昨日も行ったが、菜々子の見舞いを提案したのは陽介だった。意識が回復したとしても、まだ、油断ならない状況にある。弱々しい様子を見て、改めてそう思ったので、放課後、直ぐに心配しているだろう友人の肩を叩いた。二つ返事の月森が、臨席の千枝に伝え、伝言ゲームの様に、雪子に届き、彼女が直斗に連絡を入れた。そうすれば、りせと完二にも自動的に伝わる。陽介はクマに連絡をした。バイト中とのことだったが、見舞いである旨告げて、早引けして病院に駆けてきた。
「菜々子ちゃん、昨日より具合よさそうだったね」
長居するのも迷惑だろうと、結局面会は十分程度だった。どうしても、もう少し残りたいと粘るクマだけ、余り遅くならない様にと釘を刺して、病室に残した。一応、陽介の携帯を持たせてある。
「うん。良かったね、月森君」
目に見えて、菜々子の容態が良くなったということはない。快方に向かっているとしても、一日二日でどうこうという身体状態ではないのだ。あれだけ衰弱していたのを、陽介も見ている。けれど、具合が良くなっている様に見えたのは事実だった。それをこうして言葉にすることで、不安を解消出来る様な気がするが、言葉にしたのだろう。月森は、あぁ、と淡白に頷いた。淡白なのは、いつものことだ。喜怒哀楽が表に出て来難い。
少し、霧が出ている様に思えた。雨が続いた後の深い霧とは違うけれど、雰囲気としては、余り良くない。隣を歩く月森は、冬だと言うのに学ラン全開で歩いている。寒くないのかと聞いても、大したことない、と反応はクール。都会よりも八十稲羽は寒い。陽介はいつも寒くなってくると、マフラーを巻くのだが、もうそろそろ、その時期かも知れない。
「明日は、さすがにやめとくか。クマもうるせーし……」
病室から離れない、と梃子でも動かなかったクマのことだ、明日連れてきても、同じ事になるだろう。クマにとっては、ここにいるという約束を交わした相手でもあり、精神的に菜々子に近い為だろうか、非常に心を傾けている様に思われた。
(アイツの世界だからってのも、あるみたいだしな――)
部屋でも溜息を吐いているのを見る。今までには、そんなことはなかった。
「心配してくれてるみたいだから、有難いとは思ってるんだけどね」
「あんま、甘やかすなよな」
「陽介こそ。携帯なくて平気なのか?」
八十稲羽には慣れてきているが、冬の夜は暗くなるのが早い。少し心配になって、携帯を持たせたのだ。何度か勝手に奪われて、弄られているので、使い方に問題はないだろう。
「ま、平気だろ。つっても、このままクマ吉がここにいるんだったら、どうにかした方がいいかもしんねぇな……携帯買うと、一番安いので、月いくらくらいすんだ……?」
「やっぱり、陽介こそ甘やかしてる気がする。携帯まで与えなくても良いんじゃないか?」
「いなくなったら心配だろ。手伝いも、たまに遅くなるみたいだし……」
「まぁ、いないと、テレビに入れなくなるけど」
「それもあったか」
「陽介、お母さんみたいだな」
「煙たがられてるところとかか?」
くくっと喉で笑うと、月森は唇の端を上げた。
「お父さんには懐いてるんだぜ?」
「ばーか」
確かに、クマは月森に懐いていると言うか、慕っている。養ってやっているのは、こちらだと言うのに。
「アンタたち、よくそんな会話するよね……」
「最早夫婦みたいだよ、千枝」
背後から顔を覗かせたかと思えば、千枝はにやにやと笑っているし、雪子は真顔だ。後者の方が、マジっぽくて怖いのだが。赤いカーディガン一枚の雪子も寒そうと言えば寒そうだが、名前の所為か、その、どことなく人間離れすらしている様な超然とした様子に、寒さは感じていない様にも思えた。
「夫婦、か……そうだ。今日に因んで、一番いい夫婦対決をしようか」
「えっ、なんスかそれ?」
後方にいた完二が声を挙げた。
「だから、11月22日は、いい夫婦の日、だろ? 俺と陽介みたいに、誰が一番いい夫婦と呼ぶに相応しいペアか決めよう」
