惚れたら負けという言葉がある。
それを信じている訳でもないが、実際、惚れた弱みという言われ方もするし、恋愛に勝ち負けがないとしても、そう考えることが全くない、とも思えない。
暦の上では既に春も到来したと言える様な弥生の月の日。迫りくる別れの日への感傷は日を増すごとに強くなり、何かとしんみりした話題も多くなりがちだった、そんな長閑な春の日、月森は親友に告白された。
「ずっと、月森のことが好きだったんだ」
即ち彼は負けてしまったのだ。直ぐにそう思ったのではないが、当然の帰結である。告白するというのは、相手に対する敗北宣言に他ならない。女の子は相手から告白されたいと言うが、自分が敗北することを恐れているという面も少なからずあるだろう。けれど、敗北を恐れずに想いを告げることを愚かしいとは思わない。寧ろ、勇気ランクは高いだろう。
「ゴメン、俺は」
今までに月森は、陽介のことを恋愛対象として見たことがない。友人であり頼れる相棒だとは思っていたが、それが、彼の言う特別という言葉の全てだと思っていたのだ。同性である自分相手に告白をする彼の勇気には尊敬を覚えるものの、少なからず動揺しながら言葉を紡ごうとした月森に、陽介は静かに首を振った。
「お前が俺のこと、そういう風に見てないのは分かってる。これからも友達で、それで構わないんだ。ただ、一日だけ――一日だけでいいから、俺に、お前の時間をくれないか?」
くるりとした櫨色の瞳は、真剣な熱を持って月森を貫いた。その色に気圧されたという訳でもないのだが、気付いたら月森は頷いていた。陽介が「ありがとな、月森」と嬉しそうに笑うのを見ながら、これはきっとそうだ、と考える。
(ドラマや小説で良くある話だよな。最後の一日を使って、相手を振り向かせようっていう)
だとしたら、この意外と純情な友人がどの様に一日を使うのか、興味が沸かないでもない。それが無駄になろうがどうなろうが、高が一日。だから、思わず頷いてしまったのだろう。忙しいとは言え、全く遊ぶ暇がない訳ではないし、陽介とのささやかな思い出にもなると月森は考えた。
「んじゃ、日曜日な。沖奈でも行って、遊ぼうぜ」
「分かった。今度の日曜日だな」
選んだ場所としては無難だろう。稲羽市は隅々まで行き尽くして目新しい場所もないが、沖奈ならば、まだ新鮮さもある。デートらしくなるかも知れない。月森がそんなことを考えていると、陽介は微笑んだまま、右手の小指を出した。
「約束だから、指切り」
「子供じゃないんだぞ」
「いいだろ。どうせ菜々子ちゃんとはやるくせに」
悪戯っぽく陽介は笑う。
(あ、今のはちょっと良いかも)
子供っぽいと思うのに、反面、どこかそういう行動にはきゅんとする。成程、こうやって積み重ねていけば或いは、となるかも知れない。――何て、そんな単純なことではないのだろうけれど。
月森は苦笑しながら右手の小指を突き出した。陽介は満足した様にそれに自分の指を絡ませる。指切りげんまん、と、昔懐かしいフレーズを陽介は口ずさんだ。
*
日曜日、沖奈の駅で待ち合わせた月森と陽介は、約束の時間の半刻程前に、電車を降りたところで顔を合わせてしまった。まだ肌寒さが残っているが、流石にもう3月ということもあり、月森は黒のジャケットにハイネックという至って普段通りのスタイルで、陽介もまた、いつものファーの付いた白いジャケットにVネックの明るい色のシャツを着ている。格好は、いつもと変わらない。
(まぁ、服装は女子じゃあるまいし、いつもと違ってときめくってこともないからな)
千枝や直斗辺りならば、春めいたシフォンの花柄ワンピースで現れて『いつもと違う』可愛さをアピールすることもあろうが、同性ではそういうこともあるまい。月森は1人で頷きながら、早かったなと驚いている友人に声を掛けた。
「まぁ、そりゃ、少しでも早く会いたかったし……ってか、お前だってはえぇだろ」
「俺のは性分だから」
