気持ちを押し付けたい訳じゃない。知られなければ、一生言うつもりだってなかった」
それだけ聞こえると、もう月森は何も言わなかった。どうとも返せずに陽介は俯く。先程も閉めなかった窓から、まだ冷たい風が冷え性な指を冷やしていく。
早急だったのだ。
(ホント、知らなくてよかったのに……)
寝ても覚めても何も考えられないのに、こうして言葉を投げられても困る。彼を嫌いなのではないし、また彼を疎んじてもいないけれど、困惑しているのだ。ずっと。そう思ってからハッとした。恐らく告白しようとしているのをこうして遮られ、遂には鍵を閉められ、ドアを隔てているのだ。それこそ、嫌がられているのだと誤解され兼ねない。ドアの前で眉を下げている姿を想像して、陽介は慌てて弁解しようと鍵を開けた。その瞬間、間髪入れずにドアが開く。驚く隙も与えられずに、きょとんとする陽介を抱き締めると「押してもダメなら引いてみろって」と、月森は囁いて笑った。優しいばかりかと思えば意外と強かなのだな、とぼんやり思う。
「俺もずっと、聞きたいと思ってたんだ――『特別』って言葉の意味」
「意、味……って」
「陽介も誰にだって言っている訳じゃないんだろう? 真面目だから、陽介の言葉にはきっと意味があるんだろうと思う。少なくとも俺は、そんな風に言われたのは初めてだったんだ。陽介はきっと『親友だ』って言いたかったんだろうとは思ったけど、俺はその時に気付いたから。陽介は『特別』なんだ、って。……親友っていうラインを越えて」
好きだよ、とまた囁くと身体は離れて、月森は額をコツンと合わせた。彼がアッシュグレイの瞳を閉じているので、倣うように陽介も目を閉じた。
「一人で傷付いてばっかりで、でも、いつだって俺にも、仲間にも優しい。俺は陽介にそれを返したかっただけなんだ。好きになって欲しいなんて、贅沢なことを思っていなかった。写真一枚だけで十分」
「そんな……こと……」
「『特別』だっていうのは、誰よりも傍にいる、誰よりも見ている、本当は、他に『特別』な人を作って欲しくないっていうことだと俺は思っている。陽介は違う?」
「……違わないと思うけど」
「それって恋じゃない? どこか違う?」
陽介が思わず目を開くと、月森は苦笑いを浮かべていた。
「写真じゃなく、今からキスしてみて、それで嫌じゃなかったら、恋ってことにするのはどう?」
「それ……ずるい」
「どうして? 陽介、好きでもない相手とキス出来る?」
それでも、絶対に嫌だと思わないだろう自分がいたので、陽介は頭を抱えていた。月森のことを友達だと思っているつもりだ。今でもそう信じている。けれど嫌なら、写真の時だってきっと変わらないだろう。
(知らなきゃ……よかった)
近付いてくる眼差しを拒めないことなんて。
書いといて難ですが、写真にキスするってのは奇行に入りますよね。
見た目はきれーそう(?)ですけど……
ひっそり片思いしてる主人公萌え。バレた途端、開き直るのもまた萌え。
おでここつんてするのも萌え。
陽介の『特別』はニアリーイコール恋ですよね。それって恋とどう違うのって言わせたかったのでした。