月森は、いつもと変わらぬ表情をしている。
(……アイツ、疲れてんだな、やっぱ)
菜々子がテレビに連れ去られて、随分と経過した。まだ身体の自由が効かないでいるというのは、心配だろう。おまけに家に戻っても一人だ。せめて堂島の叔父さんだけでも戻れば、淋しいこともないのだろうが、ここに来てずっと、菜々子や堂島と和やかに過ごしていたのを陽介も知っている。あの居間がとても暖かいことも。菜々子を救出する際の鬼気迫る表情も、陽介は間近で見ていたから、分かる。
「おーい、花村ー、なに、現実逃避してんの」
「千枝、私達なら一番取れるよ! 頑張ろう!」
「はいはーい、先輩! りせは審判役するね。だから、完二と直斗くん、ガンバ!」
「えぇぇっ! 何言ってるんですか、久慈川さん!」
「俺が、直斗と!?」
「……陽介、負けられないな!」
「っ……なにワケ分かんねぇこと言い出してんだぁぁぁ!」
「あ、やっとツッコんだ」
ツッコまざるを得ない自分の性分が、偶に嫌いだと思う陽介である。
千枝は特に不平を言うでもなく、雪子は寧ろ乗り気だ。千枝の手を両手で握っている。りせは、月森が自分と組む気がないと知っている為か、既に傍観者を決め込み、友人を茶化すのに精を出している様だった。りせに振られた完二と直斗は、戸惑っている。
「大体、完二と直斗が困ってるだろ」
仲間にするならこの二人だな、と即座に判断し、二人の間に割って入って、腕を掴んだ。
「しかも、男女揃ってるのに、なんで、俺と月森で、里中と天城なんだよ! オカシーだろ!」
「花村君、私と千枝の邪魔、するんだ……?」
うっかりなことを言ったら、女王様の逆鱗に触れたらしい。背後から冷たい声と視線を浴びせられて、思わず陽介は飛び上がった。
「陽介は照れ屋なだけだよ。誰も、天城の邪魔なんてしないからさ。だろ、巽、白鐘?」
雪子の絶対零度の視線に射貫かれている二人は、怯えた様にこくこくと頷いた。勝てないな、と陽介は一瞬で諦めた。夕陽が鮮やかに染め上げ、影が長く出来ている。
(……まぁ、バカすんのもいいか……)
現実逃避と千枝に言われた物思いではあるが、月森が気落ちしていることは事実だ。下らないことでも付き合って気が紛れるならば、それも悪くない。
「じゃあ、会場はウチってことで。行くぞ、皆」
まるで戦闘時の様なリーダーぶりで、月森は腕を突き上げた。皆がオーと声を合わせたところで、こんなことしていて良かったのだろうか、と陽介は一瞬思ったが、考えないことにした。
「と、いうわけで、いい夫婦の日対決ー! 司会は皆のアイドル、りせちーでお送りしまーす!」
ノリノリのりせが、ボールペンをマイク代わりに口に当てて、居間の中心で仁王立ちして叫んだ。こうして見ると、やはりアイドル。テンションが高いのが余計に、昔のCMのイメージを彷彿とさせた。また、アイドル業に復帰するのだろうかと思うりせのスマイルには、癒されるものがある。彼女と夫婦役の方が良かったと思うが、向こうに遠慮されるだろうことは分かっていた。
「って言うかリーダー、一番になるとなにかあるワケ?」
「考えてない」
さらりと月森は流した。
「賞品でもねぇと、やる気になんねぇっスよ……?」
「賞品が欲しいとは言いませんが、インセンティブは確かにありませんね」
直斗と完二が、面倒なことに巻き込まれたという表情で月森を見ている。
「なら分かった。優勝したペアには、俺が一つ、言うことを聞こう。ペアで一つな。あ、でも、出来る範囲で。キスしてとか恋人になりたいとかは、なし」
「えぇー、ざんねーん!」
「りせ、参加しないんじゃなかったか……?」
声を上げたのは彼女だけだったが、審判役、と最初から言っているりせは、そもそも参加するペアには入っていない筈である。思わずツッコんだ。
「頼まないから、誰も」
雪子がクールに言い放った。雪子も千枝も、直斗も首を振っている。完二は最初から、自分には関係ないものだと、発言をスルーした様だった。