照れた様子で、陽介は視線を逸らした。頬が淡く朱色に染まっている。
(こんな調子で大丈夫かな、陽介)
くすくすと笑うと、笑うなと紅い頬で睨まれたので、思わず可愛いなぁと感じた。変な意味ではなく、わたわたとしている陽介は、そもそも可愛いのである。いつまでも笑っているので少しだけ怒った様に、陽介は先に改札口に向かった。マイペースに歩いていると、付いてきているか不安になったらしく、陽介はそろっと振り向いた。その顔にはやっぱり、怒っている様な情動は見られない。無視して先に行くかと思えば、じっとそのまま月森が来るのを待っている。そんな所は、とても良かった。
改札を抜けて、沖奈の街を見回す。東京とは全く異なるけれども、八十稲羽にばかりいた所為か、沖奈レベルですら随分と都会的に見える。喧騒は適度に、忙しなく歩いて行く人影がすれ違い様にぶつかりそうになる姿が目撃された。明滅する青信号に、渡っている歩行者が足早になることすら、家と学校の往復ばかりしていると見掛けない光景だ。
「で、今日は何するか決めてないんだけど、どこに行くんだ?」
彼のやり易い様に、主導権は譲ってあげることにした。どんな風にするか、月森は今日は見守っている役なのだ。ひっそりとそう心に決めている。お手並み拝見、と思いながら、人の多い通りに目を向ける。昼も近い為か、レストランチェーンやファストフード店に集まっているらしかった。
「もう昼だし、腹ごしらえしてからだな。んー……、ワイルダックバーガーでいいか?」
「どこでも良いよ」
雰囲気はなさそうだけど、と思いながら頷くと、陽介は早速、道の向こう側へと歩き出す。外食店が犇めく中に、件のファストフード店もあった。
(ま、男2人でカフェってのもアレだしな)
そんなことを思いながら、陽介の背を追う。ハンバーガーを食べるのは久しぶりだ。
迷うことなく入った店内は、昼時ということもあって混み始めていたが、まだ座る席に困ることもなさそうだったので、先に注文の列に並ぶことにした。一番進んでいるのは、三列列ある内の中央だった為、そこに並んだものの、二つ前の学生風の男が大量にオーダーしており、やや時間が掛かりそうだった。
「月森、なに食う?」
「てりやきバーガーのバリューセット、Lサイズ」
「お前、意外と食うもんなぁ……」
どれにすっかな、と店員の上にあるメニューを見ながら陽介は首を捻っている。細身の見た目の通り、陽介は割と食も細い。偏食でもないが、栄養の偏りは心配される。野菜も多く採れて健康的だからBLTにしたら、と月森が勧めると、そだな、とあっさり頷いた。
「BLTなら、結構安いし」
そう言われて、ハタと気付いた。もしかしたら、陽介は自分が奢るとか言い出すのではないだろうか。
(多分、デートみたいなものなんだろうし、自分が払うとか、有り得るかも)
クマを養う位だし、陽介も何だかんだでジュネスで働いて稼いでいる。時給が低いとしょっちゅうぼやいているが、繁忙期になると良く駆り出されたりしているので、収入自体はそれなりにあるのだろう。
「陽介、あのさ、お金のことなんだけど」
知らずに注文して、陽介に支払われても困る。困るという程に何かがある訳ではないのだが、心情的には遠慮したかった。それをどう切り出そうかと悩んで語尾を濁しても、陽介はただ不思議そうに月森を見ている。
「? どした? 財布でも忘れたか?」
その発言から、どうやら、奢ろうとかそういうことはないらしいと月森は悟った。割り勘とは高校生らしく健全で何よりである。
「えーと、俺、お金あるから奢るよ?」
しかし、このままでは、訳の分からない言葉を口走ったことになる。不自然にならない様にと、咄嗟に言葉を変えてみたが、口に出してからあれっと思った。
「マジで? なんか知らねぇけど、俺、ありがたくごちそうになっちゃう方だけど」
「良いよ、バイト代があるから」
(あれ、何でだ?)