「あ、陽介は例外で」
「頼まねぇよ!」
そもそも、月森がパートナーになるのならば、勝った際の褒美を貰えるものなのだろうか。考えてみれば、月森と陽介が勝った場合、月森にとっての褒美は自分で自分に対してなされるものであり、つまり、彼にメリットはないのではないだろうか。
「っつか、お前、勝ってもなんもねぇじゃん?」
千枝と雪子は、勝ったらビフテキ奢って貰おう、と話が一致している。それで喜ぶのは主に千枝だけなのだろうが、雪子はそれで結構と言うのだから、それで良いのだろう。直斗と完二は二人で、何を頼もうかと何やら話し合っている。意外にも乗り気の様だ。こういう時こそ、普段、おちょくられている仮を返そうと思うのかも知れない。
「あるよ。勝てば、ビフテキ奢らなくて済む」
「得ねぇだろ、それ」
「良いんだよ、別に。目に見えない物にこそ本質があるんだから。陽介は俺が損しない様に、頑張ってくれるだろ?」
にこり、と笑う月森に、陽介は両肩を上げた。頑張るも何も、どうしろと言うのだ。
「ルールとかはないから、夫婦らしいことしたら、りせがポイント付けてくれるんじゃないかな?」
「雑だな!」
「よし、夫婦らしく、ポッキーゲームでもしようか。じゃじゃーん、ポッキー登場」
月森はどこから取り出したのか、赤いパッケージのお菓子を取り出した。ぺりぺりと切り取り線から開け始めている。
「どっから! ってか、それは11日前のネタだろ!」
11月11日はポッキーの日、とは聞いたことがある。ポッキーゲームだのどうだのと言われるのも知っている。何でポッキー? と思ってネットで調べたら、1がポッキー・プリッツの形に似ているからとのことの様であり、世の中、不可解な記念日があるのだなと思ったものだ。
「でもほら、ポッキーの日にはやらなかったし……」
中袋を開けて、月森はポッキーを一本取り出した。昔に比べると、細めに作られている様に思われる。手持ち部分があって、チョコでコーティングされている、見慣れたお菓子。チョコとプリッツが融合しただけだと侮っていると、食べる手が止まらなくなるので厄介だ。
「だからって、遅れてやる必要ねぇだろ!」
「往生際が悪いぞ、陽介。はい、端っこ食べる」
反論する前に、ポッキーを口に突っ込まれた。このままだと本気でポッキーゲームに雪崩込むと危惧した陽介は、口に詰め込まれた端を噛んで、そのまま引っ張る。反撃されるとは思わなかっただろう月森の不意を衝き、そのまま指から引っこ抜いてやった。そして咀嚼。
「まぁ、ポッキーに罪はねぇな」
食べていると癖になる味だ。実に美味しい。
「くっ……ガードが、堅い……!」
「せんぱーい、元気出して! 今の、夫婦漫才みたいで良かったよ! 100点!」
りせが明るく微笑んだ。夫婦漫才認定はアレだが、点数については、りせのジャッジならばこちらに可也有利になってくれるらしい。これは勝機がありそうだ。
「ちょっ、なにそれ、りせちゃん、甘すぎ!」
「負けてられないよ、千枝」
「よーし、一番、千枝と雪子、二人羽織します!」
「食べ物、ある?」
「ポッキー位なら」
月森が自分も一本をもぐもぐと食べながら、赤いパッケージを掲げた。最近、真っ当に食料品を買ってこないとは聞いていたが、食べる物がポッキーしか本当にないのかと思うと、不憫だ。コンビニでも近くにあれば良いのだが、ここはど田舎八十稲羽。何もない。ジュネスに行く位しかないだろう。
「完二と直斗くんも、ポッキーゲームやりなよ!」
りせは「先輩、いっただっきまーす!」と言いながら、二本、ポッキーを取り、一本は自分の口に運び、もう一本をずいっと直斗の目の前に突き付けた。
「えぇぇっ!? 無理! む、無理です!」
千枝と雪子の二人羽織は、りせ的にそれ程の面白みはなかったようである。恥ずかしがる友人二人がりせの新たなターゲットとなった。修学旅行での彼女の暴走を知っている陽介としては、こういうノリを彼女が好んでいることは直ぐに分かった。これが、高校生の一般的な遊びであると、思っているのだろうか。少なくとも、王様ゲームは聞かない。