確かに、続けていたバイトのお陰で、お金には困っていない。クマに日々お金を使っている陽介に奢っても良い、という心情になる位には不自由していなかった。しかし、月森が奢るのでは、どこかが可笑しい気がする。流石にこれは陽介の策略でもないだろうし。心中では疑問も深かったが、陽介にはクマを任せっきりにしてるし、と月森は自分で納得して、漸く進んだ列を追って一歩前に出る。
「なぁなぁ月森、奢りだったらさ、俺、ナゲットも食いたいんだけど」
隣の陽介は、袖をくいっと引っ張ると、甘える様な瞳に首を傾げて、図々しいことを言い出した。
「調子に乗るな。奢りなら普通、ポテトだって遠慮するところだろ」
コツンと額を人差し指の第一関節で叩くと、陽介はきょとんとした。
「へっ? ポテト?」
「BLTのセットだろ。ポテトじゃ不満なのか?」
勿論、月森はセットのLサイズだが、陽介にはMサイズにして貰う。いずれを選んでも、ハンバーガーそれ自体の大きさには違いがないのだし、その程度ならば許容範囲内だろうと思うのだ。
「あ、や――バーガーだけだと思ってたから。ポテトがあんなら、そっちでもいいんだ」
陽介がにこっと微笑むと、お次のお客様、とやっと呼ばれた。
腹を満たして外に出たところで、陽介はゲームセンターに行こうと言い出した。
(ゲーセンっていうと――まさか、プリクラ!?)
直ぐ横にあるプリクラ機械の宣伝ポスターを見ながら、月森は戦慄した。如何に陽介の好きに任せようとは思っても、プリクラは流石にどうだろうかと思ったのだ。痛ましい。高2男子が2人でプリクラでは笑えない。しかし、デートでゲームセンターに行ってする行動として、他には考え難かった。思わず立ち竦んだ月森を、先に店の前に辿り着いた陽介が不思議そうな瞳で振り返る。
「月森? どうかしたか?」
プリクラ――プリクラとは、一体どうしてプリクラと呼ばれているのだろうか。何かの略語だろうか。それと、女子が二人でというのは極普通に見られる光景だというのは、何故なのだろうか。翻っても、男二人というのは制約が多い。女子同士ならば抱き着いても平気だとか、手を繋いでも微笑ましいで済まされるとか、違いは顕著だ。男同士でそういうことをしたいのかと問われると、月森にも返答には困るのだが。しかし、性差というのは見えないところででも働いている。プリクラのコーナーでは、女子同士若しくはカップルのみ、とされる場所も多いことは、都会暮らしで知っているのだ。幸いにしてか不幸にしてか、ここのゲームセンターでは、男子禁制とは書かれていなかった。
(ま、まぁ、記念に一枚とか位なら……あんまり写真とか撮らないしな)
月森はそんな覚悟を決めて陽介の隣に立った。意を決して足を踏み入れる。
そもそも、ゲームセンターには女性は少ない。中に入って見れば、人自体も然程、多くはない様だった。一階にはクレーンゲームの機体が所狭しと並び、中には可愛いのだか可愛くないのだか、何とも判別がつかない縫いぐるみが並べられている。完二が作った物の方が可愛いかも知れない。奥の方からはゲームか何か知らない音が聞こえてくる。階を二つ程上がれば、スロットもあるらしい。そう書かれている案内表示を見ながら、月森はそろりと陽介の様子を窺った。人は少ないし、音楽系のゲームも近くに設置されているらしいということで、地下一階のプリクラコーナーにも、今ならば近付けないことはない様な気もする。
「月森、クレーンとか得意?」
「あんまりやらないから、得意とは言えないと思う」
「ふーん。俺も苦手。じゃあ、クレーンはスルーしちゃっていいよな」
言いながら陽介はエスカレーターに近付く。
「陽介、あのさ、一応、心の準備は必要かな、とか」
躊躇なくエスカレーターに足を踏み出そうとする陽介の腕を掴んで、月森は慌てて引き留めようとした、のだが。
(……上りエスカレーター?)