(合コン喫茶も、まぁ、アレだったけどな……)
一応弁解しておくと、アレは、ネタである。本気でやるなんてことは考えていなかった。月森は「俺は陽介の案にいつだって賛成するよ」と素晴らしい笑顔を向けてくれたが。
「陽介、夫婦って言ったら、アレだよな。ご飯にするって奴。あれ、やってよ」
「だが断る」
「照れなくても、陽介一択だよ」
「お前、酔ってるんじゃねぇのか……?」
「あるじゃん、ヨーグルト」
いつの間に千枝が冷蔵庫を開けていた。人の家の冷蔵庫を勝手に漁るなよ、と思えば、後ろから雪子も「卵あるよ。卵焼き作ったらどうかな?」等と覗き込んでいる。お前等に卵焼きが作れるのか、と言おうとすれば、月森は「やっぱり裸エプロンはロマンかなぁ」とかぶつぶつ言っていて聞き捨てならない。赤面する直斗に完二が止めろと叫んでいた。
「嫁入り前の身体に、なんかあったら困んだろーが!」
「ヒュー、完二のヤツ、カッコイイじゃん」
「うん。今のよかったよ、完二! えっと、10点!」
「低ッ! リーダー補正、高過ぎじゃん!」
「せんぱーい、りせがやってあげるよ、お帰りも裸エプロンもっ!」
「俺には陽介という妻がいるから」
月森が掌を向けて押し留めると、りせは両手を頬に当ててきゃっきゃと笑う。
「先輩ってば、超一途でカッコイイぞ! もう、1000点!」
「勝負にならないですよ、これ……」
直斗が額に手を当てた。陽介が背後から目を離した隙に、じゅうっと何かが焼ける音がする。振り返れば、オレンジ色のフライパンが、コンロの上に乗っていた。
「卵焼きって、卵いくつ使うの?」
「兎に角、一杯」
一杯ってなんだアバウトな。陽介も料理には疎いが、二人が失敗する理由が何となく伺われる。卵焼きで、食することが不可能な物が出てくるとは思えないのだが、既に焦げた匂いがしているのでは、不安だ。
「りせちゃーん、手料理は何点?」
「えっとぉ、上手に出来たら10点ですけど、先輩たちだと……」
「言ったな……んなら、美味しく出来たら、10000点を要求する」
「じゃあ、味見役は完二ね」
「俺!? あーっと……先輩ら、とりあえず、食えるモンでお願いします……」
「完二君、私達のこと、何だと思ってるの」
「雪子、なんか、ヨーグルトドロドロしてきたよ?」
「待て待て待て! お前ら、なに作ってるんだ」
卵焼き、と二人の声がハモった。
「卵焼きのどぉこにヨーグルトが入るんだよ!?」
この二人は家庭科の授業を受けていないのだろうか。中学の頃に、卵焼きを作った様な気がするが、あれには卵と調味料以外に必要な物はない筈だ。
「千枝、これ、インスタントコーヒーの粉。隠し味に使えるんだよね?」
陽介が近付くと、棚を漁っていた雪子が目を輝かせた。千枝も後ろから近寄って、おぉーとか声を上げている。
「カレーとかで使うって言ってたもんね! よし、入れちゃおう!」
(ダメだコイツら……早くなんとかしないと……)
カレーの隠し味にチョコだコーヒーだとは聞くが、何にでも万能な隠し味な訳はない。
「ままま、待ってください、先輩方!?」
陽介が微妙に諦め出したところで、直斗も悲鳴に近い声を上げた。
「直斗くん、邪魔しちゃ駄目」
「七味は入れないんですか、先輩たち?」
「入れんな! 頼むから、これ以上、カオスにしないでくれ! 月森、お前も止めろ!」
「巽、ご愁傷様」
月森は目を閉じて両手を顔の前で合わせた。
「手ぇ合わせんな!」
「陽介、それより今度こそポッキーゲームしようか」
「お前は諦めろ!」
「千枝、そういえば、板チョコ持ってなかった?」
「はっ、盲点であった……!」
「頼むから、もう突っ込ませんなぁぁぁぁぁぁ!」
「はいポッキー」
不意を衝かれて、口にポッキーが突っ込まれた。抵抗するより先に、月森が片側のポッキーを加える。
「やっぱりこれ、間怠っこい」
そう言って月森はポッキーをボキッと折ると、顔を近付けてきた。慌ててソファに置いてあったクッションを取り上げて、間に差し入れる。
「迫る先輩、かっこいいー! やっぱり優勝は先輩だね!」
「もうそれでいいから、完二、死にたくなかったらヤツらを止めろ!」
「ういっス!」
「先輩方、もう勝負は終わりらしいので止めてください――って、焦げてますよ!」
「あ、俺、今日、カテキョのバイトがあるんだった。御免、皆、解散」
月森が手を上げてそう言うと、鶴の一声と言う様に、静まった。そして皆、はーい、と頷く。
「っこの……自由人め……」
陽介が一人で項垂れているのを尻目に、千枝と雪子は直ぐに切り替えて、コンロの火を止めた。
「じゃあ帰ろっか、千枝。ビフテキじゃないけど、うちでご飯、食べてく? 明日休みだし、泊まってってもいいよ」
「あ、いいねー、天城屋旅館の食事、好きなんだ。たまには泊まってくのもいいし! んじゃまたね、月森くん。花村、ベストいい夫婦、おっめでとー」
ある意味、非常に良い夫婦であると言えそうな、千枝と雪子は、今日も二人仲良く去っていく。
「先輩、バイト頑張って。完二、ちゃんと送ってってよね!」
りせがバシッと完二の背を叩いた。直斗がオロオロと、台所の方を見ている。フライパンの上には、ヨーグルトとインスタントコーヒーの粉、そしてチョコレートが半分。全部、溶けている。
「直斗、そこは俺がなんとかすっから、お前は完二に送ってもらえ」
「ですが」
「いいって。アイツらの無茶苦茶は慣れてっから。お前の所為でもねぇし」
「……二人きりになりたいということでしょうか?」
「帰れ」
「ではお言葉に甘えて」
直斗はペコリと一礼して、先に玄関の方に向かった友人二人の方へと向かう。
「お前はバイトなんだろ? 後ならなんとかしとくから」
「直ぐにって訳じゃない。手伝うよ」
「いいよ。バイトの準備とかあんだろ? 大したことにはなってねぇみたいだし」
フライパンを水で洗えばどうにかなることだろう。陽介は学ランの腕を捲った。これでも、食器洗い位ならば家でもやらされることがあり、慣れているのだ。
「……冷蔵庫、マジで空なのな」
「あぁ、独りだから」
椅子に、いつから掛けられていたのかと思う、縒れた緑のエプロンが掛けてあった。一応、制服を汚すのも困るので、それを借り受けて、フライパンをシンクに移す。水を出すと、まだ熱が残っていたフライパンがじゅわっと弾ける様な音を上げた。
「ジュネス、来いよ。特売品教えてやっからさ」
「分かるんだ?」
「当然だろ」
陽介は振り向いて片目を瞑った。
「値引きシールもオマケして貼ってやるぜ?」
「……陽介、良い奥さんに見える」
「そらどーも」
「準備してくる」
水で汚れを落とし、乾いたスポンジを濡らす。水を止めて、食器用洗剤を少しだけ垂らし、フライパンに擦りつける。水音が消えて、騒がしかった部屋に、静寂が降りる。先程までは、日が暮れたことを意識しなかったのに、気付けば夜の帳が家を覆っていた。ここで独り、月森はそうして過ごしている。賑やかに過ごせば過ごす程に、募るのではないだろうか。
「クマ、もう帰ってっかな」
月森の携帯の番号を教えてあるが、着信はなかった。
スポンジで汚れを落としたところを、水でざぁっと泡ごと流し落とす。水切りをして、水切り台に乗せた。出しっ放しのヨーグルトを冷蔵庫に仕舞い、インスタントコーヒーを棚に戻す。
「……ポッキーゲームくらいなら、付き合ってやってもいいか」
ふと背後のテーブルに置き去りにされた赤いパッケージを見て、思った。明日は祝日、勤労感謝の日。家に独りでいるのも気が滅入るだろう。予定がないなら、沖奈辺りに出るのも良いかも知れない。
翌日「やっぱり陽介と俺っていい夫婦だと思う。陽介は気が利く良い奥さんだ」と、月森には言われる羽目になるのだが。
陽介のツッコミが好き。