「ん、なに、お前、ゲーセンってそんな緊張すんの?」
「ちょっと待て、陽介。何する気?」
「ゲーセンつったら格ゲーだろ。あんましやんねーから、別に強くもねぇけど」
「格ゲー……か」
月森は掴んでいた手を離した。
「もしかしてお前、音ゲー派?」
脱力したまま首を振ると、良かったと安堵した様に陽介は微笑んだ。
(なんか、この笑顔にやられてるばっかりな気がする)
想定外の行動が多い。やはりと言うか何と言うか、生身の人間は違うのだ。大体、相手は女子ではない訳だし。いずれにしても、今の所はずっと、陽介のペースに呑まれてばかりいる。それが嫌だと思っている訳ではないけれども。
「前のガッコで、こういうとことか来てた?」
手を解放され、漸くエスカレーターに乗られた陽介は、オレンジの手摺りに背を預けながらこちらを見た。
「いや、一、二回来たことあるかもって位かな」
「優等生っぽいもんなぁ、お前」
「実態を知ってて言うのは嫌味か?」
問題を起こさない様にしているというだけで、真面目な性格とは程遠いことは自覚している。陽介も知ったことだ。うりゃっと頬を伸ばしてやると、いひゃいいひゃい、と陽介は声を上げた。
「陽介は?」
手を離してやると、陽介は伸ばされた頬をマッサージしながら、片目を瞑った。
「俺はカラオケ派だからな」
あぁそうだった、と月森は頷いた。喉飴を携帯する程にカラオケが趣味だとは、前から聞いている。実際に二人だけで四、五時間歌ったこともある位だ。最後の方は若干テンションも可笑しくなっていた気がしないでもない。
「今日はカラオケ行かないのか?」
一階の、女子供にも親しみ易い、ややファンシーな空間と異なり、エレベーターで到着した二階は室内灯も薄暗く、硬質な雰囲気だった。壁も寒色だ。
「いつも行ってるからパス」
カラオケならば二人きりだし、雰囲気作りには良さそうなものだと思ったが、そういうものでもないらしい。安易な方法は採らないということなのだろう。月森は一人で頷いた。
二人して強くない格闘ゲームを遊び、猛者が現れたのでモニターでそれに見入ったりもして、遊び飽きたところで、ゲームセンターから出た。長居したので、微妙に小腹も減ってきた様な気がしていた月森だが、陽介もどうやら同じだったらしく、ゲームセンターの直ぐ横にあるクレープ屋さんの看板に目が釘付けになっている。
「月森、甘いの平気だったよな?」
「平気だけど」
陽介は定番の生クリームやチョコレートソースのみの物から、苺チーズケーキアイスクリームという、名前だけでは今一つ味の予測が付かない物に、総菜のクレープまである多様なメニューを、値踏みする様に見ている。
(もしかして、二人で一つ食べるとかか!)
スイーツだからと言う訳ではないが、それは随分と甘ったるいシチュエーションである。想像するだに甘々しい。
「一個食べ切れる程は腹減ってねぇし……、な、月森、半分こしねぇ?」
珍しく予想通りだったので、月森は思わず笑顔で頷いてしまった。そんなにクレープ食いたかったのか、と陽介は小さく笑う。
「俺が奢るよ。何にしようか?」
一度奢れば済し崩しである。どうせ半分は自分の物だしと思って言えば、陽介は「ラッキー」と素直に喜んだ。素直に甘えられるのも陽介の美点だと月森は思っている。誰彼構わず見境なしに、ではなく、陽介は人を選んでいるのだ。そんな彼が、月森なら、と思ってくれているということが、とても嬉しかった。他の人に甘えていたりしたら、何となく気に障るだろうなと思う程度には。
「お金出すんだったら、月森の好みにしろよ」
「うーん……俺、白玉入り抹茶アイスとか興味あるんだけど」
生クリームも入っているらしく、メニュー表での見た目も可愛らしい。
「渋いな、相棒。んじゃ、それに決定だな」
そう言うと、陽介は俊敏に店員の元に移動し、13番一つ、と笑顔で注文した。取り敢えず待ち客はいないらしいと思いながら、月森もゆっくりとそちらに移動する。見ると、店員は若い女性だった。近付いてきた月森を肘でつつくと、陽介は「カワイイ子だよな!」と目を輝かせて訴えてきた。こんな日にまで女性のことを気にするのか、と月森は驚き、そんなことばっかり言ってると奢らないぞ、と思わず返すと、何だよ、と陽介は唇を尖らせる。
(まさか、わざと妬かせようとか?)
既に出来ているクレープ生地を台に乗せ、そこに生クリームを絞り出していく店員の様子に釘付けな陽介からは、その様な気配は感じられない。陽介、と今度こそ語気を強めて睨むと「ワリィワリィ」と悪びれない返事が返ってきたので、月森は機嫌を少しばかり損ねた。
「お待たせいたしましたぁ」
こちらは苛々していると言うのに、店員が呑気に陽介にクレープを手渡そうとしたので、やや強引にそれを奪い取って、代金を支払った。遣り取りを見ていた陽介は「そんなにお腹空いてたのか?」と相変わらず不思議そうにしている。
「っていうか、どうやって半分――」
交互に食べるとでも言うのだろうか。恥ずかしくなりそうな光景を月森は思い浮かべてみる。
「お前が先に半分食って、俺はその残りでいいぜ?」
「えっ? それで良い訳?」
事もなげに言う陽介に、色々な意味で月森は驚いた。ある意味では男らしい『半分こ』の方策である。しかも、抹茶アイス等の具材は上にばかり乗っているのだ。必然として、殆どが月森の胃の中に収まり、陽介が食べるのと言えば、下の生地と生クリーム位になってしまうのではないだろうかとも思われる。
「お前がお金出したんだから、好きに食えばいいじゃん。それに、腹減ってるんだろ?」
「だから、それは誤解だって。別にそんなに腹減ってる訳じゃないし。こういう時は、交互に食べるもんじゃないのか?」
まじまじと陽介を見て言うと、かぁっと彼の頬が紅く染まった。
「はぁっ!? お前、案外、はずっかしいこと考えるのな!」
自分から提案したみたいになったのも難だが、まさか、半分にしよう、と言い出した相手にその様に言われるとは月森の方も思っていなかった。
「そんなの人に見られたら、俺ら、街歩けなくなるぜ?」
陽介がさも可笑しそうに笑うので、カチンと来た。言い分は尤もだが、これでは妙なのは月森の方になる。月森は自分より細っこい手首を掴むと、ぱっと目についた雑居ビルのドアを開けて、階段とエレベーターのあるロビーの様な場所に、彼を引っ張って連れ込んだ。状況についていけていない陽介だけ、不思議そうに目を丸くして、きょろきょろと辺りを見回している。
「ここなら誰も来ないだろ」
幾つかテナントの入ったビルらしいが、上階に向かおうとする人は全くいない。エレベーターの傍にあるビルの案内表示を見れば、上はスナックやそういった昼間には開店していないだろう名前の店ばかりが並んでいる。誰も来ないとは言い切れないが、限りなく人と出会す可能性は低い。室内灯が人通りの少なさを証明する様に、薄暗く揺れている。
「え、あぁ、うん……? そう、ですね?」
陽介がその辺りまできちんと認識しているかは分からないが、人が通りそうにない、とは直感的に分かったのだろう。ぽやんとした表情で、こくりと一つ、頷いた。
「見られなければ問題ないんだろ」
ほら、とクレープを押し付ける様に渡すと、陽介は戸惑いながら受け取った。指の隙間から、鮮やかな水色と白のストライプの紙が覗かれる。
「え、っと……? 食べていい、のか?」
「それ以外に何があるの。全部食うなよ」
「で、一口食べたら、渡せっての……?」
当然だろと頷くと、また、陽介は頬を紅く染めた。全く純情な反応ばかりだ、と月森は何となく溜息を吐く。
(好きな人だから、ってのもあるのか)
惚れたら負けなのだと、またそんなことを思い出す。
戸惑いが優っているらしく、陽介はクレープを見詰めたままじっと固まっていた。このままでは、いつまで経っても食べ始めそうにない。
「食わないなら、俺が先に貰うよ」
陽介の手に握られたままのクレープに齧り付いた。一口では抹茶アイスまでは到達せず、口に入ったのは甘ったるい生クリームと小豆だけだ。和洋折衷とは言うが、このコラボレーションも中々悪くはない。正しく、普通に美味しいと言えるだろう。至って普通に。咀嚼しながらそんなことを考え、陽介の瞳を覗き込んだ。普通に美味いよ、と言うと、そっか、と戸惑った声が返ってくるばかりだった。
まだ躊躇いのあるらしい陽介は、再びじっとクレープを見詰める。齧られた部分が歪に損なわれていて、そこには何とも形容し難い欠落を窺わせた。悩んでいる陽介の目にまで、その様に映っているとは思えないが。一度、目を逸らし、三度クレープに視線を移した陽介は、意を決した様に口を開いた。そこで、月森は急に悪戯心を芽生えさせる。
「いただきま――って、うおっ!?」
ひょいとクレープを取り上げて、また口を開く。今度こそ抹茶アイスまで捉えて、そういえばまだ白玉を食べていないなと気付いた。
「つっ、月森! お前が食えって言ったんだろ!」
「いつまでも食べないから、いらないのかなって」
「食うから返せ!」
「返せって、俺が買ったんだろ」
ふふんと偉そうに笑い、クレープを奪還しようとする陽介の手を巧みに躱す。
(陽介って、揶揄うと面白いんだよね)
ムキになって取り返そうと、こちらのタイミングを計っている陽介を見て、漸く溜飲が下がった。
(こんなんで大丈夫なの、陽介?)
もっとちゃんとやる気を出してくれないと困る。本気で、――本気で落とそうとしてくれなければ。
月森がそんなことを少し考え込んだ隙を狙って、陽介は俊敏に手を伸ばした。そのまま持っていたクレープが奪われる。先程までの逡巡等は嘘みたいに、取り戻されるのを防ぐ為か、陽介は直ぐに口を開いた。
「うん。うめぇな!」
元は半分にする予定だったのだから、この状況は当然なのだが、どことなく釈然としない。月森が複雑な気持ちを篭める様に溜息を吐いても、クレープをすっかり気に入ってしまったらしい陽介は、パクパクと食べ続けるばかりだ。子供っぽいな、と思いながら、そうやって自分達は大人だと思っているのかも知れない、とふと思う。月森だって、世間から見れば、十二分にまだまだ子供なのだ。
(に、したって、子供っぽいよなぁ)
腹が空いていないとか半分こだとかもうそんなこと、陽介は忘れているのかも知れない。
(口にクリーム付いてるし)
「陽介、半分じゃなかったのか?」
「は、ほうはった」
「食べながら喋るな」
月森が行儀悪いと指摘すると、陽介は咀嚼を急ぎ、口に入っている物を慌てて飲み込んだ。噎せなければ良いけど、と月森は、上下する彼の喉の動きを見守る。首元も自分より細い。
「抹茶と生クリームって合うもんだなぁ。すっげぇうめぇ」
「それはようございましたね」
「悪かったって!」
これも作戦の内なのだろうかと思料しながら、月森は彼の口元に右手を伸ばす。ぱちりと瞳が瞬きを起こした。親指でクリームの付いた口の端を拭うと、途端に肩がぴくりと跳ねる。ティッシュやハンカチを持っていないので、拭ったものの処理に困り、月森は親指を舐め取った。こういうのは中々に可愛らしいアプローチだなと思っていると、陽介は驚いた様に目を丸くして、次いできょろきょろと落ち着かない様子で、左右に顔を振った。
「なな、な、なにしちゃってんの、お前!」
「何って、クリームがついてたから、取ってあげただけだよ?」
一瞬、陽介はふわっと笑みの様なものを浮かべた。けれど直ぐに押し込めた様に、少し開き掛けた口を閉じると、ふいと視線を逸らした。
「そんなに気に入ったなら、全部食べる?」
「や、いいよ。もう返すから」
後は全部食ってくれ、と陽介は押し付ける様にクレープを月森の手に戻した。その時、笑顔が少しだけ淋しそうだった理由が分からずに、月森は微かに眉を顰める。まだ半分以上残っていたクレープは、結局、全て月森の胃の中に収まることとなった。
それから暫くウィンドウショッピングの様なことをしたが、陽介はぼんやりとしており、月森の話も時折聞いていない様だった。ちゃんと注意すればこちらの話も聞くし、相槌も打ってくれる様になるのだが、また、油断しているとどこか遠くを見ている。それは丸で、夢想しているかの様だった。楽しくないという訳でもなさそうなのである。基本的に陽介は嘘が得意ではないし、感情が顔に出易い。嬉しい時は笑い、悲しければ泣く。そういう人物だ。陽介は、月森と話している時は、微笑んでいた。諦めた様に聞き流す社交辞令の笑みではなくて、優しげで、親しみが篭っていて、名の示す様に陽溜りにも似た温かい微笑みを向けてくれる。そこに偽りがないことを月森は知っているし、陽介が自分に偽りない笑顔を向けてくれるということは、常から快く思っていた。けれど、ふとした時、夢と現を分ける様に笑顔が消える。そこに、月森に気取らせる様な感情は映し出されておらず、それは月森を酷くやきもきさせた。良く分からない、霧の中を覗き込んだ時の様な焦燥感に引き摺られる。いつの間にか、自分が何をしにここまで来たのか、理由もそれに至る経緯も全て、忘れてしまった。
「付き合わせて悪かったな」
珍しく遊ぶ子供のいない公園の前に差し掛かったところで、陽介はふとそう言うと、感情を篭らせない瞳で月森の方を見た。辺りはいつしかオレンジ色から紫色に色を変え始めている。空の裾は、濁りのないグラデーションを生み出していた。絵の具を混ぜた時には、空で見る様な美しい彩りにはならないだろう。暮れる空の下で、数歩先に進んだ陽介は、振り返ってこちらを見ていた。
「お前が忙しいのは知ってたんだけど……無理言って正解。すっげぇ楽しかったし」
「――陽介、今日のは」
「思い出、ありがとな」
それだけ言うと、陽介はぱっと背を向けた。
(何で?)
可笑しい。何かが間違っている。そのまま遠ざかってしまいそうな背を、夕焼けに染まるハニーブラウンの髪の先を見詰めながら、月森は声を上げそうな衝動に駆られた。どうしてそんな風に、陽介は別れようとするのだろう。
好きだと言ってくれたのに。
(そうか――陽介の勝ちなんだ)
作戦勝ち。胸の内を全て振り返らなくても、そう気付いた。彼をこのまま行かせたくない。離れ難いと、陽介は月森に思わせた。今日したことは、友人同士と同じ風だったけれど、楽しむだけ楽しんで、去り際には切なげに瞳を伏せる。だから放って置けなくなった。最後だなんて、彼の口から聞きたくなかった。仮令それが敗北だとしても。
月森は慌てて手を伸ばすと、どこかに行こうとした自分よりやや小柄な背を背後から抱き締めた。
「敗けた。俺の敗けだよ」
「へ……、へっ? 俺ら、なんか勝負してたっけ?」
振り向こうとしたらしいけれど、上手くこちらを向けなかった陽介が、諦めた様に前を向いたまま、首を傾げた。うん、と顔を首筋に寄せながら頷く。
「そ、そうだったのか? えーと……、じゃあ、悪かったか……? 俺、普通に楽しんじまってて……」
陽介はしくじったと思ったらしく、曖昧に言葉を濁した。何かと気にし過ぎる嫌いのある彼らしい。その言葉を聞いて初めて、月森は強烈な違和感を覚えた。
「最後だし、いっぱい思い出作りたいってばっかだったからさ。勝負って良くわかんねぇけど、俺、お前の邪魔とかしてない、よな?」
急に自分の認識との齟齬を感じた月森は、突然のことに頭が一瞬、ショートし掛けた。
先程までの月森の極々主観的な認識に拠れば、陽介はこの一日で、月森を落とそうとしていた筈である。だから、こうして沖奈に出てきてデートをしたのだ。
「お前さ、ほんっとに優しいよなぁ。ちょっとツライくらい。あ、でも一個、親友として忠告しといてやっけど、ああいうの誰にでもしてっと、特に女の子なんかさ、自分に気があるかもって思うから、気ぃつけろよな」
こうやって後ろから抱き締めるみたいにするのも、と陽介は悪気なんて微塵もないみたいに笑って指摘する。月森は歯噛みした。陽介が腕を離させようとするので、決して抜け出せない様に、ありったけの力を篭める。
(何で、そんな簡単に諦めようとするんだよ)
陽介は、自分を好きになって貰おうとなんてしていない。最後の一日を、自分にとって一番の思い出に昇華させるつもりで、この場にいるのだ。諦める為に。終わらせる為だけに。
「月森?」
諦めないで、手を尽くして欲しいと思っていたのは、自分の方だったことに、やっと月森は気付いた。自分が望んだことを彼が望んでくれたことだと転換しようとしていたのだ。思えば、月森の考えと陽介の行動は、最初から殆ど重ならなかった。それでも、気付かない振りをしてまで『そうであれ』と望んだのは、惚れたら負けなのだと感じていたから。
(馬鹿だな……俺は最初から負けてたのに、気付いてなかっただけだ)
諦めない、誰にも渡さない、そう言って欲しかった。そうしたら、自分が負けていたことも帳消しに出来る。
気付いた時点で完全敗北だ。
「陽介、好きだよ」
「……うん……って、えぇっ!?」
「陽介が好き」
項にキスすると、陽介が腕をバタバタとさせた。
「なっ、ななっ、なにがどうしてこうなって……さ、さっきの敗けたってこれか!?」
「うん。正確に言うと、多分、俺の方が先に陽介のこと好きになってたと思うから、そういう意味で負け」
結局の所、負けても良いと思うから告白するのだ。そういう意味でも、月森は素直に敗北を認めることにした。
「な、なんかよくわかんねぇけど、負けとかって、ない、と思う」
「ない?」
「だから、どっちが先にとかそういうの。負けって……別に、俺は勝ったつもりねぇし。つか、いきなりなに? わっけわかんねぇ。考える時間をくれ」
「陽介、今からプリクラ撮りに行こうよ。なんだっけ、キスプリとか」
陽介が好きだと言ってくれて、月森も彼が好きだと言っているのだから、それ以上も以下もない。陽介が何を複雑に考え込んでいるのか月森には理解出来ず、両想いなのだからもう恋人同士になれたのだと単純に思っていた。
自分が望んだことを考えていたのだとしたら、陽介に奢るのも、クレープを二人で食べるのも、プリクラを撮るのも、全部月森が望んだことに他ならない。だったらもう、陽介がと言わせる必要はなかった。月森はやりたいと思ったことを陽介に提案すれば良いだけだ。
「は、はぁぁぁっ!? プ、プリ、クラ……。――やだ! 絶対無理! 今日はもう帰る! 帰らせて!」
しかし、陽介はどうやら月森の思ってくれたことには賛同してくれないらしい。それについては後々説き伏せれば良いなとしか思わなかったが、帰ると言われて時間帯に気が付いた。
「そう、だな。もう暗くなってきたし……」
春とは言え、まだ暗くなるのは早く、すっかりオレンジ色は遠のいている。仰げば、そろそろ星が見えてくる頃合いかも知れない。明日も学校はあるのだ、長居してもいられないだろう。
「だろ!?」
「今日じゃなくても、プリクラは逃げたりしないもんな」
「だからやだっての! だいたい、なんでプリクラ!?」
「デートならまだ何度も出来るし」
最初、腕の中ではぶんぶんと首を振って拒絶していたが、その言葉を聞いて、ぴたりと止まった。様子を見れば、耳が紅くなっている。
「一日なんて謙虚なこと言わずに、俺は今後の陽介の時間を、全部貰うよ」
「本気、なんだよな? さっきの……好きって……」
「冗談だと思った?」
陽介は小さく首を横に振った。
「ね、陽介、約束してよ。全部くれるって」
指切りしよう、と紅く染まった耳に囁いた。
とりあえず笑うといいと思います。(※ギャグのつもり)
陽介はこいつのどこがいいんだ……?
3秒でセンセイは陽介を落とせるけど、マイナス1万秒くらいは先にセンセイが落ちている。そんなイメージ。